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鉄とフリル(Le Fer et La Dentelle)

掲載日:2026/05/02

金曜の夜。


月末恒例の飲み会は、いつも通りどうでもいい話で盛り上がり、どうでもいいまま終わった。

グラスの中身が減るたびに、会話の中身も薄くなっていく。


「で、二次会どうする?」


誰かが言い出して、少しだけ間が空いたあと——


「メイド喫茶とか、行ってみる?」


半分冗談のようなその一言で、流れが決まった。

気づけば俺は、スーツのまま、見慣れないネオンの階段を上っていた。


「おかえりなさいませ、ご主人さま♡」


店に入った瞬間、甘い声が響く。

反射的に軽く会釈してしまい、隣の先輩に肩を小突かれた。


「帰ってきたって言われてんのに、なんで頭下げてんだよ」

「いや……慣れてなくて」


苦笑しながら席に着く。周りはすでにテンションが上がり始めていた。

そんな中、ひとりのメイドがこちらに歩いてくる。


「こんばんは、ご主人さま。お仕事おつかれさまです♪」


年の頃は二十代後半くらい。無理に作った声ではなく、どこか落ち着いた響きだった。

それだけで、少しだけ安心する。


「今日はどんな一日でしたか?」


当たり障りのない質問。それに対して、当たり障りのない返事をする。

そんなやり取りが少し続いたあと、ふと話題が変わった。


「ご主人さまって、趣味とかあるんですか?」

「……特には」


少しだけ考えてから、正直に答える。


「強いて言うなら、ランニングとかジムくらいですかね」


その瞬間、隣の先輩が割って入った。


「こいつさ、見た目こんなんだけど、意外と鍛えてんだよ」

「ちょっと、やめてくださいよ」


軽く制しながらも、視線を戻すと——彼女は、少しだけ目を輝かせていた。


「へぇ、筋トレされてるんですか?」

「まあ、健康維持程度ですけど」

「いいですね。私も最近、ジム通い始めたんです」


思わず、言葉が止まる。


「……そうなんですか」

「はい。今はお腹周り中心なんですけど、そのうち肩もやってみたくて」

「肩は……やり方ちゃんと覚えた方がいいですよ。フォーム崩れると怪我しやすいんで」


気づけば、少しだけ話していた。

プロテインの話。筋肉痛の話。回復の話。

どうでもいい飲み会の中で、その時間だけは妙に鮮明だった。


それから、月に一度。気づけば俺は、その店に通うようになっていた。

理由はよくわからない。ただ、あの会話の続きが、少し気になっていた。




数週間後。


土曜の朝。いつものようにジムで身体を動かしていた。

ベンチプレスを終えて、ゆっくりとバーを戻す。呼吸を整えながら、汗を拭う。


その時だった。


「……あの」


横から、声がかかる。振り向くと、見覚えのある顔があった。

髪を後ろでまとめ、トレーニングウェアに身を包んだその姿。


「……この間の」


彼女だった。


「やっぱり。同じジムだったんですね」


少しだけ息を弾ませながら、彼女が笑う。


「……ええ、まさかですけど」


「私もびっくりしました」


そのまま自然に、隣のスペースに移動する。ダンベルを手に取り、互いに動きを確認しながら、軽く会話を交わす。

店の中とは違う、素の空気。


「フォーム、ちょっとこうした方がいいかもです」

「……こうですか?」

「そう、それです」


距離が近い。でも、不思議と違和感はなかった。

トレーニングを終えて、ベンチに腰を下ろす。

タオルで汗を拭きながら、何気ない会話が続く。


「……そういえば」


彼女がふと思い出したように言う。


「住んでる場所って、この辺なんですか?」

「ええ、まあ」


軽く答えると、彼女が目を丸くした。


