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 わたしと彼はパパの好きだった中華料理屋で五目そばを食べて、子供の頃から行きつけだったという和菓子屋さんに足を運び、豆大福を頬張った。

 どちらの店のご主人も父を幼い頃から知っている幼馴染だ。少しの思い出話をしながら、ショップホッパーになるのは想像していたよりも楽しいことだった。

「この小料理屋の向かいに、パパの名前を付けてくれた住職さんが住んでいたのよ」

 いまは駐車場になっている土地を指先案内した。そして、その先にある高層マンションを指さし、「ここが生家があった場所なのよ」と彼に教える。彼は黙ってついてくる。

「じゃ、僕は競輪場に案内しますよ。でも今日は開催日じゃないから、来月の月命日に。ちょうど日曜日で開催しているんです」

「競輪場? なんで」

「僕はよく一緒に行ったんですよ」

「ふーん、男同士ならではね」

「悔しいですか?」

「別に。でも今日回った店、本当は全部知っていたんじゃないの?」

 彼は両手を振って、初めて食べたものばかりだし、知らなかったと大げさに言った。

「だから、今日の僕からの思い出の提供は、一か所です。僕の店に来てください」

 わたしは、少し戸惑いながらも、彼についていった。

 車通りの多い道をまっすぐ海に向い歩く。強い風が吹くと、塩の香りが鼻をくすぐった。細い迷路のような路地を何度も折れ曲がり、小さな駄菓子屋さんの脇を入ったところに「SORA」はあった。

「小さい店なんですけどね。どうぞ」

 重い木枠のガラス戸をあけると、中は中国茶喫茶のような雰囲気で、それでもお客が座るイスなどは十分心地良さそうなものをセレクトしている。

「なーんか、渋い店ね」

「そう。ここでパパさんの髪を切るのが、ぼくは好きだったんです」

 奥から冷たい缶コーヒーを二つ持ってきてくれた彼は、お客用の待合の椅子にわたしを座らせると、自分は小さな木のスツールを向かいに置いて、腰掛けた。

「凛さん。髪が傷んでますよ」

 伸ばしっぱなしになっているわたしの髪は、もうすぐ腰まで届きそうな長さになっていた。その毛先をわたしは指先でくるくると弄んでいると、彼はテーブル越しに顔を近づけてきた。

 彼は、長いまつげをしている。

 それから黒眼が大きくて、唇は薄い。

 口角が上がっていて、頬が少しこけている。

 わたしは、初めて彼の顔を冷静にみた。肌が焼けている。

 じっと見つめているわたしの視線から目をそらすと、

「少し、切ってあげます」と立ち上がった。

「伸ばしているのよ」

「長すぎです。似合わない」

 彼は断言すると、わたしの手を引き、ガラスの前の椅子に座らせた。

 黒いマントを首に巻いて、大きなテルテル坊主になったわたしが鏡に映っている。

「それから、色も染めた方がいいよ。ピンクと茶色を混ぜて落ち着いた色にすると、白い肌にも似合うから」

 器用な彼の指先が、わたしの首筋をなぞった。

「やっぱり長いから、シャンプーしてから切りましょう」

 彼は滑稽なテルテル坊主のわたしを連れて、奥のシャンプードレッサーに案内し、小さな白いガーゼを顔にかけた。

「僕ね、シャンプー上手なんですよ。大抵のお客さんには褒められます。パパさんにもね、ほめられましたよ」

 耳元で彼の声がシャワーの音にのって音楽のように聞こえる。心地よい刺激を頭に受けながら、今日の夜八時の電話のことを考えていた。

 わたし、辛いことがあるの。

 そう言いだしてしまいそうで、口の中の頬の肉を奥歯で軽く噛んだ。

 二十センチほどカットしてもらっている間、なんども鏡越しで目が合うので、わたしは読みたくもないファッション誌を手に取った。読んでいるふりをしながら、隙を見ては鏡越しの彼を見た。

