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モルヒネが大仰な機械に取り付けられた大きな注射針から、少しずつ少しずつパパの体内に送り込まれている。そのモルヒネの投入される早さと同じくらいのスピードで、パパはわたしに話しかけてくる。

 深夜の三時、こんな時間にパパと二人きりで話をするのは、十年前の結婚式前夜以来だ。

式の前夜、眠れずにリビングでテレビをつけ、薄く作った水割りを飲んでいると、同じく眠れなかったパパは、「いいもの飲んでるな」といいながら三人掛けのソファの隅に腰掛けた。

 わたしは、同じものをもう一つ作り、パパに渡した。結婚おめでとうとパパが小さく呟いて、わたしはその言葉に泣きそうになった。

「ねぇ、わたしが嫁いじゃったら、山岸家の人間がパパとママしかいなくなるでしょ? 養子に来てくれる男性を探しなおしてあげようか」

 わたしは、あの時結婚が怖かったのかもしれない。

「結婚するの。まだ早いと思わない?」

 たしか、わたしはグラスを傾けながら小声で聞いた。

「二十五だろ? 別に早くないよ。それに、もしも凛が養子をもらってくれても、パパに男の子供ができなかったんだから仕方ないよ。Yがないんだから」

「なによぉYって」

「Y染色体」

 パパは悪戯をした後のような笑顔を見せてから

「名前だけ残しても仕方ないんだ。でも、ちょっと寂しいな」

 とだけ言うと、グラスを空にした。

「もう寝なさいよ。眼の下にクマのある花嫁なんて綺麗じゃないから」

「メイクで隠しますよ」

「そうか、凛の顔は明日特殊メイクのような化粧をしてもらって、綺麗に化けるんだっけ。楽しみだ」

 パパはソファから立ち上がり、グラスを流し台に置いて、二階へ戻っていった。


 ベッドの上のパパを見ると、あの会話をした時と全然変わらない。薬がいい為か、あまり痩せてもいない。ただ違うのは、ソファに座らずにベッドで寝ていることくらいだ。

 ぎゅっと閉じているその眉間に小さく皺が寄っている。

「どこか、また痛いの?」

 と声をかけると、小さく首を振った。

 モルヒネの入る速度で、パパの命が体から消えてゆくように見える。

 わたしは、パイプ椅子から静かに立ち上がり、個室をそっとすべり出た。

「何時間、この注射でモルヒネを入れるの? 痛みがなくなったらやめてくれるんですか?」

 パパはもう痛みがなくなったって言っています。注射を止めてください。ナースステーションに足を運び、低い声で訴えた。

「医師の指示に従うことしかできません。いま注射をやめると、また痛みが戻ってしまいますよ」

「あと、数時間で父がこの世からいなくなるってことなの?」

 わたしは奥歯を噛みしめながら呻くように声を出した。看護婦はそんなことはありません、とだけ小さく声を出すと、引っ切り無しになっているナースコール用の受話器に手を伸ばして、パパの病室とは反対方向へ銀色のワゴンをひいて小走りに去っていった。

 残った看護婦は誰もわたしと目を合わそうとはしない。

 テーブルに置かれたアレンジメントフラワーに目をやると、ピンクのスイートピーが萎れている。わたしは、そっと抜きとると洗面所に持っていき水切りをしたあと、鏡の脇にあった一輪ざしに差しなおした。

