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 母の身体が決定的に損傷する様を目の当たりにすると同時に、全身を纏っていた鎧が解けた。

 核を媒体にして放たれた分解の魔法の余波による影響だ。

 正真正銘一度限りの切り札は、レニの魔力すらも無力化した。それだけの力だったからか、龍種にも効果はあったようだが、正しく機能するまでには時間を必要としたみたいだった。

 その猶予をもって、龍種は母の胴体を引き裂いた。それを止める術なんて、どこにもなかった。

 怒りすら覚えなかったのは、そのまま自分も殺されると確信していたからか。

「――」

 急に、こちらに興味を失ったみたいに、龍種は空を見上げて飛び立った。

 どこまで上昇していったのかは判らない。もう光がまともに徹るような環境ですらなかった。ただ、世界がより一層に縮小していっているのは、肌で感じ取れた。

「レドナ、そっちを持て。――おい、ぼけっとするな! 無駄死ににするつもりか!」

 リッセの鋭い声が響く。

 それに背中を押されたからというわけでもないだろうけど、ミーアがまた俺を抱き上げて、移動を再開した。

 龍との距離が離れていく。

 それに比例するように、母の呼吸が薄くなっていく。

 呆然とした胸の内に感情はない。

 景色が流れていく。世界が消えて行く。……トルフィネが近い。

 もはや障害となるものはなく、無事に孔を潜り抜ける。

 蒼い空が、やけに眩しかった。

「これで全員だ! さっさと遠ざけろ!」

 地面に着地するなり、リッセが叫ぶ。

 その視線の先に居たのは、イル・レコンノルン。

「彼女の話を疑ったわけではないが、まさか本当に生きているとな。こちらも嬉しいぞ、リッセ・ベルノーウ」

「気色悪い事言ってないでさっさとやれ! 準備は出来てるんだろう?」

「無論だ。あのような怪物をこれ以上トルフィネの傍に置くことなど許されない」

 そう答え、イルは左手を軽く上げた。

 その合図と共に、足元から強い魔力が広がってくる。

 魔法陣が起動したのだ。地下にどれだけの魔法陣が敷かれているのかは不明だけど、これはおそらく空間に纏わるものだ。つまりは転移門に関係している力を機能させたんだと思う。

 それを物語るように、異世界へ続く孔が別の孔に呑みこまれた。そしてそれは、トルフィネから高速で離れていき、やがて完全に視界から消えてしまう。

「どこまで動かしたんだ?」

「魔域の手前あたりだ。あそこなら、龍が再び出てきてもこちらに被害が齎される事はないだろう。……それはそうと、問題がまだ片付いていないようだが?」

 母に視線を向けながら、イルが言う。

「脅威は既に片付いてる。それ以上は要らないだろう?」

「そういう訳にはいかない。面子というものがどれだけ大事なのかは、そちらの方がよく解っているはずだ」

 その言葉が終わると同時に、四方から鋭い殺気が届けられた。

 数の程はわからない。ただ、今の自分たちを制圧するのに苦労する事はないくらいの戦力だというのは、肌で感じ取れた。

「……この程度で従うと思われるとか、舐められたもんね。あたしたちも」

 リッセの気配に剣呑が宿る。

 当然、この近くにはラウたちもいるんだろう。それは戦闘の合図にも等しいもので、場の空気が一気に重苦しいものになる。

 だが、イルも退きはしない。迎え撃つ意志を固めた事を示すように、鋭利な魔力を滲ませていく。

 結果、膠着が生まれようとしていたが、今の脅しが駄目だった時点で引き時だと決めていたのか、リッセは小さくため息をついて、ゆったりとした足取りで彼の元に歩き出した。

 魔力を完全に引っ込めた彼女に、イルは警戒を残したまま、しかし接近を許す。

 そうして手が届く距離を手にしたリッセは、イルの耳元に顔を寄せて、なにかを口にした。……いや、違う。こちらからでは見えなかったけれど、彼女は頬にキスをしたのだ。

 それが分かったのは、顔を離してすぐに唾を吐いたうえに、乱暴に唇を手で拭ったから。

「大進歩だろう? だから、これで見逃して」 

 ……普段の彼女なら、けしてこんな自分を売るような方法は取らなかっただろう。

 でも今は時間がないから、おそらくこの場で一番有効に機能すると判断した選択をしてくれたんだと思う。他でもない、俺と母の最後の機会を長く残すために。

「私が欲しいのはその優秀な血と子宮であって、性的な戯れではないのだが……まあ良い。本当に殺し合いをするのは、こちらも避けたいところではあるし、たしかにもう長くはなさそうだしな」

