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清零

作者: Drealist

 これは江戸時代の物語である。



 風が木々をあおいでいる。まだ卯の刻ということもあってか、夜も明け切らず薄暗い。しかし冷涼な空気や垣間見える青空は、私の心身を共に澄み渡らせていく。空を仰げば、真青な空が広がっている。

 青空を見ると、母の事を彷彿と思い出される。私に「(はる)」と言う名を授けてくれた人。私が覚えているのは、母が私に「春の空みたく晴れるよう」、この名をつけてくれたと言う事だけだ。今は何処に居るのかすら分からない。

 川の流れが轟々と響き、昨夜の雨を海へと流す。やがてその音は別のうなりへと変わる。私は心底驚いた。何せ、この時刻にこれだけの人がいるのだから。人の声が唸りとなり、さらに川の流れとあいまって、酷い騒音となっている。しかし人々はそれにも関わらず、日常生活の話をしている。

 しかし。私には宿の主人に聞いた橋がどれか分からなかった。左を見れば橋が在り、右を向けば橋が在る。橋は建てられてから相当の年月を有しているらしく、その木材は川水と陽光で浅黒く変色している。

「済みません、お尋ねしたい事があるのですが……」

 私は擦れ違う重そうな荷を背負う男性に尋ねてみた。

「何だ」

 男性は余り機嫌が良くはないようで、顔をしかめて遥を見る。

「あの、『逢阪橋(おおさかばし)』とはどれなのですか?」

「は?」

 男性は私を訝しげに見る。

「あの、噂で『逢阪橋』の事を聞きまして、是非訪れてみたいと思ったんですが……」

 私は弁解する様に、男性に丁寧に説明した。

「ああ、あんたここに来るのは初めてなのか?」

「ええ、そうですが」

 途端、男性は頬笑み快く教えてくれる。

「あんたが立ってる所。ここが『逢阪橋』だよ」

「え?」

「初めは誰でも驚くさ。何せこんだけ橋が在るんだからな」

「はあ〜……」

 私は改めて辺りを見渡す。

「あ、じゃあ物見かい? 案内してやるよ」

「え、あ、いや、私は別に……」

 少々強引ながら、男性に腕を引かれる侭に歩く。

「ここは人が多いからねえ。仕事がはかどっていいんだよ」

 私はむりやり腕をほどき、仕方なく男性について行く。

「どうしてこんなに人が?」

 男性は再び怪訝な表情で私に向き直る。

「え? そんなことも知らないでここに来たのかい?」

「え、ええ。そうですが」

「はあ。珍しい人だねえ……」

 言葉に違わず、男性は私を珍しげにじろじろと見る。

「あんた『逢阪橋』って漢字、分かるかい?」

 少し腹の立った私は、ぶっきらぼうに返す。

「いえ、知りませんが」

 しかし男性は気にも留めず、説明を始める。

「出『逢』いと『阪』の在る『橋』って事だよ。歩いてみれば分かるだろ?」

「ええ。確かに、この勾配は、辛いですね……」

 想像以上に急な阪に、汗がにじみ出る。荒れる呼吸を抑えつつ、歩き慣れた様子の男性の足取りについて行く。

「ここは人の往来が多いからね。いつの間にか『出逢い』ってのがこの橋の象徴になっていったんだ」

「はあ、そうなんで……」

「あんたはこの橋の歴史に興味は有るかい?」

 乱れる呼吸で上手く話せず、会話は男性が一方的にする形になる。

「昔っからこの近辺には集落が多くてね。離れた集落の行き来の為に橋が建てられる事になった。その時に、何処と何処を繋げるかが問題になった。それを争っている内に、勝手に締結した集落が橋を建て始めたんだ。それを切っ掛けに次々と橋は建てられていった。それも権力争いをするかの様に、最も長く大きな橋を競ってね。そしたらこんなに橋が多くなった、という訳だ」

