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3/3

連れてこられた公園は、海のすぐ近くにある小さな特徴もない児童公園だった。

 錆ついたシーソーと、ブランコが二つ、鉄棒が高いものと低いもの。ジャングルジムは小さくて、地中に半分埋められたタイヤが五個並んでいた。真っ赤な木製のベンチが二つ木陰に並んでいる。

「ここで遊んだの?」

「ここはね、母が、凛さんのお父さんと出会った場所なんです。不快にさせたらごめん。でも、ちょっと昔話をしませんか」

 ベンチに腰掛けた彼に続いて、わたしも少し離れて座った。

「母は、この町で、正確にいえばSORAの店舗で以前は飲み屋をやっていたんです。スナックですね。常連客が多くて、結構繁盛していたんです。いや、そうらしいんです」

「そこの客にパパが?」

 首を振って、話を続ける。

「お父さんはね、悩みがあると、夜の海に来ていたそうです。その日も一人で暗い海辺を歩いていたら、この公園で大きな声を出している女が一人いたんです。星空に向かって、デッカイ話をしていたらしいです。内容までは分からないけど男勝りな女が一人で月に吠えていたって言っていました」

ノースリーブの肌に冷たい潮風があたり、二の腕が冷たくなるのが分かる。わたしはそっと手を組んで、少しでも風が当たるのを避けようと身を縮めた。

「一目惚れだといっていました。そのまま父と母は、どちらからともなく体を重ねる関係になった。母が言うには、あの時はベロベロに酔っていて、月に吠えた記憶なんか、残っていないといっていたけれど、悩みがあったんだと思う」

「それで、あなたが生まれたの?」

「たぶん。僕は認知をしてもらっているけれど……」

「お母さんには恋人がほかにもいたのかしら」

「そんな気はします。恋多き女性だったから」

 彼は、そっと半袖のジャケットを脱いでわたしの肩にかけた。

「でも名誉のために言いますけど、母は三年待ったんですよ。おとうさんが認知をしてくれた。その愛情を信じて、三年は凛さんのお母さんから、父を奪う気でいたんです。それでも自分の元に来てくれなければ、別れようと思っていたみたいです」