 パパのY染色体が、わたしを呼んでいる気がした。

 それからは、他愛もない話を探しだしては口にして、その場を凌いだ。

 駅までの道があやふやなので送ってもらう。

「来月も晴れるといいわね」

「銅鑼の音にびっくりしますよ」

 彼は笑って改札口で手を振った。わたしは振り返らないように小走りでホームへ向かった。体が軽かった。髪が軽くなると、こんなにも身軽に感じるのか。長い髪が好きだという直己には悪いが、痛んでいたといえばいいだろう。


 マンションのエントランスの前に、女が立っていた。夕暮れのオレンジの光の中に、小さな影が揺れていた。

 電話は、今日は鳴らないようだ。わたしはゆっくりとその影に近づいた。

「真鍋凛さんですか」

 声をかけてきたショートカットの女は、ぽっちゃりした体をシャツワンピースでつつみ、首には不愉快なほどきれいな黄色のストールを巻いていた。

「電話の方ですか」

 わたしは質問に答えず切り出した。

「すいません。わたし……」

 目に涙を浮かべている女をとりあえず近所の喫茶店に連れ出し、平静を装いながら、観察をした。

 顔は十人並みだ。スタイルもよく分からない。ただ、どうしてワンピースがこんなにゆったりしたAラインのものなのか、それだけが気掛かりだった。

好みも何も聞かずにアイスティーを二つ注文し、席で向かいあった。

「すいません」

「何が?」

「わたし」

「ええ」

「彼と、別れてください」

「どうして、そんなお願いされないといけないの」

「子供がいるんです」

 わたしは、ワンピースの理由を知り、声を失った。

「彼の子供なんです。本当です」

 女はわたしを正面から見据えた。すいません、と口ではいいながらも女としての勝ちを宣言したかのような目の色に、飲み込まれそうになる。

「無理よ」

「凛さん、子供欲しくないんでしょ? 彼のためにわたしは努力したわ」

「意味ないわ。そんな努力」

「彼の親御さんだって、わたしを否定しても、孫を抱ければ気が変わるはずです」

「だったらなんだって言うの」

「別れてください。別れてください。土下座してもいい。彼をわたしと赤ちゃんにください」

「ありえないわ」

 わたしは大きな声を出して椅子から立ち上がった。出ていこうとするわたしの肩を、女が抑えて食い下がってくる。

「あなた、ずるいわ。わがまますぎるもの」

 女は泣き崩れて床に座り込んだ。周囲の目が一斉にわたしと女に注がれる。

 ずるいのはどちらか、わがままなのはだれか。

 わたしはお腹を蹴とばしたくなる衝動を抑えるのに頭の中で十数えてから、店を飛び出した。

 短く切った髪先が肩で揺れて小さな音を立てた。その夜直己は返ってこなかった。


 翌朝わたしはいつものようにクイックサインに出社し、出来上がっていたゴム印を中学校に届けた。

用務員さんは相変わらず腰をさすり

「子供なんて、何の役にも立ってくれないよ」とぼやいた。

 わたしはその声を聞き流し、事務所に戻り、大掃除をした。展示品を一つ一つ丁寧に布で拭いて、元の位置に戻した。

 とにかく夕方になるのが、夜になるのが怖かった。

 今日も一人になってしまうのだろうか。不安で足が震えた。わざと大周りをして家路についた。

 書店に立ち寄り推理小説を一冊購入したところで、以前から読んでいる作品を読み終えていないことを思い出した。

 重い足を引きずり家に帰ると、直己が台所に立ち、わたしの好きなパエリアを作っていた。その後ろ姿をみていると安堵と怒りが入り混じり、言葉が何もでてこなくなってしまい、仕方なく腰をグッと両手で抱いてくっついた。

 直己は少し動きにくそうにしていたが、何も言わずに料理の手があくたびに、わたしの両手を包んだ。

 テーブルに並べられたパエリアにレモンをたくさん絞った。レモンの黄色が女のスカーフの色に似ていた。似合っていたかどうかも覚えていないが、鮮やかな明るさが不快だった。