 黙る私を格好の餌食とし、男性は流れるように語る。

「ほら、そろそろ着くよ」

 私の少し先を歩く男性は、振り向き手招きをする。私はこれが最後とばかりに踏ん張り、男性の下へと駆けた。

 そこは素晴らしい情景であった。空と地の境を全方位見渡せるのだ。

「はあ……壮大な眺めですね……」

「そうだろ。この丘卦(おかけ)からの見る大名川(だいながわ)の眺望は、そんじょそこらの名所とは違うんだよな」

「おかけ……? だいな、がわ……?」

 聞きなれぬ言葉に、私は疑問を投げかける。

「あんた、本当に何にも知らないんだな……」

 男性は再三、珍獣でも見るかの様に私を見る。

「大名川ってのはこの逢阪橋の下を流れる川の事だ。丘卦ってのは、今俺達が立っている、ここの事さ」

 どうにもこの男性は説明するのが好きらしく、悠々と語ってくれる。

「ま、丘卦ってのはこの橋の中心って意味だと考えてくれ」

 これも好機だと、私は聞きたい事を訊ねる。

「それはどういった由来で?」

「あんた、外っ側から橋を見たかい?」

 男性は荷を下ろすと私に向き直る。

「ええ、見ましたけど。」

 私は弓形の橋を思い出す。

「他の橋よりも盛り上がってたろ」

 簡素な蜘蛛の巣の様な橋は、確かに緩い丘陵の様に盛り上がっていた。

「そうですね。何せ長いですからね」

 うんうんと頷く私を見て、男性は心なしか嬉しそうに話す。

「そう。その盛り上がってるのを『丘』にたとえたんだろうな。で、長いから歩くのは疲れる。疲れたら休む。休むには腰を『掛ける』。その場所がここだった訳だ」

「成程。」

 私は手をポンと叩き納得する。

「まあ、最近じゃあ、若い娘さんがここで占いをする事が多くなってな。それで占いって意味で『卦』って字を使ってるらしいけどね」

「占い、ですか」

 昇ってきた陽を手で隠す男性。陽射しは強く、今日も暑くなりそうな兆しを見せている。

「ああ、何でも流行なんだよ。俺も見習わないとな」

 言葉を切ると、男性は長椅子に座る。ふぅ、と彼がため息をつく中、私は景色を眺めながら訊ねる。

「どんな事を占うんですか?」

「人によって違うが、大抵は恋だとか、この橋での『出逢い』だとかを占ってるらしいよ」

 男性は食指を口に含むと、その指を外気に晒す。

「そうやって占うんですか?」

「いや、これは俺の商売上の占いでね。まあ一般的な占い方は、簡単に空模様や川の流れを見るぐらいらしいよ」

 私は首を傾げる。

「その商売上と言うのは……?」

「あれ、言わなかったっけ? 俺が商人だって」

 男性は荷を直ちに広げ、品物を並べる。

「あんたにも買ってもらうよ……あれ、兄ちゃん? 何処行ったぁ?」

 私は長年の経験から危険を察知し、早々と逃げていた。何も商人が嫌いな訳ではない。彼が嫌いな訳でもない。ただ損がいきそうだっただけである。駆け足で橋を下ると、切る風が心地良い。この景観の中、走っていると清々しくなっていく。私は足を緩め、景色を眺める。私はしばらく、大名川を眺めていた。

 流れは下るに連れて、細く分かれていく。流れは更に下り、海となる。ふと、足元に落ちている葉を川へと流してみた。悠々自適に流れるその様は、心惹かれる流れだった。



 川を眺め、ふと気付けば陽は傾いていた。どれだけ見ていても飽きない風景に、時間を忘れていた様だ。宿へと戻ろうかとも考えたが、その前にもう一度だけ丘卦からの眺望を拝みたい。そう思い、私はゆっくりと橋を上っていく。丘卦に着くと、もう商人は居なかった。人の波も落ち着き、彼も帰ったのだろう。

 朱に染まる景色は、昼のそれとはまた違う趣を醸している。川面が返す朱色の陽光は柔らかく、辺り一面を包み込んでいる様だ。しかしその景観は直ぐに崩れる。朱は暗くなり、光は陰る。白々しい雲が空に立ち込め、雫が舞い落ちてくる。その凄まじさたるや、まるで人を穿つ様だった。逃げる人の足音か、はたまた雨の打ちつける音か、私の耳にはばたばたとしか聞こえない。ものの数秒で、辺りに人は居なくなった。それはそうだろう。普通の人ならば、雨に打たれ濡れたくはあるまい。

しかし、私は雨に打たれるのが好きだ。雨の冷たさも、水を吸った衣服の重さも、雨を嫌えばそう楽しむ事は出来ない。雨を好むからこそ、知る快さも有る。何より雨に打たれれば、体を洗う事だって出来るのだ。よく私は特異な考えを持っていると言われるが、彼らには雨の気持ちを知る事は出来まい。何と言われようが、私は優越感に頬笑む事が出来るのだ。

よく、天が泣くと言う。しかし私には、天ではなく人の心が泣いているのだと思われるのだ。私には、雨は喜び以外の何物でもない。作物を実らせ、人をも潤す。私は舞う様に、雨の中で遊ぶ。歓喜に声を上げそうになった時、視界の端に人影を見た。それは女性であった。

 女性は立ちすくみ俯いている。まるで静かな苦しみに耐えている様に見える。しかしただ俯いているのではなく、どうやら川を見下ろしている様だ。

「雨が好きなのですか」

 私の声は雨音に消される。私が近寄ろうとすると、まるで磁石を介する様に女性は去った。騒がしい雨音の中、余りにも静かに彼女は消えた。




 私は丘卦で人を眺めていた。かれこれ一時間にもなろうか。左から右へ。右から左へ。視線をあっちこっちへと漂わせ、その表情を見ていた。時偶、訝しげに視線を返す人も居るが、私は気にせず人の波を見つめ続けた。観察の結果、その波にも緩急が有る事がわかった。

 