「パパは、ママを愛していたから」

 彼は微笑みながら反論してきた。

「それだけじゃない。凛さん。あなたがいたからお父さんと僕の母は一緒にはなれなかった」

「じゃぁ、パパがママを捨てて、あなたの母親と一緒になったかもしれないってこと?」

「そういう可能性がゼロではなかったということです」

「わたしが鎹になっていたってこと?」

「分かりません。でも、母の中ではそういう記憶としてこの公園が残っているということです」

 わたしは言葉を失った。さっきまで優しい声をだしていた彼の口から、こんな内容を聞かされるとは思いもよらず、怒りで肩が震えそうになった。

「すいません。怒らせたかったわけじゃないんです。でも、人はどんなタイミングで恋に落ちるか、だれにも分からないということです」

 暫く黙って波音を聞いた。このベンチでパパと見知らぬ女性は言葉を交わし、体を寄せあったのだろうか。

 日が落ちて、月が顔を出した。

「凛さん。少し飲みませんか? 遅くまでは付き合わせませんから」

 わたしは頷いて彼の服の裾をつまんで暗い道を付いて歩いた。

 いつも、誰かにくっ付いている。

 鼻先で笑った。

「自主性がないんじゃないの?」

 学生時代に言われた女友達の言葉を思い出す。

 そのとおりかもしれないかも。なんて、自分のことなのに明確な答えを出すことすらできない。


 何度もクランクをしていきついた小さなバーは、中年の女性ひとりで切りもりしていた。

「いらっしゃい。あら。慎吾ちゃん。彼女連れてきてくれたの?」

 彼は返事をせずに、カウンター席にわたしをエスコートした。

「そうなの? なーんだ。恋人を紹介してくれるのかと思っちゃった。ごめんなさいね、口が悪くて。客商売失格ねぇ」

「そうそう、口が悪い。でも腕がいいから尚のこと性質が悪い」

 そう言ってから、わたしのほうをむき直り、小さく手を合わせた。

「礼子さんが作るカクテルは本当においしいよ。ぜひ飲んでほしいんだ」

「パパとも来たの」

「ああ。何度か来たよ。喜んでくれたしね」

「それでは、お勧めは?」

 彼はしばらくバックバーのお酒を眺めてから

「やっぱりギムレットがいいかな。二オンスのグラスで」

 と礼子さんに注文をした。

「あんたは、生意気なのよ。二オンスなんて、試すようなことして」

 文句をいいながらもうれしそうに礼子さんはメジャーカップにジンを注いだ。

「礼子さんはね、ギムレットを作らせたらこのあたりじゃ一番上手だよ」

 耳元で囁くように言うと、彼は礼子さんのシェーカーの動きを眼で追った。一滴も残すことなく綺麗にグラスにお酒が注がれた。美しい所作だと見とれてしまう。水商売の女性にしては、化粧は丁寧だが爪は短くカットされて、透明のマニキュアが丁寧に塗られている。綺麗に手入れをされている彼の指先に似ていた。

 出されたグラスを注意深く持ち上げて、ゆっくりと口に含む。

「おいしいわ。水っぽくないのね。でもとても冷たい」

「でしょ? ついつい飲みすぎちゃうって言いたいところだけど、僕はお酒が弱いんです」

 礼子さんの方を見ると、深く頷いている。

「この子もそうだし、わたしもお酒は得意じゃないのよ。水商売なのにねぇ」

 ガハハと大きな声をたてて笑うと、バックバーのお酒が、数本揺れた。

「あなた、お名前は?」

「真鍋凛です」

 わたしはグラスを持ったまま答えた。飲みはじめると止まらない。

「凛さんね。よろしく。慎ちゃんが女性を連れてくるなんて、あんまりないのよ」

 ちらっと横目で見ると、彼は二人の会話を耳に入れていないふりをしている。

 もう一杯同じものをお願いして作ってもらう間に、お客が入ってきた。礼子さんは、常連らしき四人のお客とも明るく会話をしている。

「うるさいでしょ? このバーはあまり落ち着かないんだ」

 彼は、赤くなった顔で、少しゆっくりと話しだした。

「そうかしら。女性客でも入りやすくていいんじゃないかしら?」

「礼子さんって、魅力的だと思わない?」

 わたしは、少し離れた場所にいる礼子さんをじっと見つめた。

「かわいらしい感じの方ね。優しいし、素敵だわ」

「僕の、一人エッチの初めての相手なんだよ」

 いきなりの下ネタに驚いた顔を見せると、彼は右手を頬に当てて、酔っているからごめん、と呟いた。

「ねぇ、凛さんは? 誰?」

「なに? わたしも答えるの? 変態じゃないの?」

 わたしはグラスのお酒を一気に飲み干して、彼の顔を見た。真剣な目をしている。

「あんた、馬鹿? セクハラだよ?」

 彼は、頷きながらお酒をゆっくりと口に含んだ。

「……パパだよ。わたしの相手はパパでした」

 わたしは、カウンターに顔を伏せて答えた。

「なんてね。冗談」

「冗談じゃないでしょ? 本当でしょ。僕には分かるんです」

 顔を伏せたまま、首を右に動かし、右目で彼の顔を見た。

「何が分かるの? ねぇ、何にも分かってないじゃない。何も知らないくせに」

「分かりますよ。礼子さんは、僕の母の双子の妹なんです。凛さんはファザコンで、僕はマザコンだ」

 わたしは、また突っ伏せたまま、馬鹿じゃないの、と答えた。

「似た者同士でしょ?」

「ほんとに、どうかしているわよ」

「そう。どうかしているんです。僕たちは」

 鼻の奥が痛かった。パパは、この店でどんな話をしたのだろうか。わたしの噂話、それとも慎吾の母の話をしたのだろうか。

 ミントジュレを頼んで、口いっぱいに頬張った。さわやかなペパーミントが、一瞬わたしの頭をすっきりしてくれたけれど、すぐにアルコールの波が押し寄せてきて、体全体を重く感じさせた。

 パパは、どうして浮気をしたのですか? 