 小さな命も大きな命も、いまは何でもいいから救いたかった。

 救うような疑似行為で、自分が救われたかった。

 声を押し殺して泣いた。

 目薬を差したあと病室に戻ると、パパは笑顔を見せた。

「凛、お願いがあるんだ」

 パパの言う通りに、ロッカーからセカンドバックをだして、中の黒い手帳を取り出し、指定された名前を探した。

内田慎吾 

(店SORA)0465-××―×××× 

(携  帯)090-××××―××××

 と緑色のペンで書かれている。

「内田慎吾、あったよ」

「俺に、もしもの事があったら、葬儀には声をかけてやってくれよ」

「もしも、なんてないわよ。友達?」

「分かんないか。だとすれば俺も大した役者だったのかな」

 パパは鼻から静かに長く息を吐きながら、口角を上げて笑った。


 早朝、直己が病室にやってきて三十分後、パパはママのところへ行ってしまった。

微かにほほ笑んだまま固まったパパの顔を、わたしと直己は大泣きしながら見下ろした。もう二度と会話をすることもない。

 深夜三時に二人でゆっくりウイスキーを飲むことも叶わない。

 顔を洗いに洗面所に行くと、スイートピーは、さらに萎れて色を失っていた。手で握りつぶしてゴミ箱に放り捨てた。

 ウチダシンゴ、シンゴ、内田という名字の知り合いはいないが、シンゴという名前には覚えがあった。

 わたしが六歳の時、パパとママの大ゲンカの末、認知された子供がいた。その子の名前はたしか、シンゴだった。手帳の彼がそうなのだろうか。


 斎場に安置されたパパの眠っているお棺の脇に、パイプ椅子を置いて座っていた。そこから忙しそうに動いてくれる直己を眺めた。生花や花輪が搬入され、慌ただしくお通夜の準備が進められている。

 わたしのまわりには常に親戚や友達などがやってきて、そっとしておいてはくれない。

 ざわざわと、まるで演劇の開演前のような風景を、パイプ椅子に座りながらぼんやりと眺めていると、背の高い男性が、まっすぐにわたしを見つめ近づいてきた。

「凛さん、ですか?」

 彼は、内田慎吾だ。

 名のらなくても分かる。直感がそう告げていた。

「お電話ありがとうございました。会わせてもらえますか」

 わたしは、立ち上がり内田慎吾と並んでお棺に進み出た。

「僕が会ったのは、もう一年も前ですけど。あまり変わっていない」

 内田慎吾は静かに涙を流すと、わたしのほうに向きなおり、深くお辞儀をした。

 わたしの痛いほどの悲しみを、この人は共有してくれている。そんな錯覚に陥った。周囲のざわめきがきこえない。まっ白な世界で、わたしと、内田慎吾と、パパの三人しかない。

 そしてそれで満ち足りている気持ちになる。

「みんなには黙っているので……またご連絡します」

 小さくそう伝えると、内田慎吾はもう一度お辞儀をして出ていった。

 わたしのスカートの裾を、おばが小さくひっぱった。

「凛ちゃん、もしかして今の子って……」

 わたしは小さく首を傾げて、パイプ椅子に戻った。


 遺産相続の手続きは、公正証書に基づき分配された。その相続人の中に内田慎吾の名前はなかった。

「遺留分の請求など凛を困らせるような行為がないことを祈ってこの書類を作成した」との一文が、 内田裕也を排除していることを示していた。

 遺留分を請求できる立場の人間がいるのだということを暗に示している一文でもあった。

 直己には、内田慎吾のことは隠しておこうと決めた。





 電車に三十分ほど揺られ、大きな駅で降りる。

 駅前の商店街を通り抜け、お城のお堀沿いをゆっくりと歩く。観光バスが駐車場に三台停まっているのが見えた。脇では運転手らしい男性が、煙草をふかしながら空を見上げている。