 目を覚ますと、空はどんよりと曇っていた。いつの間にか眠ってしまったらしく、あれ程居た人は、今では皆無である。空は昨日と同じく、今にも降り出しそうだ。立ち上がり雲を眺めていると、女性が佇んでいるのに気付く。それは矢張り、昨日の女性だった。女性は相変わらず、川面を見つめている。そう言えば、昼間の人波に彼女は居なかった。私が見落としたのか、彼女が人嫌いなのかは分からない。知りたくば、話しかければ良いのだ。私は声をかけるべく近づくが、又も女性は去っていった。本当に磁石がそこに在るのではないかと考えてしまう。私は掌をじっと見るが、磁石など持っている筈もない。私は後追いせず、仕方なく帰ろうと考えていた。しかし彼女がここに居る道理を考え、立ち止まる。川を恨めしく見つめる女性。昨日に至っては雨に打たれていた。自分を棚に上げる訳ではないが、矢張り雨を嫌うのが普通ではないだろうか。ふと危険な想像が頭を過る。振り返れば、女性は既に居なかった。私は女性を追いかけていた。




 私は又、丘卦へと来ていた。どうやらこの場所が気に入ってしまったらしく、この丘卦を訪れるのが習慣化してきた様だ。白と青の調和。少し白が濃い。

 昨夜、結局女性を見つける事は出来なかった。追うのが遅かった様だった。追いつけるとは思っていたのだが。しかし恐らく今日も、いや、今晩も来るだろうと踏んでいる。私は、一晩でも待ち続ける覚悟だった。

 有象無象の様々な事を考えていると、隣に人が座った。その顔を見れば、いつかの商人だった。

「よ、久し振り」

 私は敢えて答えなかった。

「やっと見つけたよ。昨日もあんたをずっと探してたんだよ」

「何か御用でも?」

 ぶっきらぼうに言ってみるが、男性は笑顔の侭で返してくる。

「ああ、有るよ。何か買ってもらわないとこっちの気が済まないんでね」

 少し語気を荒くするが、私も買う気のない物を買いたくはない。だから私は談義に持ち込んだ。

「物は相談なんですが、何か面白い話でも聞かせて下さいよ」

「話?」

「ええ、商人なら色んな話を知っているでしょう? 聞かせて下さいよ」

 私は話を優勢に進めるべく押してみる。すると、男性はあっさりと承諾してくれる。

「いいよ。どんな話が良い?」

 男性は得意気に、口元に笑みを浮かべながら言う。

「では、この橋にまつわる話を」

「よし、分かった」

 男性は少し考え込むと、一度頷き私に向き直る。

「短い話だが、聞いてくれ」

 私も男性に向き直り、聞く姿勢に入る。

「昔、一つの集落に一人の男が居た。その男は、川を隔てた集落の女と愛し合っていたんだ。その頃はまだ橋もなく、頻繁に会うことは出来なかった。しかし橋が建てられると同時に、逢瀬の数は増えていった。あんたは知らないだろうが、この大名川は広いが、長さだけで深くはない。だから潮が引くと、浅瀬があらわになるんだ」

「はあ、こんな大きな川がですか?」

「ああ、そうだ。この満ち干は勿論、昔から在った。女は男との逢瀬を親に反対され、縁談を持ち出されたんだ。女は男と駆け落ちしようと、川が引く時期に男に、見つからぬ様に橋の下で待っていてと頼んだ。男はいつまでも待ち続けた。女が現れなくてもな。次第に空は乱れ始め、雨が降り出す。男は現れぬ女を信用して待った。雨は、まるで男を襲うかの様に激しさを増す。篠突く雨は川水を戻し、波は男を呑み込んでしまった、という訳さ。女は、実は縁談を受けただの、男の後を追っただの、色々話されていて何が真実かは分からなくなっちまってる。これが、この橋にまつわる言い伝えだ」

 男性は話を締めると、荷を広げ始める。私は話を頭の内で何度も反芻する。

「因みに、そこから下を除けば分かるんだが、川の中にも盛り上がっていて砂が見えてる所が在るんだ」

 私が手摺につかまり除くと、確かに水の青に混じって砂の白が浮いている場所が在る。

「ええ、見えます」

「そこをな、丘卦敷(おかけじき)って言って、男が待っていた場所なんだそうだ」

 丘卦敷はまるで青白い目に見える。橋を見ているのか、それとも空を見ているのか。

「さあ、話はそれでお仕舞いだ。買うもん買ってもらお……」

「その前に、もう一つ良いですか?」

 男性の言葉を断ち切り、私は食指を立て男性に迫る。

「まだ何かあんのか? 何なんだ、言ってみろ」

 男性は突っ放す様に言う。

「私はここに来てから、一人の女性を何度か見ているんです。でもその女性は平常は現れる事がないんですけれど、雨であったり夜であったり特異な状況だと現れるんです。それに私が声をかけようとしても直ぐに消えてしまうんです」

 その話を聞くや否や、男性は表情を強張らせ荷をまとめ始める。

「その女性の話を聞かせては……」

「やめときな」

 男性は抑揚無く言葉を放つ。そして私の目を見て、はっきりと言った。

「あんた魅入られてるよ」

 言うと男性は去っていった。男性の言葉を廻らせながら、私は立ち尽くすしか出来なかった。



 夜の帳が下り、空に星が輝く様を見つめていると、女性は現れた。私はゆっくりと女性に近寄った。まるで雀にそうするかの様に。今晩は女性は消えなかった。

「星が、綺麗ですね」

 私は空を仰ぎながら女性に言った。女性はしばらく黙って居たが、私が言葉を待っているとぽつりと呟く様に言う。

「そうでもない様ですよ」

 星明りは女性の顔を照らす程だ。彼女は私に向けていた視線を、再び川へと戻す。沈黙が降り注ぎ、川の細波がちろちろと奏でている。女性が顔を背けたのが見え、私は咄嗟に話を始める。