「私もなんです」

「……そうなんですか」

「ほんと偶然ですね」


少しだけ笑ってから、彼女は続けた。


「じゃあ——」


一拍置いて。


「これからも、一緒に鍛えませんか?」


その言葉に、迷いはなかった。


「……いいですね」


自然に頷いていた。

その時、彼女が見せた笑顔は、店で見せるそれとは少し違っていた。


飾りのない、まっすぐな笑顔だった。



----



それからも、月に一度。俺はあの店に通うようになっていた。

理由は相変わらずはっきりしない。ただ、あの時間だけは妙に落ち着く。

仕事の話でもなく、どうでもいい世間話でもなく、

筋肉の話をしている時だけ、少しだけ頭が軽くなる気がした。


「……そういえば」


ある日のことだった。

注文したドリンクを運んできた彼女が、少しだけ間を置いてから言った。


「来週、誕生日なんです」

「……そうなんですか」

「はい。特に何かする予定もないんですけど」


そう言いながら、少しだけ笑う。その表情が、いつもより少しだけ柔らかく見えた。


その週の土曜。

俺は、店ではなく、駅前で彼女と待ち合わせをしていた。


「すみません、お待たせしました」


メイド服ではなく、私服姿。シンプルなトップスにパンツスタイル。

思っていたより、ずっと普通だった。


「いえ、今来たところなんで」


軽く会釈をして、歩き出す。


「ご飯とか行こうかと思ったんですけど」


俺がそう言うと、彼女は少しだけ首を横に振った。


「うーん……今日は、ちょっと違うのがいいかなって」

「違うの?」

「欲しいものがあって。付き合ってもらってもいいですか?」

「……ええ、構いませんよ」


連れて行かれたのは、駅前のスポーツショップだった。

店内には、ダンベルやトレーニング器具が並んでいる。


「ここ、よく来るんです」


そう言って、迷いなく奥のコーナーへ向かう。

手に取ったのは、体に巻き付けるタイプのトレーニングパッドだった。


「……それ、使ってるんですか」


思わず聞く。


「はい。家でやる時に、これあると結構効くんですよ」

「へぇ……」


正直、そこまで本格的だとは思っていなかった。


「休みの日って、あんまり外出ないんですか?」

「最近は、あんまりですね」


彼女は商品を見ながら、さらっと答える。


「できるだけ家で鍛えたいので」

「……ストイックですね」

「そんなことないですよ」


少しだけ笑って、続ける。


「お酒も、ちょっと控えてるんです。回復遅くなるので」

「……なるほど」


その言葉に、妙に納得してしまう。

結局、その日買ったのは、トレーニングパッドと、いくつかの小物だった。

会計の時、俺が財布を出すと、彼女が少しだけ驚いた顔をした。


「え、いいんですか?」

「誕生日なんで」


それだけ言うと、彼女は少しだけ黙ってから——


「……ありがとうございます」


小さく、でもちゃんとした声でそう言った。

店を出たあと、少しだけ歩く。

人通りの多い通りの中で、さっきまでとは少しだけ空気が違っていた。


「なんか……」


彼女がぽつりと呟く。


「こういうの、初めてかもしれないです」

「そうなんですか」

「はい。ご主人さまと、こうやって外で会うの」


その言葉に、少しだけ違和感が残る。


“ご主人さま”。


店の外でも、その呼び方は変わらない。でも——


「……まあ、たまにはいいんじゃないですか」


そう答えると、彼女は少しだけ笑った。

その日、別れ際。


「また、お店で」


そう言って、彼女は軽く手を振った。

俺も軽く頷いて、そのまま背を向ける。

けれど、頭の中には、さっきの言葉が残っていた。


“できるだけ家で鍛えたい”

“お酒も控えてる”