 わたしは、どうして浮気をされたのですか?

 誰も、何も答えてくれない。人の声がだんだん波の音のように聞こえてくる。わたしはその波に誘われるように一歩一歩波に近づき、つま先を水に浸けた。夏の海の水は温かい。

 もう少し深く、踝まで、膝まで、腰まで……わたしは海の底に沈んだ。




 体が痛くて目を覚ますと、電気の落ちた店内には礼子さんと彼が向かい合って小声で話しているのが見えた。

 バーが閉店の時間ということは、もう電車は走っていない。生まれて初めての無断外泊が、初めて来たバーのカウンターでなんて、パッとしない。

 直己からは、メールがきているのだろうか。いや、携帯電話を壊してしまったんだから、メッセージを送れないはずだ。わたしは、目は覚めたけれどいろいろなことが面倒臭くて、そのまま寝たふりをした。

「まさか、慎ちゃんが凛さんを連れてくるなんて思ってもなかったから、びっくりしたわよ」

「顔見てわかったでしょ?」

「ええ、目もとなんてお父さんそっくりね。どんぐり眼で、眉が少し下がってて」

「葬儀に呼んでもらえて感謝しているんだ。それから毎月命日には一緒にあちこち出かけて」

「でも、大丈夫なのかしら。朝までこんな所に……」

「だって、僕の家じゃもっとまずいだろ?」

「そうだけど。でも、変なご縁ね」

 自分が寝ている間に噂されるのは気分のいいものではない。わたしは、わざとらしくないように、最新の注意を払って寝起きの演技をした。礼子さんは、わたしが目を覚ましたことに気づくと、大慌てで近寄ってきて、水を差し出してくれた。

「ごめんね。起こしたのよ、でも、目を覚まさなかったものだから」

すまなそうにする礼子さんの脇で、彼は肘をついて笑っていた。

「こちらこそすいません。タクシーで帰ろうかしら」

「凛さん。もうすぐ四時になるよ。始発で帰ればいいじゃない」

 そういうと彼は礼子さんに手を振って、わたしの腕を掴んだ。

「海で日の出をみようよ。綺麗なんだ」

 礼子さんは何か言いたげにしている様子だったが、わたしと目を合わせると、やさしくほほ笑んだ。軽く会釈をしてから、「また来ます」とだけ伝えて店を出た。

あたりはまだ暗く、波の音が怖い。ときどき大きくテトラポットに当たる音が響くと、そのまま海に引きずり込まれる錯覚に陥ってしまう。

 わたしは彼の服の裾をギュっと掴んで離さなかった。


 夕方の公園を通り過ぎ、砂浜へ続く石段を注意深く降りていくと、黒い海に漁火が揺れていた。彼は漁火を見つめて声を出さない。

 わたしは携帯電話を取り出し着信履歴をチェックした。非通知設定の番号から五回続けて電話があった。メールは三件、全て友達からのものだった。わたしはメールの着信音を変更した。