「私には、家族は居ないんです」

 女性は動きを止めた。ここぞとばかりに、私は話を進める。

「私には、母が居ました。でも、産みの親ではありませんでした」

 女性はゆっくりと私の顔に視線を寄せる。

「私が母だと思っていた人は、私の叔母でした。しかしその人も、私が大きくなる前に消えました」

 私が俯きながら話している所為か、女性の表情を確かめる事が出来ない。

「叔母には家族が居ない理由を聞くことは出来ませんでした。いえ、私が聞こうとしませんでした」

 女性は全く動かず、まるで独り言を呟いている錯覚に陥る。私は顔を上げ、女性の顔を見た。その顔は確かに生きている者のそれだった。

「でも、私は知らないからこそ、前に進める事もあるんだって実感してるんです。居るかも分からない人を探すのは辛いですけれど。まあ、今となっては殆どが名所巡りになってしまってるんですけどね」

 付け足した言葉に、私は乾いた笑いを飛ばす。女性は再び顔を伏せる。

「……何故、その様な話を私に……?」

 女性の声は透き通っていた。初めて聞く筈のその声は、何処か懐かしさを持っている。

「何故、ですかね……私の探している人に似ていたから。それでは駄目ですか」

 女性は私の言葉には答えず、無言の疑問を投げかける。

「その人は、私の初恋の人です。あまり当人に話すことではないですよね」

 照れて俯きながら言ったその時、一陣の風が二人の髪を撫ぜ、そして山へと抜けて行った。次に言葉を紡いだのは、女性だった。

「どうしてここに来たんですか」

 女性は顔を上げる事なく、疑問を口にする。

「言ったでしょう? 殆ど名所巡りをしているって」

 私は頬笑んだが、女性はそれを見る事なく私に背を向け歩き出した。

「貴方がここに来る道理はありません。早々に帰って下さい」

 女性は夜の闇に消えた。どうやら、自ら命を絶つと言う事は考えていない様だ。私は空しい笑みを残し、もう一度星を仰ぐと宿へと向かった。




 私は人波の中に居た。今日は見るのではなく話を聞こうと、兎に角声をかけた。

「済みません、少し宜しいですか?」

「宜しくないよ」

 あからさまに嫌な顔で通り過ぎる若い男性。


「済みません、お尋ねしたい事があるんですが」

「急いでるんで」

 定石を踏む若作りの女性。


「済みません、少しだけ……」

「うるさいよ」

 気難しそうな眉をひそめたご老体。


 結局、聞く言葉全てを嫌がるように、私は避けられた。疲れた体を休めようと丘卦で休むと、偶然か必然か、商人の男性が既に横に居た。

「どうも、商人さん」

 私が声をかけると、商人の男性はしまったとばかりに眉をしかめる。

「どうも、商人さん」

 笑顔で言う私に、彼も引きつりながら笑い返してくれる。

「ええ、どうも」

「今日はどうでしたか?」

 私は尚も会話を続ける。

「まあ、ぼちぼちだよ」

 お座なりに返す男性は早く切り上げたく思っている様子だ。私も逃がす訳にはいかず、早く本題に入るべく単刀直入に言う。

「商人さん、あの女性の話、聞かせて下さいよ」

 男性は更に眉をひそめ、背中を向ける。

「逃げても無駄ですよ。私、しばらくこの辺りに滞在しますから」

 商人にとって、この橋が格好の場所であることは気付いていた。彼には悪いとは思ったが、手っ取り早く聞くには彼が一番なのだ。

「聞いても仕方ないと思うよ。多分、あんたの想像と大して違わないからね」

 引けた腰で男性は弱気に言う。

「それでも」

「……分かったよ」

 渋々と男性は話し始める。

「この橋に来た者の中に、突然消えた者が居るそうなんだ。神隠しの様に、突然消息を掴めなくなるらしい。そしてその神隠しが起こり始めた頃、一人の女性の幽霊が橋の上に現れるようになった。その幽霊は何をするでもなく、ただ橋の縁に立ち、大名川を眺めている。その幽霊が消える瞬間を見たと言う者も幾人か居るらしい。それだけさ」

 口早に言い終えると、男性は荷をまとめそれを背負う。

「もう、私は帰るよ」

 男性は足早に去っていく。私は女性の事に考えを廻らせていた。



 私はずっと空を眺めている。蒼穹が紺碧に変わっても、ずっと眺めている。私の待ちわびていた夜が訪れると、期待を裏切らず女性は現れた。彼女は私の顔をちらりと見たが、気にするでもなくいつもの様に川を眺めている。