 その駐車場から続く長い坂を登りきり、後ろを振り返ると綺麗な弧を描いた鼠色の西湘バイパスと、真っ青な海が見える。

 駅からは少し歩くけれど、死後はこの生まれた自分の愛する街の景色を眺めな暮らすのも悪くないと笑っていたぱぱは、きっといま、わたしの横で同じ景色を眺めている。

 月命日は欠かさず好きだった薔薇の花を持ってお墓に行く。

 墓地で血を流すと良くないと、棘のある花は忌み嫌われるけれど、気にしない。

 毎月十二日の午前十一時にわたしは二人の男と待ち合わせをする。

 彼は、お線香とライターを持っていつも少し遅れて息を切らしてやってくる。

 わたしは、少し怒った顔を見せて両手を差し出し、三本のお線香を受け取り、ライターで火を付けてもらう。

 まるで線香花火に点火するようなじれったさを楽しむ。

 パパは、娘と息子がそろって毎月会いに来ることを快く思っているのだろうか。お墓の中からママの怒る声と、パパの笑っている声が聞こえてきそうだ。


 藤の花がきれいだからと、駅とは反対の方向へ歩き出した彼についてゆく。

 そこは、見ず知らずの民家の庭先で、手入れをされた藤棚が重い房をもてあまし気味に支えている。軒越しに少し背伸びをして覗き込みながら

「つきなみだけどきれいだね」

 と言うと

「んー、ね?」

 と笑った。

「なんか、餌が欲しくて媚びている猫みたいな声だね。んーね、ぅんーねってさ」

「ひどいなぁ。優しい相槌をしたつもりなんだけど」

 わたしは返事をしないで、藤の房を見上げた。

「来月から、思い出を共有しませんか?」

「何?」

「せっかく月命日に二人で会うんですから、父さんの思い出の町を一緒に歩くんです。僕だけが知っていることもあるだろうし、凛さんしか知らない思い出もあるでしょ」

「父親捜しするの?」

「そう。生きていた足跡を、二人で探すんです」

「いいわよ。じゃぁ来月は、わたしがとっておきのお店にお連れしましょう」

「僕も、まぁ少ない思い出を一所懸命思い出してきますよ」

 妙な対抗心を燃やしながら、駅への道をのんびりと歩いた。

 彼とこんな風に、会うようになるなんて、パパは想像していただろうか。

「凛さん。藤の花好きでしょう? 僕知っているんですよ。いろいろ聞かされていたから」

 彼は、わたしのことを一方的に何でも知っていた。パパは愛人との間の子供に、何を話していたのだろうか。

 彼は、どんな気持ちでわたしの話に耳を傾けていたのだろうか。

「凛さんは一人っ子だから、いろいろ心配なんだって言っていましたよ」

 と、彼は小さく笑った。

 彼はわたしより五つ年下だ。

 身長はわたしよりも二〇センチ高い。

 足のサイズは四センチ大きい。

 そして、父の生まれ育ったこの海辺の町に住んでいる。

 逆の言い方をしてみると、わたしは彼より年上で背が低くて足も小さく、父が生まれ育った街とは離れた場所で暮らしている。お墓からも少し遠い。すべてわたしのほうが不利に思える。

「ずるいわね」

「何が?」

「あなたの方が、わたしより恵まれていない?」

「意味分かんないよ」

 彼は屈託なく笑う。その笑顔を見つめているとパパを思い出して泣けてくる。

 愛人の子供と仲良くするなんて、まわりから見れば異常にすら映るかもしれない。それでも、わたしは彼の明るさと思慮深さに、そしてなにより微かに感じる「Y」に惹きつけられていた。

 二人で商店街から少し外れた喫茶店に入った。

 わたしはアイスミルクティーを注文し、彼はブレンドを頼んだ。テーブルに置かれた細くて長い指を見つめる。しなやかに動く手入れの行き届いた指先。

「商売柄ね、清潔にしておかないと」

 わたしの視線に気づいていたのか、彼はまっすぐ両手の指先をわたしの鼻先にのばしてきた。

「パパと似てないわね。パパの爪は、こんなに弧を描いた形じゃなかったもの。平の爪だったわ」

 わたしは、どんな顔で彼の指先に見入っていたのか恥ずかしくなり、荒い声を上げた。

「そりゃ、全てが似ているとは限らない。そもそも……まぁいいんです」

 コーヒーの香りが鼻先をくすぐった。テーブルに置かれた飲み物を飲みながら、わたしと彼は少し静かになった。

「あのね。言いたくないんだけど、相続の件だけど」

 わたしは遺留分を彼に手渡してもいいと思っていた。もともと不労所得であるし、なにより最後の一文が気にかかっていた。

「いいんです。あのね、僕の母は、僕が三歳のころには他の男性と結婚したんです。それから離婚してまた再婚して。だから僕には『父親らしき人』がたくさんいるし、なにより僕の学費や生活費を、凛さんのお父さんはずっと出してくれたんです。それで十分すぎる」

