列車
百年ほど前までは、この世とあの世を隔てる川は三途の川と呼ばれ、死者はその川を船によって渡されたのだという。
それがこのように列車の形になったのがいつのことなのかは、乗務員にも分からないそうである。あの世にも効率化の波及があったのか、それとも渡し船というモチーフが現代人に理解されがたくなったのか。
運ばれる側としては、船だろうが列車だろうが変わらない。自分の足では届かない場所に運ばれるのは同じだし、運賃を払えなければたどり着くべき場所に到達出来ないのもまた同じである。強いていえば乗ってすぐのような混雑は渡し船では味わう必要がなかったのかもしれないが、ほとんどの客はもっと早い駅で姿を消した。
私はもっと先の駅まで降りることが許されない。長い時間電車に揺られるのはそれだけあの世の奥に行かねばならないろくでなしということだそうである。
あの世の渡しについて乗務員と話し込めたのも、私がもう三日ほどこの列車で旅をしているからだった。彼らも私のような重症の輩を乗せるのは久々と語った。なんでも、運ぶべき者がいなくなれば引き返すのがこの列車の運用らしい。三日も乗せられているのは彼らも同じなのだと同情すると、一杯だけ酒をくれた。零れてしまってはもったいないが飲み尽くしては旅の楽しみが無い。私は指先を液面に触れさせて、それを舐める形で酒を嗜んだ。
「次は牡牛、牡牛。お出口は右側です」
くぐもったアナウンスが車内を満たした。ずっと草原を走っているような車窓には楽しみはなく、数時間ごとに聞こえるその無味な声だけを楽しみにあの世の旅は続いている。
この列車はとても効率的に運行されている。降りる者がいない駅では止まらないのだ。私は新たな駅の名を噛み締めた。牡牛。真っ先に思い出したのは星座の名である。しかし、名を星座に限っているのかと言えばそんなことはない。その声が告げる駅名は四や十五、三十六のような数字であったり、秋であったり、木蓮であったり、時には人名のようなものであったりした。そして電車が遠くまで行けば行くほど、その駅名が示す情緒は繊細かつ詳細にその者が辿るべき道筋を示す。一人しか降りない駅など、その者のために態々止まったのである。何百人が降りた駅よりも余程濃く未来を映している、と私は感じる。
少し後、座席に押し付けられるような緩い衝撃を私に寄越しながら列車は牡牛駅に止まろうとした。動輪が悲鳴を上げてレールを掴む。ゆっくりと速度を失った列車が型にはまったように静止する。私は酒が零れないように必死に猪口を支えた。
駅に列車が止まっている間が、この旅で最も辛い時間であった。無味乾燥であるとはいえ、車窓が動いているのと止まっているのでは全く心地が違うのだ。少なくとも目的地に進んでいるという感じがしないと困る。興味本位に色々と訊きはしたが、私としてはこの列車の旅を気に入っているわけではないのだ。
イライラが募ると、指先が震えた。酒が零れそうになる。私は努めて冷静であろうとした。液面を見つめてただ落ち着こうと踏ん張った。だから、その液面を音の波動が揺らしたのにいち早く気づくことが出来た。
「毎度ご乗車ありがとう御座います。当駅では乗車されるお客様がおられます。大変ご迷惑をおかけしますが、暫くそのままでお待ち下さい」
私は驚いた。この列車は人によって降りる駅は違うだろうが、乗る駅は常にこの世、生きている人間の世で、降りる駅は常にあの世、死んだ人間の世であるはずだ。あの世からあの世へと結ぶ列車ではない。現に、そのようにして乗ってきた乗客は三日間の旅でもいなかったのである。
沸々と興味が湧いてきた。なんとしてもその待ち合わせの主と話してみなければならないと考えた。その興味に比して、酒を零さぬように持っていることの瑣末さといったら無かった。私はぐいと酒を一気に胃に流し込み、電車が動き出すのを待った。
「大変お待たせ致しました。当列車は只今発車します。列車の揺れにご注意ください」
大きく動輪が回り始める衝撃があって、列車は再び動き出した。
「次は勿忘草、勿忘草です」
膜の向こうにいるような不明瞭なアナウンスが、私の持つ切符に書かれた駅の名を告げた。私は弾かれたように立ち上がって、一号車を目指して走った。先程まで私がいたのが最後尾の八号車だったので、どこかで牡牛駅で乗車した者に会うはずである。
走っても走っても果てがないかと思われるような長い走行だった。急に酒を煽ったせいで足がもつれかけることが何度もあった。その間、乗客はたったひとりも乗っていなかった。
四つの敷居を跨いだ頃、ようやく人影を見つけた。私は息も絶え絶えになりながらその人物に声をかけた。
「アンタ。牡牛の駅で乗ったのはアンタか」
その人物は女性であった。驚いたようにこちらを見つめ、思案する様子を見せつつも首肯してみせた。
「そうですけど。どうかされましたか?」
不思議と言ったような顔をする女性に私は訊ねた。
「アンタ、どうして牡牛の駅から乗れたんだ。この列車はあの世とあの世の渡しではないだろう」
ああ、と納得したように首を揺らす女性は、微笑を浮かべて告げた。
「この切符を設えてくれたのは友人なんですけどね。どうやら間違っていたみたいで、牡牛では私は受け入れてもらえないそうなんです」
私の罪はもっと重いのだ、と軽やかに笑って見せる。その様が私には納得がいかなかった。胸が痛んだ。心臓が張り裂けそうな速さで鳴っていた。聞けば取り返しがつかなくなりそうな気がしたが、私は聞かずにはいられなかった。
「じゃあなんでアンタはそんなに満足そうなんだ。あの世に行くのが怖くないのか」
分かりませんか? と女性は首を傾げた。
「私の罪はもっと軽いと言ってくれた友人がいたんです。そんなに嬉しいことはなかった。それに」
さっと車内に影がさした。女性の顔が急に消えたように見えなくなる。
「ここはとっくの昔にあの世なんですよ」
車内を電気が照らし出して、その時には女性はもう笑っていた。トンネルに入ったのだと悟るのに時間がかかった。この列車の車窓が草原と駅舎以外のものを映したのははじめてのことだった。
「次は勿忘草、勿忘草。お出口は右側です」
「先程、私以外の乗客は今一人だけとお伺いしました。あなたの駅なのでは? 降りる準備をなさったほうがいいですよ」
私は続ける言葉を持たなかった。疑問に答えは得られたものの、納得がいっていなかった。ありがとう、さようならと別れられるような状態になかった。
それでも列車は止まる。私は降りなくてはいけなくなる。女性はまだにこやかにこちらを見ていた。