ただのメイドじゃない。そんな当たり前のことを、ようやく実感した気がした。



----



それから、しばらくして。またいつも通りの土曜の朝だった。

ジムの中は、まだ人が少ない。

早い時間に来る顔ぶれは、だいたい決まっている。


俺はベンチプレスを終えて、プレートを外していた。

その時だった。


「……やっぱり」


聞き覚えのある声。

振り向くと、そこに彼女がいた。


トレーニングウェア姿。髪は後ろで軽くまとめている。


店で見ていた時とは違う、余計なもののない姿だった。


「この間ぶり、ですね」


少し息を弾ませながら、彼女が笑う。


「……ええ」


それだけ返す。でも、不思議と会話に困ることはなかった。

そのまま、自然に隣のスペースで身体を動かし始める。


ダンベルを持ち上げる音。呼吸のリズム。

互いに言葉は少ないが、タイミングは妙に合っていた。


「それ、もう少し肘締めた方がいいかもです」


彼女が言う。


「……こうですか」

「そう、それです」


距離が近い。でも、それが当たり前みたいに感じる。

一通り終えて、軽く息を整える。


タオルで汗を拭いていると、彼女がふと口を開いた。


「最近、朝に来てるんですか?」

「ええ。週に何回か」

「やっぱり」


少しだけ笑う。


「この前見たときも、そんな感じだなって思ってました」

「見てたんですか」

「ちょっとだけですよ」


そう言って、視線を逸らす。それから、何度か顔を合わせるようになった。

特に約束したわけでもない。

でも、来る時間が似ているせいか、自然と同じ空間にいることが増えた。


軽く言葉を交わして、それぞれのメニューをこなして、終われば少しだけ話す―それだけだった。

それでも、不思議と続いていた。


ある週のことだった。


「……明日、走りません?」

トレーニング後、彼女が言った。


「走る?」

「はい。たまには外で」


少しだけ考える。


「……いいですね」

そう答えると、彼女は少しだけ嬉しそうに頷いた。



----


翌朝。

「おはよう」


待ち合わせた場所で、彼女が軽く手を上げる。


「おはようございます」


いつもの調子で返して、そのまま並ぶ。店で見る姿とは違う。

メイド服じゃなくて、シンプルなランニングウェア。

上は軽いトップスで、下はショートパンツ。無駄のない格好だった。


「じゃ、軽く行こっか」


彼女が言って、自然に走り出す。


「……ああ」


そのまま、隣に並ぶ。

最初は、一定のペース。


会話はほとんどない。足音と呼吸だけが揃っていく。

思っていたより、走りやすい。

無理に合わせている感じもなくて、気づけばペースがぴったり揃っていた。


「……このくらいでいい?」


気づいたら、敬語じゃなかった。

自分でも少しだけ引っかかる。

けど、彼女は特に気にした様子もなく——


「うん、大丈夫」


そのまま、自然に答えた。

しばらく走る。


呼吸が少しずつ上がってくる。額に汗が滲む。


ふと横を見る。


彼女も同じくらいのペースで走っていた。


無駄な力が入っていない。フォームも綺麗だ。


「……結構走ってる?」


軽く聞く。


「うん、たまにね」


短く返ってくる。それだけなのに、妙にしっくりくる。

少しだけペースを落とす。呼吸を整えながら、並んで走る。


さっきより距離が近い。

肩が触れるか触れないか。そのくらいの位置。

特に意味はないはずなのに、意識がそっちに引っ張られる。


「……どうしたの?」


視線に気づいたのか、彼女が軽くこっちを見る。


「いや……」


一瞬だけ言葉に詰まる。


「思ってたより、ちゃんとやってるなって」


正直に言うと、彼女が少しだけ笑った。


「でしょ?」


その一言が、やけに近い。

また、少しだけ沈黙。でも、気まずさはない。


ただ——さっきまでより、少しだけ距離が近い。

呼吸も、足音も、揃っているのに、それ以外の何かが、少しだけ変わっていた。



やがて、自然と足が止まる。


「……この辺でいいか」


呼吸を整えながら、軽く息を吐く。


「うん、ちょうどいいかも」


彼女も同じように足を止めて、膝に手をついた。

しばらく、そのまま呼吸だけが続く。外の空気は少し冷たいのに、身体の内側はまだ熱が残っていた。