「どうも」

 会釈をしながら近づくと、女性は軽く会釈を返す。どの様な言葉を繕うか考えていない事に気付き、単刀直入に訊ねる。

「貴女は幽霊なのですか」

 女性は怪訝な面持ちで私をじっと見た。その間に流れる沈黙は、とても長かった。女性と私はたじろぐ事もなく、ずっと見詰め合っていた。

「あなたは、どう思っているのですか」

「え?」

 表情を変えぬ侭の女性に不意を突かれ、私は聞き返す事しか出来なかった。それでも彼女は同じ顔で同じ言葉を繰り返す。

「あなたは、どう思っているのですか」

 言葉を理解した私は、自分が抱く女性への感情を探ってみる。行き着いた結果は、興味が有ると言う何とも稚拙な答えだった。

「どちらでも構いません。私は貴女に興味が有るだけですから」

 率直に言うと、女性は俯いてしまう。

「……私はこの川を、空を見ているのです」

 俯いた侭、彼女は呟く。その言葉に、私は昨日、商人の男性が言っていた占いの事をはたと思い出した。

「貴女も占っているのですか」

 女性はしばらく黙って、呆然の体でいる。

「……ええ、そう。私は日を占っているの」

 彼女は独り言でも呟く様に、ぽとりと言葉を落とした。

「日を……?」

「ええ……」

 伏目がちにそう答えると、女性は私に向き直る。

「貴方は占いましたか」

「いえ、まだ」

 そう言いながら、私は空を見上げる。空には、瑠璃の欠片の様に輝く星。女性に倣い、川を見る。川面には、揺れる事なくきらめく瑠璃。私は占う確かな術を知らないが、この輝きを見れば良い方向に傾いている気がする。

「昨日、私が言った言葉を覚えていますか」

 女性の言葉に私は向き直る。思い浮かぶ言葉を、私は即座に言ってみた。

「あなたがここに来る道理はない、ですか」

「ええ、そう」

 女性の言葉に、私は抗議しようと口を開く。

「でも私は……」

「死にたくないのであれば」

 しかし、女性は私に喋らせてはくれない。彼女は目を瞑り、息を殺している。

「今直ぐここから立ち去って下さい」

 彼女は眉をひそめ、自分の感情を押し込めるように身じろぎをしない。

「でも……」

 私は彼女に認めてもらう様に、許しを乞う子供の様に言葉を紡ぐ。しかし、それすら彼女は許さない。

「立ち去りなさい」

 決して声を荒げた訳ではない。しかし彼女の意思か、私はけおされてしまう。心残りは有るが、私は去るべき際だと知った。それでも私は心許なくて、彼女に願いを伝えた。

「私の名は遥。せめて、貴女の名前を教えて下さい。それだけで又会える気がするから」

 女性は目を瞑った侭、何も答えない。私の表情さえ掴もうとはしない。彼女の言葉を待つが、私は沈黙を拒絶の意思と受け取った。仕方なく彼女に背を向けた時、女性は口を開いた。

青冷(しょうりょう)です」

 言葉に振り向くと、女性は睨みつける様な真摯な面持ちで立っている。これが最後の言葉だとばかりに。


 今宵、彼女から去る事はなかった。私から女性に背を向け歩き出す。名残惜しく振り返るが、そこに人影はなかった。




 私はいつもの様に丘卦へ向かう。結局、女性、もとい青冷の言葉を私は裏切ったのだ。彼女の本意を確かめたかったから。これでも、一晩考え尽くして出した答えである。彼女には今夜、謝る積もりであった。


 私は丘卦へと続く勾配を上り続ける。その途中、人だかりが出来ていた。その所為で奥へは進めず、足止めを喰らってしまう。

「済みません。一体これは……」

 橋を戻る女性に尋ねてみれば、女性は不安げな顔で答えてくれる。

「また人が消えたのよ」

「人が?」

「ええ、そうよ。またあの幽霊の仕業よ。絶対そうだわ」

 女性はそう言うと、連れの女性と二人して橋を下りていく。ざわつく群集をかき分けその人が消えたと言う場所を見てみると、橋の縁が消えていた。楕円状に切り取られたように。その情景は、何か巨大な生物に噛み千切られた様に思えた。周囲の人々は口々に、まただ、まただ、と言っている。私は来た道と逆の人の群れをかいくぐり、丘卦へと向かう。

 歩いていると胸騒ぎを覚え、何故か走り出していた。焦りを生む胸は走る程に大きく脈打つ。それが胸騒ぎでなく不安だと感じた時には、丘卦に着いていた。丘卦には例日通り、商人の男性が座っていた。