「なんの仕事をしているの?」

「僕、美容師なんですよ。専門に行くお金も、出してもらったんです。それで独立して今は、海沿いで小さな美容室を経営してるんです」

「SORA?」

「そう。何で知っているの?」

「父の手帳にあったから」

「結構稼ぎいいし、自分の好きなペースで仕事できるし、天気がいい日は海へもすぐ出れるし」

「お母さまは?」

「いません」

 手つかずになっていた飲み物の氷が解けてパキッと鳴いた。水っぽくなってしまったミルクティーをチビチビと口に運んだ。

「ごめん。分与なんて、おこがましい考えだったのかもしれない」

「いや、いいんです。気持ちだけありがたく頂戴します。それよりも、僕は思い出を分けてほしい」

「どうしようかな。だってプライスレスなんだけど」

 わたしは、おそらく彼が知らないであろう家庭の中にいた父の話をした。

 犬の散歩が好きだったこと、落語をよくCDで聞いていたこと、仕事が好きで人づきあいがよかったこと。

 なにより母を愛していたこと。

 わたしがその母に嫉妬していたことは隠しておいた。

 彼は、笑顔で聞いている。ときどきわざとらしく声をたてたり、困った顔を見せたりしながら、それでも一言一句、耳を傾けてくれる。

「なんだか、悲しみを忘れるセミナーみたいね」

「いいじゃないですか。悲しみが去ることはないけれど」

 わたしは大きく頷いて席を立った。

 喫茶店を出ると日が傾いていた。わたしは改札口への階段を上り、彼は海の方向へ歩いていった。

 その背中が見えなくなるのを、大きなガラス窓越しに見つめた。




 スペーシアが新宿駅に乗り入れてくれるようになって、直己の実家に帰省するのも大分楽になった。乗り換えが一回で済む。

 そして義母の家が場所こそ変わらないが、若干近くなったような感覚に、うんざりする。

 早い乗り物が好きではない。

 窓の外を眺めても目が回るし、なにより行きたくない場所へ駆け足で追い立てられているようで、胃がきゅぅんと梅干を食べた後のような収縮活動をする。

 ただひたすら、推理小説の本を一心不乱に読みながら、わたしはいま移動中であることを忘れようと努力している。

「その本、面白いの?」

 直己は窓の外を眺めたまま質問を投げてくる。

「どうかな。とりあえず二人死んじゃった」

 わたしは本から目を上げて直己の首筋を眺めながら答える。

「犯人分かった?」

「まだよ」

「わかったら教えてよ」

 読んでもいない推理小説の犯人を知っても仕方ない。直己もそれはわかっている。

 直己は、わたしが機嫌が悪いときに推理小説を読むことを知っている。そしてその理由が自分の母親にあると、分かっているから、空まわりの気遣のあまり意味のない言葉がでるのだ。

「平気よ。もう、慣れたから」

 わたしは、本を閉じて小さなテーブルに置いてあったお茶を一口飲んだ。

「平気よ。直己は気にしないで」

 直己は窓の外を眺めたまま、わたしの右手を強く握った。

「それに、お礼はしなくちゃ」

 わたしは、網棚に置いた羊羹の包みを見上げた。

 田舎の人は、お礼には重いお菓子を持ってくるのが常識だと思っている。わたしは常識ある嫁として、一泊二日ご奉公すればそれでいいのだ。


 パパがいなくなった時、義母は足の具合が悪いので電車で葬儀には行けないと、何名かの親戚分の香典を集めて郵便で送ってきた。

 同封された便箋には、親戚の名前と、香典の金額、香典返しの有無などが事細かに指示されており、わたしは緑茶とハンカチと塩の入った香典返しを郵送したのだが、そろそろ直接お礼を言いに顔を見せるようにと催促の電話があった。