近くのベンチに腰を下ろす。タオルで汗を拭きながら、しばらく何も言わない。

さっきまで走っていたせいか、変に言葉を挟むより、このままの方が楽だった。


「……思ったより走れるんだな」


ぽつりと口に出す。


「そっちもね」


彼女がすぐに返す。


「もうちょっと余裕あるかと思ってた」

「……そうでもないよ」


軽く笑う。

少しだけ沈黙が戻る。でも、さっきまでとは違う。

隣に座ってる距離が、やけに近い。

肩が触れそうで触れない。その微妙な位置に、妙に意識が向く。

彼女がペットボトルを取り出して、一口飲む。喉が動くのを、なんとなく目で追ってしまう。


「……なに?」

ふいに視線が合う。


「いや……」


少しだけ間を置く。


「ちゃんとやってるなって、思っただけ」


さっきも似たことを言った気がする。でも、それ以外に言葉が出てこなかった。


「ふふ」


彼女が小さく笑う。


「そっちもね」


また少し、沈黙。

でも今度は、さっきよりも長い。

走ってる時とは違う、静かな時間。

さっきまで揃っていた呼吸が、今は少しずつズレていく。


それなのに、距離だけは変わらない。


「……このあと、どうする?」


彼女が何気なく聞く。

その一言で、少しだけ現実に戻る。


「どうするって……」


言いかけて、止まる。


特に予定はない。いつも通りなら、このまま帰って、シャワーを浴びて終わりだ。

それでも——


「……もしよければ」


自然と、言葉が出た。


「うち、来る?」


自分でも少しだけ意外だった。でも、口に出したあとで違和感はなかった。

彼女は一瞬だけ考えてから、


「……いいの?」


とだけ聞いた。


「別に、何もないけど」

「それでいいよ」


あっさりとした返事だった。

立ち上がる。

さっきまで走っていた道を、今度は並んで歩く。


呼吸はもう落ち着いているのに、

身体の奥に残った熱だけが、消えずに残っていた。



----


部屋に入ると、外よりも少しだけ空気が静かだった。


「……邪魔するね」


後ろから彼女の声がする。


「どうぞ」


それだけ言って、鍵を閉める。


いつも通りの部屋。

見慣れているはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。


「……結構シンプルだね」


部屋を見渡しながら、彼女が言う。


「まあ、特に置くものもないし」

「ジムの人っぽい」

「どういう意味だよ」


軽く返すと、彼女が笑う。


そのやり取りだけで、さっきまでの空気が少し戻る。


「とりあえず……汗流す?」


自分から言っていた。

彼女もすぐに頷く。


「うん、さすがにこのままはね」


順番にシャワーを使うことにした。


湯気の立った浴室に入って、身体に水をかける。走った後の熱が、少しずつ落ちていく。

でも、完全には消えない。さっきまでの距離感が、頭のどこかに残っている。

シャワーを終えて、部屋に戻る。タオルで軽く水気を拭きながら、ソファに腰を下ろす。


少しして、浴室のドアが開く音がした。


「お待たせ」


振り向く。

さっきまでとは違う、軽い格好。

余計なものが減った分、逆に目がいく。


「……どうしたの?」


視線に気づいたのか、彼女が少しだけ首を傾げる。


「いや……」


言葉が続かない。


「なんか、さっきと違うなって」


それだけ言うと、彼女が少しだけ笑った。


「そりゃ、汗流したしね」


少しだけ距離を空けて座る。

けれど、さっきのランニングの時よりも、妙に意識してしまう。


静かだ。

さっきまでの外の音が嘘みたいに、部屋の中は落ち着いている。


「……ねえ」


彼女がぽつりと声を出す。


「ん?」

「さっきさ」


少しだけ言葉を選ぶように間があって——


「ちゃんとやってるって言ってくれたじゃん」

「ああ」

「なんか、嬉しかった」


そのまま、少しだけ視線を逸らす。その一言で、空気が変わる。

さっきまでとは違う、静かな熱。

距離は同じなのに、

さっきよりも近く感じる。


「……そっちこそ」


ようやく言葉が出る。


「思ってたより、ちゃんとしてる」

「それ、どういう意味?」


少しだけ笑いながら、彼女が近づく。その距離が、もう曖昧になる。



ソファに並んで座ったまま、しばらく何も言わなかった。