「よっ、兄ちゃん。元気だったか?」

 息を切らせる私に、陽気に話しかける男性。しかし演技が下手で、あからさまに作り物の笑顔だと見て取れる。

「どうしたんだ、そんなに息を切らせて」

 その心配の仕方も、下手糞な演技で真実味が全くない。

「向こうの、人だかりですよ……」

 乱れる呼吸を抑え、私は男性に伝えた。男性は出来合いの笑みの侭、私に語りかける。

「見たんだね?」

 無駄な確認を続ける彼に、私は訝しく思いながらも頷く。

「え、ええ……」

 息を整え、深呼吸をする。やっと鼓動が落ち着いたかと思うと、今度は男性が真剣な表情になる。

「じゃ、あれが誰の所為か知ってるな?」

 男性は凄み、顔を間近まで近づけてくる。軽い嫌悪に顔を引くが、男性は尚も着いてくる。今にもくっ付きそうな程、傍に在る顔。彼も私も、冷や汗を垂らす。

「あれが、あんたの近づこうとしてる女のした事だ。あんたの事情は知らんが悪い事は言わん。さっさとここから出てけ」

 その言葉に私は抵抗の意を示すべく、勢い良く彼の額に頭突きをする。鈍い音が響き、男性は後ろに倒れた。鈍く疼く額を押さえ、私は立ち上がる。

「誰に何と言われようと、私は私の意思に従うまでです」

「うっ、うっうっ」

 幼児帰りした様に泣き喚きながら、男性はのた打ち回る。

「あなたの言葉なんて、私は聞きません!」

 うめく男性に私は告げる。憤りに任せ、私は橋を下りようとする。

「あの女が男を消す瞬間を見た奴が居るんだよ!」

 私は、その場に立ち止まった。ゆっくり振り返ると、男性は額を押さえ涙目でこちらを見ている。

「今……今、何と?」

「あの女が男を、この橋の上で消す瞬間を見た奴が居るんだ」

 男に向き直り、その肩を力任せに掴む。

「本当ですか? 嘘じゃありませんか?」

 ともすれば怒鳴り声を上げそうになる心を押しとどめ、あくまで事実を聞き出そうと努める。

「あ、ああ。嘘じゃねえ。俺の仲間が昨日の夜、この丘卦で見たんだと言っていた。確かに見たって言ってた」

 私はしばらく動けずに、彼を睨んでいた。そして、事切れた様にうな垂れる。

「……まぁ、そう落ち込むなって。あんたは憑かれて消える事はなかったんだから」



 男性は、私に青冷の事を告げると早々と去った。性懲りも無く、私は丘卦にとどまっている。勿論、青冷に事実を尋ねる為だ。辺りは暗がりに満ち、時の概念を忘れさせるような静けさが広がっている。ふと、私は何をしているんだろう、と考えた。昨日の青冷の忠告を聞き入れず、昼の男性の言葉をも無視している。果たして私の選択が正しいのか疑わしいものだ。しかしそれも、青冷に訊ねれば直ぐに明らかになる。その筈だった。


 私は待ち続けたが、結局、青冷が現れる事は無かった。




 夜が明け、陽が上り、そして沈む。




 再び陽が昇る。朝と夜の境は、最早空の明暗だけで、私の中には存在しないも同然だ。もう二日も眠っていない。いや、三日だったかも知れない。兎に角、私の不眠の努力も叶わず、青冷は現れない。こうして眺めていると、人の流れが何とも虚ろに見える。ただ通り過ぎては消えていくだけ。この橋が『出逢い』を象徴すると言ってはいるが、そんなものは嘘ではないか。橋を歩く人々は、仮面でもつけているかの様に無表情で過ぎていく。笑っている者と言えば、目の前の軟派の下臈と不貞の女郎くらいではないか。いや、そもそも『出逢い』とは、その様な下賎な輩が求める不埒な企みではないか……

 ふと我に返り、己に嫌悪する。自分の汚い本性が現れたような、薄い吐き気を催す。しかし吐瀉することはなく、私は私の汚い本性を呑み込んだ。自分の悪気にあてられたのか、少しずつ意識が遠のいていく。抗う事なく、私は睡魔に包まれた。



 目を覚ますと、辺りは暗くなっていた。薄い布をどけ二日酔いの様にぐらつく頭をむりやりに起こすと、満月が見える。瑠璃の欠片と、欠ける事ない宝玉。自然と目眩は治まり、胸のつかえさえ消えていた。手にしている布に目をやると、それが自分のものでない事に気付く。よくよく見れば、見覚えのある布だ。それは商人の男性の荷をまとめていた布だった。改めて己を確かめてみれば、懐に入れておいた金など、持ち物は何一つ盗まれていない。私は自分の愚かさと、彼の優しさに、ふっと頬笑んだ。すると、ゆっくりと近づいてくる影が在る。私は男性だと思い立ち上がる。

「ありがとうござ……!」

 しかしその影は男性ではなく、青冷だった。彼女は私に気付くと驚いたのか目を見開く。そして次の瞬間には私を威圧するかの様に見つめ、彼女から距離を詰める。私は覚悟を決め、彼女を見つめ返した。

「何故ですか」

 青冷は感情を抑え、声を低めて私を責める。私は表情を変えずに、彼女の瞳をじっと見つめる。

「貴方の事が気になって」

 言葉を発してから、それが告白にも聞こえる事に気付く。しかし不思議と気恥ずかしさは全くなく、私は彼女を見つめる事が出来ている。それに比べ青冷は、鳩が豆鉄砲でも喰らったかの様に目を点にしている。