「凛さん」

「ん?」

「僕は、パパさんに似ていると思う?」

「顔? 性格?」

「すべて」

 わたしは、彼の顔を見つめてパパの言葉を思い出した。

「Yが無い」

 と言っていた。彼の母は、恋多き女性だと、聞いた。

 顔のつくりは、あまり似ているとは思わない。それでも、パパは彼を認知したのだ。子供なのだろう。似ているはずだ。

「似ていると思うけどな」

「どんなふうに? どこが?」

 答えることができなかった。彼のほうから、そんな風に問い詰められると、似ている、似ていない、どちらの答えも間違っている気がした。

「ねぇ、聞いていい?」

 会話の腰を折ったわたしに、憎らしげな視線を向けながら、つまらなそうに、「どうぞ」とだけ答えた。

「あのね、認知してもらってよかった?」

「はい」

「パパが、本当の父親になってくれたらもっとよかった?」

「それは、答えられないよ。凛さんがいるから」

「もしも、わたしがいなかったら? 生まれてなかったら?」

「そういうことなら、父親がいつも帰ってくる家庭で育ちたかったかもしれないけど、でもどうしてそんなこと聞くの?」

 わたしは、涙が出そうだった。

「わたしは、どうしたらいいと思う?」

「何のことですか?」

「わたしは、認知させて妻でいればいいの? それとも認知させて父親としての責任を果たさせるべきなの?」

 涙と鼻水が同時に出てきた。どっちを拭うべきなのか迷いながら鞄をあさった。慌ててハンカチを取り出した瞬間、中身が砂浜に散らばった。

 暗くて、どこに何が落ちたのかもわからない。

「何を言っているのかわからないよ。落ち着いてくださいよ」

 彼は、私の両肩を抱いて、胸に顔を引き寄せた。

「だから、わたしはママと同じなの。でもわたしには子供がいないから、子供のために直己と別れるべきなんじゃないのかって……十年間、何をしてきたのか」

 体中の力が抜けた。

 滑り落ちる体を、彼は受け止めてくれている。耳元で優しい声が聞こえる。

「大丈夫ですよ。凛さんが思うようにすればいいんです」

 何度も何度も繰り返すその言葉の響きに酔った。

 あたりが、明るくなってきた。砂浜に散らばった自分の小物が少しずつ見え始めてきた。わたしは、彼の腕からすり抜けて一つ一つ拾い上げた。

「これ、ガラス?」

 水晶の天使を手に彼が笑いかけてきた。

「それ、水晶よ。かわいいでしょ。願い事が叶うんですって。一個あなたにあげたくて持ってきてたの。忘れてたわ」

「えー、じゃ店のドアに飾ろうかな」

太陽の光があたった彼の顔は、綺麗だけどやっぱりパパには似ていないと思った。

「海水で顔を洗うと、肌がきれいになると思う?」

 涙で化粧が落ちた顔を見られるのが恥ずかしかった。

 わたしは、海水で顔を洗うなんて気は毛頭なかったが、サンダルを脱いで海へ向かって歩き出した。

「ねぇ、きっとパパはわたしがいなかったら、あなたの所に行ったと思うわ」

 スカートの裾を少し持ち上げて海水に足をつけた。

「ねぇ、それからきっとママはパパがいなくなってから、しばらく悲しんだだろうけれど、新しい人生があったと思うの」

 大きな波に足元をすくわれそうになっても、わたしはさらにスカートを巻くしあげて前に進んだ。

「ねぇ、でも、どうしてこんな風になってしまったのかしら」

後ろから力強い腕がわたしを捉えた。

「もう、やめましょう。すべて巡りあわせなんだ」

 わたしは、彼の手に自分の掌を重ねて声を待った。

「凛さんが、ご主人を愛しているなら、愛し合っているなら、子供ができても何があっても別れるべきじゃないんです。でも、もしもそうじゃないなら、凛さんの思うままにすればいい」