エアコンの音だけが、部屋の中で一定に流れている。


さっきまでの外の空気とは違う。

静かで、少しだけ密度のある空気。


「……ねえ」


彼女が、ぽつりと声を出す。


「ん?」

「せっかくだしさ」


少しだけ間があって、続く。


「見せ合いっこ、しない?」


一瞬、意味を測りかねる。

でも、すぐに分かる。


「……見せるって」

「そのままの意味」


軽く笑って、こっちを見る。


「お互い、どれくらい仕上がってるか」


冗談みたいな言い方だった。


でも、その目は少しだけ真剣だった。


「……いいよ」


気づいたら、そう答えていた。彼女が立ち上がる。

少しだけ距離ができる。でも、その分、視線がまっすぐになる。


「じゃ、そっちから」


軽く顎で示される。


「……俺?」

「うん」


仕方なく、立ち上がる。

Tシャツの裾に手をかけて、そのまま引き上げる。

空気が肌に触れる。


さっきシャワーを浴びたばかりなのに、

なぜか少しだけ熱が戻る。


彼女の視線が、ゆっくりと動く。


肩。

胸。

腹。


そのまま、止まる。


「……ちゃんとやってるね」


小さく呟く。


「まあ」


短く返す。


「じゃ、次」


彼女が言う。


少しだけ間があって——そのまま、トップスの裾に手をかける。

ゆっくりと、引き上げる。一瞬、目を逸らしかける。

でも、逸らさなかった。


露わになるライン。思っていた以上に、はっきりしている。

細いだけじゃない。ちゃんと鍛えられてる身体。


「……どう?」


少しだけ照れた声。


「……いいと思う」


正直に答える。彼女が少しだけ笑う。

そのまま、少しだけ近づいてくる。

距離が、また曖昧になる。


「ねえ」


さっきより、声が近い。


「こうやって見るとさ」


指先が、そっと触れる。

胸のあたり。


「ちゃんとやってるの、分かるね」


そのまま、少しだけなぞる。

強くじゃない。確かめるみたいに。


「……そっちも」


気づいたら、同じように手を伸ばしていた。

彼女の腕に触れる。

少しだけ力が入る。


「……ん」


小さく息が漏れる。一瞬だけ、止まる。

でも、手は離れなかった。距離が、さらに近づく。


さっきまで見せるだけだったはずなのに、触れている時間の方が長くなる。


「……なんかさ」


彼女が小さく言う。


「こういうの、いいね」


答えは返さない。


その代わりに、少しだけ近づく。


視線が重なる。

呼吸が揃う。

そのまま——


彼女の頬に、軽く触れる。


一瞬の間。そして、彼女の方から、少しだけ距離を詰めてきた。


唇が触れる。

軽く。

確かめるように。



触れた唇は、すぐには離れなかった。最初は軽く、確かめるだけだったはずなのに——

もう一度、重なる。


今度は少しだけ長く。

彼女の手が、背中に回る。


逃がさないように、でも強すぎない力で引き寄せられる。


その距離に、もう迷いはなかった。

ゆっくりと、深くなる。

触れていた唇が、少しずつ角度を変える。


呼吸が重なって、混ざっていく。


「……ん」


小さく漏れる声。それだけで、空気が一段階変わる。

指先が、自然と動く。背中から、肩へ。


そこからまた、少しだけ下へ。


触れるたびに、相手の体温がはっきりと伝わってくる。

彼女も同じだった。

さっきまで“見る側”だったはずの手が、

今は確かめるように触れてくる。


一度だけ、唇が離れる。でも、距離はそのまま。

吐息が、すぐ近くにある。


「……変だね」


彼女が小さく笑う。


「さっきまで、普通に走ってたのに」

「……そうだな」


それしか言えなかった。でも、それで足りていた。

もう一度、近づく。今度は迷わない。


深く、重なる。さっきよりもはっきりと、互いを求めるように。

ソファに、ゆっくりと体重がかかる。どちらからともなく、距離が崩れる。


「……いい?」


小さな声。

確認というより、ただの合図みたいなものだった。


「……ああ」


短く返す。


そのまま、また唇が重なる。今度は、止まらなかった。

触れる場所が少しずつ増えていく。言葉は減っていく。


代わりに、呼吸と体温だけが残る。


さっきまでの“見せ合い”は、もうどこにもない。


あるのは、ただ近すぎる距離と——

離れようとしない感覚だけだった。