「教えて下さい、貴女の事を。何故貴女はここに居て、そして貴女は何者なのか」

 私は、答えを聞く迄引く気はない。決して声を荒げる事なく、しかし意思を顕わに。それは、青冷を真似ただけだった。しかし彼女は視線を中空に漂わせ、心許ない顔で戸惑っている。彼女の泰然を崩した態度を見るのは、これが始めてだ。平常とは真逆さまの状況に、自ずと含み笑いが零れる。

「私は、貴女の力になりたい。貴女の傍に居たいんです」

 青冷の肩に触れ、彼女の惑いを払拭する。次第に青冷は冷静さを取り戻していく。

「たとえ貴女がどの様な存在であろうとも、私は貴女の言葉を信じます。だから……」

 青冷は私を見上げている。ともすれば、私が彼女に吸い込まれそうになる。しかし青冷はそれを許さず、私の手を振り解き背を向けた。拠り所をなくした私の手は空を切る。

「貴方は気付いている筈です。私が消えてしまう者であると」

「……ええ、解っています」

 青冷は胸に手を当て、感情をとどめようと努めている。

「……私は、貴女が話してくれる迄、ここから離れる気は有りません」

 青冷は哀切な顔を上げ、私を見る。私は確固たる意思の下、彼女を見つめる。彼女は観念したのか、話し始めた。

「私が今存在するのは、この橋が狂ったから。この橋が傾かなければ、私はここへ来る事はなかったでしょう」

青冷の言葉に私は首を傾げる。この橋を幾度も自らの足で歩いてみたが、傾いていると感じた事は一度もなかった。

「何を言っているんです。この逢阪橋は見事な出立ちで、傾いた様子なんてないじゃないですか」

「……傾いているのは、逢阪橋の体躯ではなく、存在です」

 訳が分からず、私は首を捻る。

「この橋に『出逢い』を求める人が多すぎた。天秤は傾き、やがて崩れる。橋は天秤を保とうと、今狂い始めているの」

 私の中で繋がった。

「それはこの前の人が消えた件と……」


 その時だった。

 足元がふらつく感触を覚える。川面に映る空は滲み始める。次第にそれは、足をすくう様な大きなものに変わる。その感覚が、私の足の異常でなく、橋から伝わるものだと気付く。川面の波紋は薄れ消える機会を失い、重なり合っては高くなっていく。青冷は短く悲鳴を上げ、地に座り込む。最早、二人は立つ事さえ許されない。私は青冷を抱き締め、彼女を守ろうと必死だった。

「大丈夫、大丈夫だから」

 青冷を、自分自身をも落ち着かせる為に呟く言葉も、轟音にかき消される。心を平然に保とうと、私は目を閉じる。心の内で幾度も幾度も、取り留めのない言葉を叫び呟く。するとうなりは衰え、代わりに闇が空気を支配する。

「止、んだ……?」

 うすらと目を開けると、静かな闇が広がっている。まるで何もなかったかの様に閑散としている。むしろ音など皆無である。腕の中の青冷を見れば、彼女はうずくまってしまいその表情を窺う事が出来ない。

「青冷?」

 私が立ち上がり少し離れると、ゆっくりと青冷は顔を上げる。

「もう大丈夫ですよ。揺れは収まったから」

 平安を感じた私は、怯える青冷をなだめる。青冷はしばらく小動物の様にびくびくと震えていた。しかし私の背後に視線を移すと、彼女は瞳孔までも開かせる。

「ああ、そんな……」

 振り向き青冷の視線に合わせるが、何も見えない。闇の拡がりはただそこにとどまっているだけである。いや、その闇が近づいてきている。五感を研ぎ澄ませ、それを確認しようと試みる。闇より黒く、それは音を伴い私達へと着々と近づいてきている。音は段々と大きくなり、それは先の地響きを繰り返していく様に感じられた。今や、黒は私達を呑み込む程に大きく、そして鼓膜を破る程の轟音を引き連れている。やっと、それが何か分かった。凄まじい高波である。まるでこの世界を丸呑みにしてしまいそうな巨躯。その蠢きは、あたかも一つの生命であるかの様に思えた。そして意思を持って、確実に私達に迫っているのである。その巨大な猛威から、逃げおおせるなど到底無理に思える。しかし私の胸には青冷が居る。彼女を助けねばならない。