 いつまでも、泣いていても人は生き返らないんだと、繰り返し、自分だって年なのだからいつ消えてもおかしくないのだと嘆き、最後にはいつものように孫を抱いてみたいと付け加えた。


 直己と結婚して十年が過ぎた。

 その長いような短い年月で何度も何度も、直己は「一発入魂!」などと軽口をたたきながら、ベッドのうえでわたしを抑え込み、愛し合った。

 子供はいつか授かるものだと、特別な避妊もせずに、ただ、お互いに肌を寄せたい気持ちになれば愛し合い、疲れていれば、手を握って眠った。

 気がつけば、わたしは三十五歳になっていた。

 子供ができない理由がどちらかに、もしくは両方にあることは明らかだった。それでも、お互いに病院に行こうとは口に出せない。

 二人でいればそれなりに楽しい生活を送っているし、なにより、どちらかに原因があるのかを突き止めたところで、わたしと直己は別れられないだろう。

 それでも、義母はわたしが「産まず女」であると決め付けている現実は、わたしにとっては不愉快なものだし、どんな時でも助けてくれるはずの直己も、この話なるとそっと席を外す。

 スペーシアは減速をして目的の駅に静かに滑り込んだ。

 直己は重い紙袋を両手に抱えて、わたしはボストンバックと読みかけの本を持って、ホームに降り立った。

 迫るような山の峰が、ちっぽけな灰色の駅舎を圧迫しているような風景だ。小さな駅のロータリーでバスを待つ。二十分ほど待合所のベンチに座って静かに二人で並ぶ。

「やっぱり連絡悪いわね」

 特急の到着時間と、バスのダイヤがいつも合わない。わたしはここに来るたびに同じ言葉を口にする。

「でもさ、みんながスペーシアに乗ってくるわけじゃないから」

 直己は、やっぱり同じ言葉を返してくれる。

 わたしは、このやりとりが変わらないことに、安堵する。

 やってきたバスに乗り込むと、熱い空気が車内を支配していた。

「すいません。エアコンの調子が悪いんだ。窓開けてくれれば少しはマシだから」

 運転手は私たちの方を向いて、小さく頭を下げた。

 汗かきな直己は、さっそくハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。

「三十分もこの中じゃ、脱水しそうだよ」

 真顔で言う様子がおかしくて、わたしは小さく笑った。

「大丈夫よ。お茶残っているから」

 そう言って、ペットボトルを手渡した。

 山際に張り付いたような小さな集落に、義母は長女と二人で住んでいる。

「こがのい」バス停を下りて深呼吸をする。

 ペンキの剥げたバス停をまじまじと眺めて、初めて「こがのい」が「小鹿之入」だと知った。

「バンビでも出るの?」

 直己は意味が分からないようで、ただ曖昧に笑っている。

「行こうか」

 バス停からまっすぐ三分ほど歩けば、直己の家に到着する。

 背中をゆっくり追いながら

「孫を抱きたければ、長女を嫁に出せばいいのに」

 という言葉を小さくつぶやいて飲み込む。実際に本人たちを前にして、口にすることがないようにとの、おまじないだ。

 この呪文を唱えるとき、わたしは自分を心底嫌いになる。

 義母は杖を突きながら広い土間まで出迎えてくれた。

「この度は、残念なことになりまして。凛さんも大変だったでしょう」

 そう口にしながら、直己の両手に抱えられた荷物の数を眼で数えた。

 義母の後ろに長女が突っ立っている。

 義母は小さく手で合図してお茶の用意をさせた。

 彼女の淹れるお茶は、いつでも熱くて薄い。

 それでも「おいしいです」とお礼を言い、二言三言で挨拶を済ますと、彼女はいつの間にか自室に引きこもってしまった。