「ねぇ、わたし思うんだけど、恋って法律を持ち出すと一気に色褪せてしまうのね」

「なに?」

「貞操義務違反!」

「だけど、憲法第十三条の権利を主張する!」

 大きな声を出した。腹の底から声を出すと、少しすっきりしてくる。

「なんだよ。なに言っているの?」

 わたしは体の向きを変えて彼と向き合った。

「だから、法律用語を頭に浮かべながら恋愛をする人はいないってことよ」

 彼は、曖昧に頷いた。

「あなたのママも、パパも、直己も、ショートカットの女も」

「僕も、凛さんも、ですよ」

 わたしは、再び彼の胸に顔をうずめて笑った。

 この体の中に「パパのY」があるのかどうかは、やっぱり分からない。

 わからないけれど、魅かれるのは事実だった。これ以上深みにはまるわけにはいかない。

 戻れなくなる予感がした。それは、とてもうれしくて、悲しい予感だった。



10


 始発より三本あとの電車でマンションに帰ると、直己はいなかった。

 ただ、自宅の留守番電話に怒った声が入っていた。心配しています、どこにいるんだ、誰といるんだ、また電話する……。

 そっくりそのまま、直己に返したい言葉だ。

 わたしは自分の預金通帳を眺めてから、家計簿を見直し、自活するための必要なものを考えた。

パートの仕事で、一人食べる分には困らない。慰謝料の請求をするつもりはないが、住居だけは少し力を貸してもらいたいと思った。ここで一人で住むには広すぎる。

 仕事に通える範囲で、ワンルームのマンションを購入しようと思いインターネットで物件を検索した。ついつい、彼の近くの物件を眺めてしまう自分に心底呆れ、パソコンの電源を落とした。

 そして、自分でも驚くほどに軽い足取りで市役所へ向かった。

 その日の夜、直己は不機嫌な顔をして帰ってきた。新しい携帯電話をもっている。床でたたき割ったのは悪かったかもしれないと、少し反省をしたが、口には出さなかった。

 わたしは、だまって茶封筒に入った離婚届を渡した。自分の署名捺印は済んでいる。直己は驚いた声を出した後に泣きそうな顔をした。

「どうして。俺は別れるつもりはないぞ」

「でも、子供はどうするのよ。あなた、子供が欲しかったんでしょ? どうして相談してくれなかったの」

「君は、どこまで鈍いんだよ」

「どういう意味?」

「俺が、どれだけ君のパパの代わりとして尽くしてきたか。愛されたかったんだ。君に心の底から愛してほしかったんだ」

 直己は、書類を右手で握りつぶして、うなだれたまま動かなかった。

 直己は気付いていたのだろう。わたしは、いつでもパパの影を男性に求めてきた。愛の営みの中でも、頭の片隅にはパパの顔があった。子供ができるなら、それはパパの子供がいい。

それは、直己を拒絶していたこととイコールだったのかもしれない。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 わたしは、涙をこぼさずに謝った。

