春になったら
春には、まだ少し間があるけど、
春になったらという言葉が、
どこからともなく、聞こえてくる。
いや、聞こえてはいないのかも
知れないけど、
春の訪れが、今年は特に待ち遠しい。
真司は、隣の課の香織と、
桜を見に行く約束をした。
恋の始まりになるかも……
二人が話をし始めたのは、
新年会の帰り道、
春になったら花見にいかないかと、
誰かが口にしたのが、きっかけだった。
初めは、盛り上がった話も、
結局、誰も音頭をとらずに日が過ぎ、
真司もそれを忘れかけた頃だった。
乗り合わせたエレベーターで、
お花見、行かないんですかと、
香織に声をかけられた。
真司はとっさに、
二人で行きたいと言った。
自分でも、なぜ、
そうすんなり言えたのか、
不思議だった。
自然に気持ちが声になったのだ。
きっと、恋が始まる時は、
あっけないぐらいに、
単純な出来事で始まるんだろう。
真司は神様に感謝した。
今日も携帯が震えている。
香織の声が聞ける時間が
やって来た。
「……桜、見にいこうね」
「うん、行こう」
「……行ってみたいところが
あるんだけど?」
「そうか、どこ?」
寝ても冷めてもと、
そう言われてもしょうがないほどに、
真司は香織と過ごせる春を、
夢見ていた。
「弥生川の上流にある
桜の木がいいなと思って。
その木ってすごく大きいんだけど、
案外知られてないらしいの」
「それって、僕が……」
「えっ、知ってるの?」
「……いや、知らないよ。
聞いてて、面白そうだなって」
真司は、弥生川の上流にある、
大きな桜を知っていた。
桜の花、思い出の花、
それは、巡り来る春の花。
真司は香織の口から、
そんな花に纏わる場所を言われて、
それもとっさに、知らないと言った。
香織には、自分の思い出を、
言い出せなかった。
知っていると言えば、
もっとたくさんの嘘を
ついてしまいそうで。
恋のはじまりには、
ありのままの気持ちに、
少しだけ嘘がかぶさるものか。
待ち遠しい春の手前で、
二人には、
まだ肌寒い風が吹いている。