 魔力を引っ込めて、イルはこちらから背を向けた。

「撤収だ。迅速に行うといい。……それと、数時間ほどは誰もこの領域に入れないようにしておけ。修復作業は翌日からとしよう」

 最後の言葉は、リッセの意図を察しての事か。

 地下の魔法陣の残り香を使い、イルは空間転移をもって姿を消して、他の気配も忠実な部下らしく即座に遠ざかっていった。

 それを見届けたところで、

「これで貸し借りはなし。あたしたちも行くわ。レドナ、火を」

「……ええ」

 リッセの言葉に頷いたレドナさんが懐から火石を取りだして、それを一緒に連れて来てくれた母の身体の下半分の脇に置いた。

 火葬の為に使え、という事なんだろう。

 この世界において、死者は炎によって空に還すというのが一般的な弔いとなっている。一部の灰と核の残骸を子瓶かなにかに詰めて、それを形見にするのだ。

 瓶は、具現化の魔法で作れるから、問題はない。

 終わった後の始末は、滞りなく行える事だろう。

「……」

 母に、視線を落とす。

 彼女は眼を閉じて、短い呼吸を繰り返している。魔力による止血はまだ機能していたけれど、その魔力自体が綻びはじめていて、あと数分もないというのが見て取れた。

「あ、わ、私もこれで――」

「……居て、貴女も、ここに」

 今ここに自分が居るのは場違いだと感じてか、慌てた様子で言ってリッセの後を追い駆けようとしたミーアを、消え入りそうな母の声が制止した。

 それから彼女は俺の方を見て、

「ねぇ、蓮、昔の私は、どんなだったかしら?」

「……」

 なんて答えるのが正解なのか、俺には判らなかった。

 そんな俺に向かって、彼女は震える手を伸ばしてくる。

 慌てて掴み取ったその手は、雪のように冷たかった。

「覚えているのは、我慢する事しか出来なくて、誰かの顔色ばかり窺って卑屈でいた事。今の私が出会ったら、きっと、苛々して、それだけで殺してしまっていたかもしれない」

 ふふ、と母は力なくわらう。

「蓮は、昔の私の方が良かったって、思ってたのかもしれないけれど、私は変われて良かったって、ずっと思ってた。……でも、昔の方が良かったって思う事が、一つだけあって……」

 言葉が、途切れた。

 指に込められていた微かな力が失われる。そうして滑り落ちてしまいそうだった手を、思わず強く握りしめると、微かにまた力が戻った。

 母の眼にもう光はない。

 多分、俺の姿も見えていない。

「あの頃の私は、けして、多くを望んではいなかった」

 うわごとのように彼女は言う。

「殴られない日があるだけで、それは良い日だったし、朝までぐっすり眠れるだけで幸せだった。……ねぇ、蓮、ちゃんと、お別れが出来る機会を得られる事って……十分、奇蹟みたいなものよね?」

「……うん、そうだね」

 縋るような表情を見せた母に、俺はただ頷く。

 それに安堵をしたのか、彼女は眼を閉じて、

「最後に、私の杞憂だったらそれでいいんだけど、一つだけ、伝えておくね」

 と、昔のままの、どこまでも優しい声で言った。

「蓮、貴方は誰かを幸せに出来るわ。だって、私がそうだったんだもの。幸せだった。ここまで追い求めるほどに。だから……」

「…………違う。だって俺は……俺は……」

 ずっと重荷にしてきた。

 それから逃げるように、考えないように生きてきた。

 そして再会した時は殺す事だって考えた。そんな奴が齎せるものなんて、まやかしの幸福でしかない。ただ夢が醒める前に終わっただけで、それだけで……

「知っているわ」

「――え?」

「だって、貴方は昔から現実的だったもの。現実的な選択で私を大事にしてくれたの、わかってる。わかってるんだよ。だって、私は貴方のお母さんだもの。酷くても、狡くても、それだけは自慢なんだから」