 わたしは、何も言わずにそのパエリアを少し食べて、少し泣いた。直己はわたしの肩を抱いて、黙ったままため息をついた。

 ため息を左耳で拾ったわたしは、もっと泣いた。

 直己がため息を飲み込む音が聞こえた。




 夜の電話が鳴らなくなった以外、わたしと直己の生活は何も変わらなかった。

 天気のいい休日には一緒に公園に行き散歩をする。朝ごはんは毎朝ふたたび一緒に食べるようになり、冷蔵庫の中身は直己の好きなものが増えていった。

 夜には手をつないで眠り、出勤前には抱き合った。わたしと直己の静かな元通りの生活がそこにはあった。

 マンションから見える景色も、吹く風も、新婚当時と何も変わらない。

 週に三回はパートにでて、時々書店に寄り道をする。気が向けば昼下がりには喫茶店でケーキを食べ、CDショップで試聴プレイヤーのヘッドホンをかぶって、音を浴びた。

 そんな時にまわりを見渡すと、わたしの年代の人が少ないことに気づく。

 大学生、高校生、たまに若い女性もいるが、たいていは子供の手を引いているか、大きなスーパーのビニール袋にたくさんの食料品を買いだめして、その休憩に立ち寄っているような人たちばかりだ。

 文庫本を片手にふらふらしている不良は、わたし以外いない。

 それがひどく切ないことだと感じ、いたたまれない気持ちになった。

 自由すぎる体は、悲しさで身動きが取れなくなる。

 スクランブル交差点で、たくさんの人とすれ違った。みんな目的地に向かい、まっすぐ歩いているように見える。

 わたしは? 右に行こうか、左に行こうか、まっすぐ進もうか。

 交差点の真ん中で足がすくんだ。

 どこに行けばいいのか、分からなかった。慌てて携帯電話を取り出し電話帳をスクロールした。次々と流れる名前を眼で追いながら、誰かを探す。子供を持つ友人と会うのは嫌だ。独身でバリバリ働いているキャリアウーマンには引け目を感じた。