「青冷、逃げよう」

 私はふらつく自身の足を踏ん張りながら立ち上がる。しかし青冷は絶望した様に、波を見て諦観している。瞳は精彩を欠き、どうやら私の言葉は届いていない様だ。

「青冷!」

 青冷の視界をさえぎり、私は怒鳴る。びくりと一度震えた彼女の瞳は、やがて精彩を取り戻す。

「遥……?」

私は強引に彼女を立ち上がらせ、大音に負けぬ様青冷に語りかける。

「青冷、逃げよう」

「無理、無理よ……」

 小さく首を振り、彼女はまたも諦める。

「無理じゃない。逃げるんだ」

「どうやって逃げるの? あの波に襲われればこの橋なんて壊れるわ!」

 青冷は自分の言葉に驚く。そして小さく小さく呟く。

「そうよ。この橋が壊れてしまえば、もう消える人は居なくなるわ……」

 辛うじて彼女の言葉は、轟然たる音の隙間をすり抜け私の耳に届く。青冷は、小さな光にすがっているのだと思った。

「それも私達も一緒に……」

 しかし、それは別の絶望を生んだ。青冷は自嘲し、空を仰ぐ。

「逃げるんだ、青冷! 逃げるんだ!」

 彼女は確かな意思で私を見る。

「どうせ消えるんだから」

 その言葉は深く突き刺さる。えぐる様に。そして傷痕から雫が零れた。それはとめどなく溢れ、頬を伝った。

「やめてくれ。そんな事を言わないでくれ……」

 しかし青冷は、静かに頬笑むだけだ。言葉では無理だと判断した私は、彼女の腕を掴み闇雲に走った。

 丘卦からの勾配は、私達をすんなりと通してくれる。しかしそれでも、波は襲ってくる。どれだけ速く走っても、追いつかれてしまうと言う不安に苛まれる。焦りに任せ駆けるが、私達を繋ぐ手は離れてしまう。

 振り返ると青冷は俯いている。まるで出逢った瞬間に戻った気分だった。

「どうせ消えるのよ。抗う必要なんてないじゃない」

 しかし今はそんなものにすがっている時ではない。どうにか青冷を説得しなければ。

「駄目だ! 私達は、二人共生きるんだ!」

「無理よ。どう抗っても、私達は消えてしまうのよ」

「そんな事はない!」

 声を荒げ必死にわめく私に、青冷は哀しく首を傾ぐ。

「どうしてそんなに抗うの?」

 私の中で、時間が止まった。理由は分かっている。いや、今分かったのかも知れない。それが答えだった。

「青冷が好きだから」

 私をくるむ空気は、彼女に伝播していく。少し、闇が晴れた気がした。

「私を、好き? 何を……」

 彼女は慌てふためく。そんな青冷を見て、私は笑う。

「貴方がどんな存在でも、儚く消えるとしても、私は青冷が好きだから」

 静けさは、どうやら私の心を素直にさせてくれる様だ。そして、一陣の陸風が吹いた。風は青冷の顔をとても優しく撫でていく。かすかな飛沫は、星明りに綺麗だった。

「そう……」

 そして時は動き出し、私達を歩ませる。

「それならば、いきましょう」


 勾配を駆け上り、丘卦へと向かう。弾む息を抑えきれず、青冷への言葉は断絶する。

「どうして丘卦へと戻るんですか」

 私の前を走る青冷は、口元に笑みを浮かべ振り返る。

「助かるとしたら、丘卦だけだから」

 彼女は駆ける速さを増す。私はそれを超え、彼女の横に並んだ。


 丘卦へ着くと、既に高波はその波の筋さえも読める程に迫っていた。私達は高波に抗うべく、橋の縁に立つ。

「何だかここ数日は、本当に時が過ぎるのが早かった気がします」

「ええ、本当。殊に貴方と出逢ってからは」

 私達は見つめ合い黙るが、静寂は訪れず、場に不似合いな轟音が響く。私達は抱き合う。離れる事のない様、しっかりとしっかりと。

「いつか、私言いましたよね。貴方が、青冷が私の初恋の人に似ていると」

「ええ、言いました」

「あの時、貴方はどう思いましたか?」

 青冷は答えない。言葉を待つ私が彼女を見ると、青冷はにこりと頬笑んだ。

 そして私達は透明な水に包まれた。





 静かな川面、その上を揺らめく光。私は橋の上に立っている。

 しかし最早、逢阪橋はこの世にはない。あの高波にさらわれ、全壊してしまったのだ。


 あの日、私達は橋諸共高波に呑まれた。私はその瞬間に気を失い、殆どの事を覚えていない。気が付けば、私は砂地の上に横たわっていた。陽の眩しさが、私にとっての生の感覚だった。私は直ぐに腕の中を見たが、そこに青冷は居なかった。辺りを見回して初めて、自分が出逢った事態の大きさに気付いた。橋は微塵に崩れ、破片は細波に揺れるばかりだった。そしていくら目を凝らしても、青冷の姿は見当たらなかった。

 陸地に上がってから知ったのだが、私が倒れていたのは丘卦敷だったと言う事だ。


 あれから数日が経ち、今では新しい橋が建てられた。

そして、一度だけ商人の男性と会った。私が事の次第を伝えると、彼は嘘をついた事を謝った。私は彼に布の礼をした。その時に、二人で頬笑み合い互いに握手をした。彼とも笑顔で別れる事が出来た。

しかし私達は、橋が崩れると同時に別たれてしまった。この新しい橋は出逢いを呼んでくれるのだろうか。

 私は橋の上に立っている。眼下には丘卦敷が見えている。空は白み、空気は清んでいる。蒼白の天空には、薄くではあるが星がまだ瞬いている。そして、私はその空に一人の女性への想いを馳せる。私が幼い頃から胸に抱き続け、これからも私の胸の中の住人である初恋の人、清令せいれいへの想いを。

 そして私は家族と愛する人を探す、新たな旅路に向かうのだ。


                        終


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