 直己は、わたしの声に合わせて嗚咽した。

「君が好きなんだ。その気持ちはずっと変わらないんだ」

 少し落ち着いた直己は、わたしの淹れたお茶を大事そうに飲みながら話しだした。

「最初は、遊びの気持ちだったんだ。君を抱くには痛々しすぎたし、でも俺だって男だから……」

 わたしは頷いて続きを促した。

「でも、子供ができたと聞くと、最初は堕胎をしてもらうことも考えたんだけど。だんだんに大きくなるお腹を見せられているうちに、愛おしくなってきたんだ」

 予想をしていた言葉でも、愛おしくなったと聞くと、心がざわついた。

「君にお腹の子が移ってくれたら、どんなにいいだろうと思った。君の妊婦姿を想像して、苦しい毎日を送ったんだ」

 茶封筒から離婚届を取り出し、わたしのサインを見つめながら、直己はため息をついた。

「この先、あの子をどの程度愛せるのかはわからないけど、父親になるという自覚だけは、はっきりとしているんだ」

「うん」

「このマンションは君に残すよ。それから、できることなら、君とは繋がっていたいんだ」

わたしは、ゆっくりと首を振った。

「直己。わたし、あなたをわたしなりに一所懸命愛してたの。他の誰かのものになったあなたは、見たくないわ」

「だめだ。やっぱり、サインできない。認知すればいい話じゃないか。世の中にたくさんある話だよ」

「たくさんある話だけど、直己はそれでいいの?」

直己は、うなだれたまま口を開こうとしなかった。

 直己は、パパのように演技をしながらまわりを幸せにしていくことはできないだろう。不器用な人なのだ。

「推理小説の犯人ね、あれは愛人の子供だったわ」

 直己は黙って頷いた。

 翌日最低限の荷物をまとめて、家を出た。

 ウィークリーマンションを借りて街を歩き回った。デパートの地下街でケーキやお寿司を買いこんで、ベッドの上で胡坐をかいて食べた。

 おいしそうだと思い選んだ食べ物なのに、口の中に含むと、砂を噛むようだった。

 それでも、食べて、食べて眠った。


11


 店長はわたしが離婚したことにひどく驚き、言葉を失った。

 わたしからお願いする前に、店長からの申し出でパートの日数が週に四日に増えた。少しでも仕事を増やしてもらえるのは大変ありがたい。

 少し増えるお給料分をさっそく活用しようと、水晶の印鑑を注文した。真鍋の印鑑は持っていたが、山岸の印鑑は、柘植のものが一本あるだけだったのだ。

 三日後、佐藤さんが丁寧に皮の袋に入れて届けてくれた。わたしの印鑑だというと、店長同様やはりひどく驚き、それからポケットからピンク色の石をだして

「わたしの石は、力が足りないみたいだから。交換してよ」と笑った。

 わたしは「浮気されて捨てられたのよ!」と大げさに言うと

「わたしの石の方がましかもしれないから」

 と慌てて出した石をポケットに戻し、とおどけた顔を見せ「でも、これからいい出会いがあるんじゃないの?」とからかった。

綺麗な水晶の印鑑に朱肉を付けて試し押しをしてみると、柔らかい感触で綺麗に捺印された。

「使いやすいわ」

「ね? でもあんまり売れないから大変なのよ。今日もこれから山梨にいくのよ。天使は評判がいいの」

 わたしは、水晶の天使を直己とその家族のために送ろうと決めた。佐藤さんに三つ注文をして少しだけ喜ばせた。

 わたしの口座には、直己からマンションの頭金用にとまとまった金額が振り込まれた。パパからの遺産も少しはあるから要らないと断ったが、男のケジメがあるんだと聞かなかった。

「凛は、君はひとりになって大丈夫なの?」

 何度となく直己から聞かれた言葉に

「紙一枚の義務で一緒にいてくれる男性と二人ぽっちよりも、せいせいと一人ぽっちのほうがいい感じよ」

 と答えた。

 新しい家は、海のそばの1LDKのマンションに決めた。

 リビングの窓からはいつでも海が見える。遠くには天気が良ければ烏帽子岩が見えるし、海岸線のお店は賑やかで飽きない。

 お墓までは新しい住居からも電車で三十分の距離だった。生まれてからずっと私鉄沿いに住んでいた私にとって、JRの線路も興味深いものだった。夜には深夜特急が走りぬける。初めて見たときには、走るホテルのようで思わず噴き出した。

 やはり早いスピードの乗り物は好きではないけれど、遠くまで電車で出かけてみるのも悪くないと思うようになった。

 初めて、JRに乗って、パパのお墓に出かけた。

 風が少し冷たく空も高い。秋の始まりを感じる澄んだ空気を胸一杯に吸い込んで歩きだした。

 お墓の前で、いつもは遅れてくる彼が、先に掃除をしていた。

「花を入れさせて」

 彼は振り返らずに、少し左へ避けて花を入れるのを手伝ってくれた。

「パパと何を話したの?」

「内緒です」

「じゃ、わたしも内緒ね」

 そう言って火を付けてもらったお線香を手に、しゃがんでそっと墓前に供えた。

「今日は、どうする?」

「今日は、どうしたいですか?」

 ほぼ同時に口にした彼とわたしは、しばらく見つめあってから、吹きだした。

「話したいことが山ほどあるのよ」

 わたしはそっと手を伸ばして彼に引っ張ってもらいながら立ちあがった

長い作品にお付き合いくださり、ありがとうございました。

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