 わたしは、誰にも会うことができないし、人と付き合うこともできないのだと、街のざわめきが教えてくれた。

 今日は、直己以外の人と口をきいていない。昨日も、おとといも。

 あの無言電話すら恋しかった。

 信号機が警戒音をたてた。わたしは慌ててとりあえず自分が向いている方向に歩きだした。

 早く月命日になってほしい。

 彼に会ってパパの話をすることだけが、わたしの生活になっていた。

「真鍋さん」

 不意に肩を掴まれ振り返ると、いつもお店に水晶の印鑑を届けてくれる営業の佐藤さんが立っていた。

「顔色悪いわよ。どうしたの?」

 わたしは、声が出なかった。唾をゴクンと飲み込んでから、恐る恐る口を動かした。

「いいえ、びっくりして。まさかこんな所で知り合いに会うなんて思わなかったから」

「ちょうど搬入が終わって、会社に戻るところなんだけど。お茶でもどう?」

わたしは、頷いて佐藤さんに後に付いていった。

 オレンジジュースを前に向き合うと、佐藤さんはクイックサインで会う時よりも老けて見えた。

「一日に何件も回るでしょ? それにさ、今どき水晶の印鑑なんて売れないじゃない。疲れちゃう」

 たしかに、最近は印鑑を本物の石で作るよりも、丈夫なチタン製や、固くて安い柘植などで作る顧客の方が多い。わたしも水晶の印鑑は持っていない。

「山梨にもよく行くんだけどね。知ってる? 昇仙峡ってあるでしょう。あのまわりは水晶屋さんが沢山あるのよ。でね、これ見て」

 鞄から取り出した小さな紙袋を手渡され、開けてみると、小さな水晶でできた天使のストラップが二つ入っていた。

 頭部には金の輪と、背中には羽根が付けられている。

「かわいいわね」

「でしょ? これを売り出したいんですって。で、サンプルでいくつか貰ったんだけど、真鍋さんにも差し上げようと思っていたの。ちょうどよかった」

「頂いていいの?」

「えぇ。願い事が叶うんですって。石って力があるっているじゃない」

それから佐藤さんは布の袋から小さなさまざまな色の石をテーブルにぶちまけて、好きなのを選んで持っていくといいと薦めてくれた。

「このピンクのローズクォーツって石が、恋に効くんですって。このタイガーアイはお金……」

「高いんじゃないの?」

「ううん。これは、つかみ取りで五百円くらいの商品なのよ。もっと綺麗で宝石の価値があるものは、高いと思うけど。あっ、真鍋さんって結婚していたのよね。じゃぁローズはいらないか」

「え? 結婚している人が持っていたらおかしいかしら」

「おかしくないけど、あぶないわね」

 佐藤さんはいくつかの綺麗な石を選んで、わたしによこしてくれた。

「一番いいローズクォーツは、わたしがもらいましたけどね」

そう言って、ジュースを一気に飲み干すと、携帯電話で時間をチェックして、「そろそろ戻るわね」と席をたった。

 わたしも慌ててジュースを飲んで、後に続いた。鞄の中で、石がコロコロ動く音がしていた。

 その心地よい音に耳を傾けながら家路についた。

 いつものように夕食を食べ、お風呂に入り、布団にもぐった。直己は、彼女の話を一切しない。

 わたしからも切りだすことはなかった。

 子供は本当に直己の子なのだろうか。何か月になったのだろうか。眼を閉じると、数年前に見た不妊症治療のドキュメンタリーの胎児の映像が浮かんできた。

「女はすごいのよ。だって、男だって女から生まれてくるんだから」

 インタビューを受けた女医は、そんなことを言っていた。

 では、産めない女は何だというのか、女医はなんて答えるのだろうか。

 眠れずにテレビを適当な番組にセットしたまま音声を聞いていた。

「男系にこだわる理由の一つとして、Y 染色体の存在を無視することはできません。X染色体とことなり、Y染色体は男子から男子へのみ受け継がれていく染色体であり、遡れば……」

 意味不明な専門用語のさざ波に引き込まれるように眠った。




 競輪場に行く約束をした日は、バルコニーから空を見上げると厚い雲が太陽光を遮り、薄暗い朝だった。お墓のある街は雨が降っているかもしれない。憂鬱な気分に拍車をかけるように、直己が一緒に行くと言い出した。やんわり一人で行きたいと伝えてみたが、笑うだけで直己が付いてくる意志を変えることはなかった。

