後悔は、私を電池切れかけの猿のおもちゃのようにさせる
どこにもいけない感情が内で風船のように膨らんで、パンと弾ける。
すると、私は「あー」だとか、「うー」だとか喉からへんな音を出すことが出来る。
とても自然に。
もしくは、顔をしかめたり、頭を抱えたり、地団駄を踏んだりする。
これはとても不自然に。
事前準備が不足していたとか、元々向いてなかったとか、体調が悪かっただとか、向こうが悪かっただとか色んな言い訳を並び立ててるうちに、次の風船が”空気注入器”の注入口にセットされて、また膨らんでいくのだ。
そんなループが、私の人生の糧となるなら大いに嬉しい。だけど、実際はそうでないだろう。慰めにはなるだろうが。
これを後悔と呼ぶ。
後悔に苦しめられているようで、実際には助けられているという皮肉めいた事実がある。慰めは心の自助作用であるから、私は私に対して自然と優しいのだ。
後悔とは何だろうか?
後悔を生み出すのは負の感情で、これは悲しみや怒り。時には喜び。これは私のエネルギーの源で、これを糧にすれば普段できないような大きな活動を行うことが可能だ。
これを後悔という生産性のない慰めに使うのは、とても勿体ないことだ。私にとっての正しさは常に”過去を糧に生きろ”というところにある。だから、正義に従うなら、後悔を嫌わざるに得ない。
しかし不意に襲ってくる後悔というものは、ある種避けようがない。これは集中状態にあるときは、敵とはならないが、脳のリソースを退屈な思考活動に費やしているときには、大いなる敵となり、大抵は心を摩耗させる。
心の摩耗は先の風船だ。私の場合は風船が破裂すると、なんとも体面が悪い様子を人様にお見せしてしまうこともある。
こういうとき、私は自分を弱い人間だと評価する。
じゃあ、強い人間になるには後悔をしなければいいのだろう?
それならば、いつだって何かに集中して生きていればいい。簡単なことのように聞こえる。
でも難しい。ほんとはそうあるべきだと思うことが、また後悔を生み出す種になる。
いつだって夢中になっている人間なんて居ないのだ。だから、人は時折、後悔の手先になってしまう。
つまるところ、後悔が嫌いだ。って話。