「美奈はしょうがないな。嫁に行くあてはないのか」

 直己が義母に言うと

「こんな老婆付きじゃ難しいんだ。面倒みてくれるのは美奈ちゃんしかいないんだから、しょうがなかんべ。いくらいい子だって、容易じゃねぇよ」

 と急須にお湯を足しながら義母は言う。

 地雷原だと思う。

 この広い古い家は地雷原だから、むやみに歩き回らない方がいいし、触れない方がいい。

 わたしは聞こえないふりをしながら、熱いお茶を三杯飲んだ。


 夕食後、お風呂に入ろうとするわたしを義母が追いかけてきた。

「お風呂はいつでも沸いているから。あと、これ、部屋に持ってってちょうだい」

 振り返り目をやると、飾棚の上に、ピンクのレースで作られた大仰なカバーにデコレートされたティッシュボックスが置かれていた。

「子作りの努力くらいはしてくれているんだろ」

 わたしは、唾を飲み込んで、それから、言葉を飲み込んだ。

 七十歳になろう義母が、卑猥な歪んだ笑顔を見せた。

 直己とは父が体調を崩してからセックスしていない。もう半年以上になる。わたしの体が反応しないし、直己も悲しみに暮れているわたしを強引に精のはけ口にしようともしない。

 でも、毎晩手をつないで眠る。朝目を覚ませば、手は外れているし、二つ並べたセミダブルベッドの両脇に離れていることが常なのだが、それでも毎晩、どちらからともなく手を伸ばす。

 直己の実家にはベッドがないので、布団が並べて敷かれている。

 用意してくれているのは妹なのだろうか。

 ふかふかに干されたおひさまの匂いがする布団は、畳一枚分ほど離して並べられている。その間に、スタンドライトが置かれている。直己はその隙間を埋めることなく布団にもぐりこんだ。

 わたしだけが手を伸ばしても、届かない。

 推理小説の続きを読んだ。

 また一人、殺された。

 犯人はまだ分からない。




 パパが亡くなってから、毎晩八時に無言電話がかかってくる。ほぼ百ーセントの確率で直己が家に帰っていない時間だ。

 こちらが「どちら様ですか」と尋ねても、「切りますよ」と伝えても、始終無言だ。

 直己にはナンバーディスプレイの電話に変えようと提案したが

「どうせイヤヨを押してからかけてきているんだろう。それに、きっと間違い電話だよ」

 と取り合おうとしない。

 それでも、毎晩同じ時間にかかってくるのは気持ちが悪いし、相手を知りたくもなる。

 どこかでいらぬ恨みをかっているのかもしれない。直己の仕事の関係だとすれば、さらに不安が募る。

 わたしは、仕方なく無言電話の後に「136」をダイヤルした。

 今の電話がどこからかかってきたものかを調べたのだ。

 その聞き覚えのない番号をメモして黒い手帳に挟んだ。

 最近、仕事が忙しいという。夜遅くに帰り、夕飯にもあまり箸をつけなくなった。あんなに早起きが好きだった直己が朝食を食べなくなった。

 食事をとるよりも三十分長く眠っていたいという。

 わたしは直己の日課だったカーテンを開ける役目を受け継いで、新聞を郵便受けに取りに行き、一人でコーヒーを落とし、食パンをかじる。目玉焼きやカリカリベーコンを作らなくなった。

 その代わりにジャムの種類が増えてゆく。

 こけもも、イチゴ、フルーツチーズ、チョコレート。

 甘いものが冷蔵庫の中で増殖していく。冷蔵庫から直己の色が消えていく。

 出社ギリギリまで眠っている直己をたたき起して身支度を整える。ネクタイが曲がっていないかチェックをしてから玄関先で抱きしめあう。

 これは結婚した時から続くおまじないだ。無事に帰ってくるように。またこの家で一緒に触れあうことがありますように。友人に話すと「大げさだ」と笑うけれど、人は、いつ何があるかわからない。