 彼に電話を入れる隙はなかった。一度トイレの中から携帯で電話をしてみたが、繋がらなかった。

 休みの日の電車内は、家族連れでにぎわっていた。吊革につかまりぶら下っている幼児もいれば、熱心に車窓からの風景を見る小学生もいる。

「かわいいわね」

 直己の視線が子供に注がれていることに気付いて、声をかけた。

「そうかな。よくわからないよ。うるさいしね」

 直己の携帯電話から「ユー・ガットメール」という電子音が三回繰り返し聞こえた。 

 この着信音は、むかし二人で見に行った映画のタイトルで、とても気に入ったのでお互いのメールの着信音だけは、この音にしようと約束したものだった。

 いま、わたしはメールを送ってはいない。

 慌てて直己は携帯をマナーモードに切り替え、わたしの顔を覗き込んだ。

 わたしは、聞こえなかったふりをするしかできなかった。

「大した用事じゃなさそうだし、今日は休日だからね。仕事のメールは無視するよ」

 聞いてもいないことを滑らかに話しだす直己は、わたしの知らない人のようだった。

 駅からお墓までの道のりが遠く感じる。直己は私の分も傘も持って、ピクニックのように軽い足取りで歩いてゆく。から騒ぎをしているようにしか見えない。

「もう少し、ゆっくり歩いてよ」

 わたしは声をだしたが、直己の耳には届かない。

 いつでもわたしの大事な声は直己の耳には届いていなかったのかもしれない。そして逆もまた。

 お墓を掃除し、薔薇の花を生けて線香に火をつける。雨が降りそうで降らない。雲が重くて、わたしは肩が凝りそうになってしまった。

 直己は嬉々として境内を掃いて綺麗にし、久しぶりに会う住職と趣味の車の話で盛り上がっていた。

 彼がお墓に到着する前に、消えてしまいたかった。しかし、彼の顔を見ることなく、ここを去るのは間違っているような気持ちが心をざわめかせた。

 墓前でしゃがんでいるわたしの視界に、小さな影が見えた。ひょろりと長いシルエットは、間違いなく彼のものだ。

 わたしは、ゆっくり顔をあげた。

 彼は、直己の存在にすぐに気付いたように見えた。そっと小さくお辞儀をして、こちらに向かってきた。

 まっすぐに、わたしの前までやってくると、目を合わせることなくすれ違った。

 自分の心臓の音が、すれ違う彼に聞かれたような気がした。

 本堂の前にいる直己が私と彼を交互に見ている。

 わたしは、視線を直己に合わせたまま動かなかった。

 彼はパパのお墓の前を通り過ぎ、墓地の奥へと振り返ることなく歩いていった。

「凛!そろそろ行こうか」

 住職との話を終えた直己が、私に手を振った。

「ええ」

 わたしは、スカートの裾を少しひっぱり形を整えてから、直己の方へ歩き出した。

「どこかで、会ったことがあるような気がするんだけど」

 直己は彼の方を向きながら首をかしげている。

「そうかしら。では、法事のときに境内でお会いしたんじゃないかしら」

 わたしは、平気で嘘をついていた。

 初めてつく嘘に声が震えるかと思っていたが、堂々としたはっきりと聞き取りやすい声が出た。

 思い出した。

 わたしは、いつでも直己に嘘をついてきたのだ。出会った時からずっと。

 駅へ向かう間、ほとんど口をきくことがなかった。直己は携帯電話をわざとらしく鞄に入れている。いつもはズボンのポケットに入れて、時間さえあれば、メールやブログのチェックをしていた。

「ランチ、どうしようかしら」

「駅ビルでいいだろう」

「ええ。おいしいイタリアンのお店が入っているのよ」

「ワインも飲もう。おとうさんが好きだった白ワインがいいね」

「ええ」

 店に入ると、直己はメニューから「おとうさんが好きだったもの」を選び注文した。ペンネアラビアータ、イカ墨のピッツア、生ハム、オリーブ、キャンティ。ゆっくりと食事をしている間、何度も携帯電話のバイブの振動が小さく聞こえた。

 改札口の前で、少しワインに酔った勢いでいった。

「携帯電話、見せてよ」

「仕事の話を見ても仕方ないだろう?」

「違うでしょ。もう、行ったらいいじゃない」

 わたしは、鞄から力づくで携帯電話を奪い取り、床に投げ捨てた。想像よりも軽い音をたてて、二つに割れた。

「行ったらいいじゃないの」

 わたしは来た道を戻った。

 パパのお墓にもう一度いけば、まだ彼はいるかもしれない。

 お堀にさしかかると、雨が降り出した。小走りで濡れながらお墓に行くと、そこには誰もいなかった。

 パパもいない。

 冷たい空気と緑の匂いがわたしに付きまとい、窒息しそうになる。

 小さな雨粒が葉に当たる音だけが聞こえた。

 このまま、突っ立っていても濡れるばかりだ。思い切って海へ向かった。SORA、たしかお店は海のそばだった。いく度も角を曲がり、同じ場所を繰り返し通り迷いながら、見覚えのある駄菓子屋を見つけた。

