悪役令嬢として、努めてみたものの、どうやら追い出されるのは私ではないようです
正妻の娘が死んだ。
その知らせが届いた朝、わたし――レミナは、鍋の底にこびりついた焦げをこそげ落としていた。指先に熱が残って、じんじんする。
隣の家――サリナの家から、甲高い笑い声が聞こえた。
「やっと、やっとよ……!」
笑っているのに、泣きそうな声。嬉しさと興奮が絡まって、胸の奥がむず痒くなるような。
わたしたちは隣同士に住む娘だった。幼いころは同じ道を走り、同じ木に登り、同じ石につまずいて笑った。けれど、いつからかサリナは“物語”の主人公になりたがり、わたしは“現実”の係になった。
父が同じだと知ったのは、十歳の冬。
伯爵家から来た使いが、夜更けに母へ封筒を渡し、わたしに目を向けずに去っていった。母は封を切り、紙片を握りしめたまま座り込んだ。泣かなかった。泣きそうな顔で笑って、「暖炉に薪を足して」と言った。
その背中を見て、わたしは理解した。
父は伯爵。けれど、“父”ではない。
伯爵家に婿入りして当主になった男。つまり、伯爵家の中ではよそ者で、外では伯爵。都合のいい立場。都合のいい嘘。都合のいい女――母。
そして、都合のいい娘――わたし。
サリナも同じだった。彼女の母も愛人だった。だからサリナは、わたしより先に“夢”を見つけた。
「ねえレミナ。いつか私たち、伯爵家のお屋敷で暮らせるのよ。お父様は伯爵なんだから」
それを聞いた母は笑って、わたしの髪を撫でた。
「夢を見るのは自由よ。でも、夢を見ていいのは、お腹がいっぱいの子だけ」
その言葉は、ずっとわたしの背骨に刺さっている。
だから、正妻の娘が死んだと聞いた瞬間に、わたしは考えた。
――回収に来るかもしれない。
正妻の娘が死んだ半年前に、正妻はすでに病気で死んでいた。
二人とも、同じ病気だったらしい。
きっと、わたしは利用される。
そして案の定、数日後。
伯爵家の馬車が二台、わたしたちの家の前に止まった。
サリナは白い手袋をはめ、鏡の前で何度も笑顔の練習をした。
「ねえレミナ。目、死んでるわよ。ほら、こう。上品に、嬉しそうに!」
「……嬉しいの?」
「当たり前でしょ。私、今まで“愛人の子”だったのよ? これからは“伯爵令嬢”なの」
サリナの瞳は、飴玉みたいにきらきらしていた。わたしはその輝きが少し怖かった。飴玉は溶ければなくなる。なくなった後、舌に残るのは甘さだけじゃない。
馬車に乗り込む前、母がわたしの手を握った。
「いい? レミナ。あなたは賢い。賢い子はね、笑う場所を間違えないの」
「……お母さま」
「もし、苦しくなったら。あなたは悪い子でいい。生きるためなら、いくらでも悪くなっていいの」
母はそう言って、わたしの額に口づけをした。
その温度が、伯爵家に入ってから何度もわたしを支えた。
伯爵家は美しかった。天井は高く、廊下は広く、絨毯はふかふかで、鏡はわたしの貧相な服を容赦なく映した。
そして空気は冷たかった。
使用人の視線は“外から来た娘”を測る秤。親族の視線は“正妻の血を汚す者”への刃。父の視線は“問題が増えるのが嫌”という逃げ腰。
父はわたしたちを見て、ぎこちなく言った。
「……今日からここが、お前たちの家だ」
家?
それならどうして、今まで家じゃなかったの?