 いつでも笑顔でいられるようにわたしは努力を怠らない。直己もまた同じだと思う。

 番号を逆探知したことを隠したまま、毎晩無言電話を受うけた。時にはこちらからすぐに切り、たまには受話器を電話機の脇に放置したままにした。


 駅前にある「クイックサイン」という会社に週に三回出社している。

 印鑑やゴム印、封筒の名入れなどを行う小さな店舗だ。地元の学校からの注文を一手に受けているので、なかなか忙しい。

 卒業前には、卒業記念に配る印鑑を何百本も用意し、入学の時期には新入生の名前のゴム印を用意する。比較的暇な今の時期は、お茶を飲みながら奥に置かれた小さなテレビの前に座っている。

 店先のベルが鳴る音が聞こえ、慌ててテレビを消して店先に出ると、近くの中学校の用務員さんが立っていた。

 茶封筒に入れられた小さなゴム印を二つ取り出してわたしの前に置くと、

「名字の変更を至急お願いします」

 と寂しそうに言った。椅子をすすめてからわたしは注文書を記入した。

「高橋さんはから井上へ。それから伴君は五十鈴川に。無理かな。一文字から四文字だもんなぁ。駄目なら名前も一緒にはがして作り直してください。それと・・・…」

 両親が離婚した子供のゴム印は、名字の部分だけ切り取り、新しいゴムを張り付ける。

「出来上がり次第お届けしますね」

「お願いしますよ。最近は離婚しても子供の苗字をそのままにする人も増えているんだけどね」

「では、お預かりします」

 用務員さんは椅子から立ち上がり腰を三回ほど叩いて

「最近腰が痛くてさ。もう年かな」と笑った。

「そんな。だってお子さんまだ大学生でしょう?」

「そうなんだよ。卒業してくれるまでは働かないとなぁ」

「時々揉んでもらったら?」

「娘に? そんなことしてくれないよぉ。バイトから帰ったら『あー、疲れた。ヒラメ張りしたい』なんていっているよ」

「ヒラメ?」

「シップのコマーシャルだよ。知らないの?」

 用務員さんは、軽く腕を回して店を出ていった。

 注文書を工場にファックスし、なんとなく肩を叩いた。重い物も持っていないし、大した労働もしていない。それでも肩が重い。

 今日もかかってくるのだろうか。

 夜八時の電話は、わたしの恐怖心と優越感を刺激する。

 本当は分かっている。

 相手は、女だ。

 離婚はしない。相手がどんな女であろうと、わたしは直己と離れない。直己とわたしは運命共同体だ。XもYも残すことはないが、わたしと直己は愛し合っている。それだけは確信している。

 子供の有無は愛情とは関係のない場所にある問題だ。揺るがない、自信があった。印鑑もゴム印も作り直すことはない。

 明日は、パパの月命日だ。

 帰りに駅前の花屋さんで小さな薔薇の花束を注文しておく。明日の朝一番で受け取る約束をした。店員が「傷んだ花だけど」と小さなマーガレットを五本くれた。

 お気に入りの琉球ガラスの小ぶりな花瓶に、白い花がとてもよく合った。久しぶりにテーブルセッティングをしてから夕食を作る。

 直己は何時に戻るのだろうか。どちらにしても八時までまだ二時間ある。その間ビーフシチューを圧力なべで煮込みながら、電話が鳴るのを待った。

 電話の内容に不似合いなほど賑やかな着信音のエンターティナーが流れた。わたしは、しばらく音楽に耳を傾けてから受話器を取った。

「電話してきても、無言じゃ何も変わらないわよ」

 受話器の向こうで誰かがすすり泣く声が漏れ聞こえてきた

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