 唇を綻ばせ、触れる指先に込められていた残滓のような力を手放して、

「幸せになって。それが私の最後のわがまま。……愛しているわ、蓮」

 ……そうして、もう二度と動かなくなった。


       §


 人払いがされた一画に、炎があがっている。

 きっと、上等な火石だったんだろう。柔らかな色合いの全てを静かに溶かすような力が、そこには宿っていた。

 ……あと、どれくらいで彼女は灰になるんだろうか。

 結果を急ぐ理由はどこにもない。だから、ただ、彼女を空に帰す炎を見つめる。

 不思議な気持ちだった。後悔だけじゃない。悲しみだけじゃない。この身に宿っている全ての感情が、この炎のように静かに燃えて、やがて尽きようとしているような、そんな感じ。

 死ぬ間際の母もまた、そうだったんだろうか。

 そうだったらいいなと、心の底から願うけれど……

「……どのような方だったのですか?」

 躊躇いがちに、傍らのミーアが口を開いた。

 視線を向けると、彼女は怯えたような表情を浮かべていて、その行為がけして、なんとなくではない事を物語っていた。

「どうして、そんなことを?」

 もう死んでしまった人間だ。知ったところで何もない。

 思わず突き放すような言い方をしてしまった自分に嫌気が差したが、それでもフォローを入れる気にはなれなかった。

 どちらにしても、いつもならそこでこの話題は終わっていただろう。けれど、強い憂いを宿しながらも、彼女はこちらから目を逸らす事無く言葉を続けた。

「……命の恩人ですから。知っておきたくて」

「恩人?」

 はい、と頷き、ミーアは自身の胸に手を当てる。

「擬似核が壊れた時、私は本来死ぬはずでした。でも、こうして生きているのは、彼女が破裂した核を分解したからです。接触の機会はありましたから、私がそうなる前に仕込んでいたという事なんでしょう。剥き出しの核を用いたからこそ出来た業だとは思いますが」

「……そう」

 どうして最後の時間を、俺だけじゃなくてミーアとも共有しようとしたのかが解った。

 なんとも寂しい話だ。もう「ありがとう」も言えないのに、「ありがとう」って言いたい気持ちが生まれてしまった。

 そのもどかしさを吐き出すように、俺はとりとめもなく母の事を話し始めた。

 暗い内容が殆どだったけれど、彼女はそれをじっと聞いてくれた。

 なんとも嫌な繋がりの深め方だと思う。……でも、それでも、ミーアには知ってもらいたかったのかもしれない。倉瀬蓮という人間の本質を。

「……彼女にとって、私はきっと神様のようなものだったんだと思う。でも、私にとってはそうじゃなかった。いつだってそこには溝があって、時々息苦しさを覚えた事もあった。……だけど、そうだね、実際は、そう大差なかったのかもしれない」

 炎は静かに燃え続けている。

 すでに母の身体のいくつかは灰となって、空へと溶け始めていた。

 もうじき、この火葬も終わる。

「私は、彼女と同じくらい面倒くさくて、狡くて、酷い人間だ。それでも……」

 この先の言葉を口にするには、勇気が必要だった。

 もっと重たいものを押し付ける事になる気がしたからだ。母の遺言が無ければ、絶対に選びはしなかっただろう。

 ミーアの無事な方の手に触れ、こちらに向けられた彼女の眼を真っ直ぐに見て、俺は言う。

「それでも、君を幸せに出来ると思う?」

 これほど歯の浮くような台詞を、これだけ重苦しく口にするのは、きっと最初で最後だ。

 彼女の答えは判っている。判っているからこそ、これは結果が重要な告白じゃなかった。

「レンさま、それは愚問です」

 こちらの手を握りしめて、ミーアは淡く微笑む。

「私はもう、ずっと前から幸せですから。もちろん、多くの事を知った今も」

「……ありがとう」

 母に言えなかった分の想いも込めて、彼女の手を少しだけ強く握り返して、俺は再び炎に視線を戻した。

 全てが燃えて灰になるその時まで、その光を見続けた。


次回は六日後の日曜日に投稿予定です。少し間隔が空いてしまいますが、よろしければ、また読んでやってください。

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