そのまま、ふたりの身体は、

ゆっくりと、同じ方向へと沈んでいった。



----



照明が、一斉にステージへと落ちる。


眩しいほどの白い光。

その中に立つと、さっきまでの会場の空気が一変する。


観客のざわめきが、少し遠くに聞こえた。


「次は、ペア部門——」


アナウンスが響き、名前が呼ばれる。


「……行くぞ」


小さく声をかける。


「うん」


隣で、彼女が頷く。


一歩、踏み出す。ステージの中央へ。

観客の視線が、一気に集まるのが分かる。


いつも通りでいい。


ジムでやってきたことを、そのまま出すだけだ。


最初のポーズ。息を合わせる。

腕を引き、胸を張る。観客の空気が、少しだけ変わる。


ざわめきが、熱に変わる。隣を見る。


彼女も同じように、しっかりとポーズを決めている。

フリルのついた衣装が、動きに合わせてわずかに揺れる。

でも、その下にあるラインは、隠しきれない。


次のポーズ。

少しだけ距離を詰める。

背中合わせ。互いの体温が、わずかに伝わる。


「……いい感じ」


彼女が小さく言う。


「……ああ」


短く返す。


そのまま、最後のポーズへ。

タイミングを合わせる。


一瞬だけ、呼吸が揃う。


腕を上げる。

身体を絞る。


一番見せたい形を、そのまま出す。

歓声が、はっきりと届く。

さっきまでとは違う、明確な反応。

そのまま、動きを止める。


照明の中で、時間が一瞬だけ伸びる。ふと、視線が合う。


「……な?」


小さく、彼女が笑う。


「だから言ったでしょ」


思わず、少しだけ口元が緩む。そのまま、ポーズを保つ。

観客の拍手が、さらに大きくなる。もう言葉はいらなかった。


ここまで来れば、全部伝わっている。


ステージの光の中で、

ふたりは並んだまま、動かなかった。



----



カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。

まだ空気は少しひんやりしているのに、ベッドの中だけは、どこか温度が残っている。


白いシーツの上。互いの距離は、ほとんどない。


身に着けているのは、前を覆う小さな白い布と、細い紐だけ。

それ以上は何も必要ないと言うように、ふたりの身体は静かに触れ合っていた。


「……起きてる?」


かすかな声が、すぐ隣から届く。


「……ああ」


短く答えると、彼女の身体がゆっくりと寄ってきた。


肩が触れ、胸元が当たり、腹筋同士がかすかにぶつかる。

大会で仕上げたままの筋肉は、まだ張りを残していて、触れるたびに確かな存在感を伝えてくる。


すり、と。


わざとではないようで、わずかに意識された動き。

脚が絡み、腰が近づき、互いの体温がじわりと混ざっていく。


「……なんか、変な感じ」


彼女が小さく笑った。


「昨日まで、あんなに人に見られてたのに」


少しだけ間を置いて、続ける。


「今は、こんなに近くにいるんだもん」


「……そうだな」


それだけで十分だった。


言葉よりも、触れている部分の方が多い。

それが、今のふたりの距離だった。


俺はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れる。

指先に伝わる温度に、彼女は目を細めて、少しだけ身を預けてきた。

静かな時間が、ほんの一瞬だけ流れる。


そして——


「……また、鍛えるか」


ぽつりと落とした言葉に、彼女がすぐに反応した。


「うん」


くすっと笑って、視線を合わせる。


「今度は負けないから」


その一言に、思わず口元が緩む。

距離は、もう測る必要もなかった。

自然と、顔が近づいていく。


呼吸が重なり、ほんのわずかな間のあと——唇が触れた。

最初は軽く、確かめるように。


けれどすぐに、互いの温度を求めるように深くなる。

舌が触れ、絡み、ゆっくりと溶け合っていく。


朝の光の中で、静かに、長く。


言葉はいらなかった。


触れ合う身体も、重なる呼吸も、そのすべてが、もう十分に伝えていたから。


俺たちはただ、キスを続けていた。


それは、これから始まる時間を、何も言わずに肯定するような——

深く、やわらかな口づけだった。



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