 この脇の道を行けば、彼の店はすぐそこだ。

 小さく「SORA」と書かれた控え目な看板を見つけて安堵した。お店をガラス越しに覗くと、彼が女性客の髪に触れている姿があった。

 気持ち良さそうに目を閉じてブラッシングをされている女性に狂おしい嫉妬を覚えた。ほほ笑みながら、客と話す彼を見ていると息が止まりそうになった。店に入るのをためらい、来た道を戻ろうとしたとき、ドアが開いた。

「……どうしてこんなに濡れているの? 傘は?」

 わたしは、口を開くことができず、逃げることもできずに立ちすくんだ。彼はすぐにタオルを持ってきて、わたしの肩を抱きながら店に入れた。

「座っていて。寒かったら、タオルはもっとだすから」 

 鏡越しに客がわたしを観察しているのが分かった。

 わたしはタオルを頭からかぶり顔を隠した。頬が熱い。ワインのためか、涙をこらえているためかわからないが、体中が熱を帯びたようだった。

 彼は、わたしを見ないようにしながら仕事に戻った。時折二人の囁くような笑い声が聞こえてくる。常連客なのだろう。でも、どうしてこの時間にお客がいるのだろうか。本当なら、今日は二人で競輪場に行き、パパの話をしてお茶を飲むはずだった。お店は臨時休業にするはずだったのだ。

 女性客が仕上がり具合を合わせ鏡で確認し、うれしそうに笑った。彼はワックスを手のひらで伸ばし、再度女性の髪に触れた。うなじから、首筋まで、綺麗に指でマッサージしながら、髪を整えてゆく。

 彼女は眼を閉じて彼の指先に神経を集中させている。

 ぬれ鼠のわたしは、こんなふうにタオルの隙間から二人をのぞき見して、涙をこらえている。

暫 く聞きとれない会話が続いたあと、ドアが開く音がして、静寂が店を支配した。

 彼は、わたしのタオルそっと外すと、しゃがんで顔を覗き込んできた。

「風邪ひくから。夏でも、体を冷やしちゃだめだよ」

「ドライヤー、貸してください」

「いいよ。でも、今日は髪を染めさせてよ」

 彼はわたしの髪の色を選び、丁寧にプラスチックのケースでクリーム状の染料を混ぜながら持ってきた。

「夏だし、少し明るくしたほうが似合うよ」

 わたしは、言われるままに鏡の前に座り、彼の指先の動きに酔いしれた。

「前髪、作りたいんだけど」

「え? どんなふうに」

「広田レオナみたいにしたい。プッツンと眉くらいに揃えて」

 彼はしばらくわたしの髪をいじり角度を変えて眺めまわした揚句に、似合わないからやめておいた方がいいと言った。

「なんで、広田レオナがいいの」

「個性的だから」

 彼は、溜息交じりに髪を染め始めた。「似合わないから、嫌です」そう言うと、彼は鋏をワゴンの奥に隠した。

「今日は、びっくりしたよ。日曜日だもん。ご主人と来ることも考えていたんだよね。すいません」

 彼は、謝りながら鏡越しにわたしを見つめてきた。

「違うの。急に言いだしたのよ。わたし、競輪場を楽しみにしていたのに」

「ところで、ご主人は?」

「駅で別れたの」

「そう。大丈夫なの、帰る時間とか」

「いいのよ。今日は主人も仕事で出かけたの」

 彼は、ふぅんと小さく呟いて、大きな黒い目でわたしを刺すよう見る。

「どこかに行こう?」

 わたしは、鏡越しに彼にすがった視線を寄せた。

 自分で、自分が嫌になるほどいやらしい目つきをしている。

「分かりました。雨があがったら、公園。あがらなかったら、バーにお連れしましょう」

 髪が染まり、軽くなった。ガラス越しに外を見ると、相変わらず黒い雲が空を覆っているが、雨は降っていなかった。

「服は乾いてる?」

 わたしは頷いて、椅子から立ち上がった。

「行きましょう」

 彼は、店の鍵をレジ脇のキーケースから取り出し、店の扉を閉めた。

これで2/3です。あと少しだけ付き合ってください。

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