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、わたしは膝を折り、礼をした。悪い子でいい。生きるために。
サリナは隣で、完璧な笑顔を作った。
「お父様。お招きいただき、光栄ですわ」
……そういうところだよ、サリナ。そういうところが、あなたの強さで、弱さだ。
数日後、屋敷の会議室で“穏当な案”が提示された。
「正妻の娘が亡くなり、後継が不在です。伯爵家の存続のため、血筋を整える必要がある」
正妻の実家筋の老婦人が淡々と告げる。
「正妻の娘の従兄――伯爵家の血を引く男性、ルシアン殿と、外子である二人のうち一人を婚姻させ、家を継がせる。体裁としては最も穏当です」
穏当。便利な言葉だ。切り捨てるとき、便利。
その場で初めて、ルシアンを見た。
整った顔立ち。髪は上等な金糸のようで、視線は冷たく、口元には薄い笑み――自分が勝つことを疑っていない男の笑みが貼りついている。
彼はわたしたちを見て言った。
「ふうん。二人とも同じ父の娘か。顔はそこそこだな」
“そこそこ”。
サリナがにこやかに笑う。
「お褒めいただき、光栄です」
わたしは笑わなかった。笑えるほど、軽くない。
ルシアンはわたしを見る。
「お前は? 愛想がないな」
わたしは礼儀正しく答えた。
「必要なら笑います。必要がないなら笑いません」
会議室が一瞬静まり、サリナが慌てて割って入る。
「レミナはちょっと口がきつくて。でも本当は不安なだけなの」
――そう。こうやって、彼女はわたしの言葉を“丸めて”自分の善良さを際立たせる。
わたしが冷たいと、サリナは優しく見える。
その日の夜、サリナがわたしの部屋に来た。伯爵家では珍しい、鍵のかかる個室。これだけで天国みたいだった。鍵があるって、すごい。奪われない。勝手に触られない。夜中に息を潜めなくていい。
サリナは鍵の存在に不満顔だった。
「レミナだけずるい。あなた、こういうのだけ運がいいわよね」
「これはたまたま……」
「知ってる。でね」
サリナは微笑んだ。唇だけで。
「レミナ。あなた、伯爵家を継がずにお母様のところへ帰りたいんでしょ?」
心臓が跳ねた。
「だったら言うこと聞きなさい。あなたは悪役をやるの。私を引き立てるために」
わたしは一瞬、笑いそうになった。笑ったら泣きそうだったから、笑わない。
「……悪役?」
「そう。あなたは冷たい顔が似合うもの。わざと高慢にして。失礼なことも言って。周りに嫌われれば、私が“優しい令嬢”に見えるでしょ?」
サリナは軽く言う。たぶん、罪悪感がない。ないから強い。
「約束して。お母様のところへ帰してあげる。母親同士も、ちゃんと面倒を見る。あなたの母が可哀想だもの」
最後の一言が、最悪だった。可哀想。上からの慈悲。慈悲はいつも条件付き。
でも、わたしは頷いた。
母のためなら、悪役にでも、怪物にでもなる。
こうして、わたしの“悪役令嬢”生活が始まった。
伯爵家の中で、わたしはなるべく目立たないように動いた。掃除の手伝いを申し出て、帳簿の整理を引き受けた。使用人が困っていたら黙って代わり、ミスをしたら謝り、次からは起こらないように仕組みを変えた。
でも“外”では――サリナの命令通り、傲慢に振る舞った。
最初の社交の場は、小さな茶会だった。伯爵家の親族が「外子の娘たちを見せる」ために用意した、品定めの舞台。
サリナは花のように笑った。
「初めまして。サリナと申します。父の不始末でご迷惑をおかけしているでしょうに、こうして迎えてくださり感謝しております」
うまい。謝罪を口にしつつ、“私は謙虚で善良”を一瞬で刻む。
わたしの番が来た。
サリナが背中をつつく。――やれ。
わたしは扇を開き、口元を隠し、わざとゆっくり言った。
「初めまして。レミナです。……わたしは謝りません」
ざわり。
狙い通り、空気が揺れる。
「謝罪とは、立場のある者がするものです。わたしには立場がありません。なら、謝罪の権利もありません」
言っていることは筋が通っている。通っているからこそ、嫌味に聞こえる。
貴婦人たちが顔をしかめる。
サリナが慌てて笑う。
「レミナって、言葉がきついの。でも本当は――」
わたしは彼女の台詞を遮って、さらに冷たく言った。
「気遣いは結構です。わたしは自分の言葉に責任を持てますから」
――ひゅう、と誰かが息を呑む音がした。
それが面白くて、少しだけ笑いそうになった。
悪役令嬢って、案外ラクだ。嫌われるのは怖い。でも、嫌われる覚悟を決めたら、優しくする理由も消える。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
わたし、今、何を諦めた?
茶会の帰り、馬車の中でサリナが満足そうに言った。
「完璧。あなた、ほんと使える」
使える。
言い方が笑えるくらい露骨で、わたしは逆に感心してしまった。
「ありがとう。お母様の件、忘れないで」
「もちろん。あなたがちゃんと悪役でいる限りね」
……また条件。
笑うしかない。笑ったら泣きそうだから、笑わない。
その後も、社交の場は続いた。伯爵家の親族が、外子の娘を“使い道”として売り出すために。
わたしは外でツンツンし、冷たい視線を投げ、わざと誤解される言い方をした。
例えば、貴婦人が「あなたも大変だったでしょう」と言ったとき。
「大変でした。ですから、同情は不要です。あなたの同情で腹は膨れません」
――腹は膨れません、って何?
言った瞬間、自分でツボに入って、扇の裏で肩が震えた。貴婦人は真っ赤になって怒った。隣でサリナが「まあまあ」と宥める。完璧な構図。
わたしは自分が滑稽で、ちょっと笑えるのに、夜になると泣けた。
ベッドの中で、母の言葉を思い出す。
「苦しくなったら、悪い子でいい」
わたしは悪い子になっている。ちゃんと。母のために。なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
伯爵家の中では、ルシアンが露骨にサリナへ寄っていった。
ルシアンは性格が悪かった。悪いというか、育ちの悪い傲慢が染みついていた。自分の不機嫌を世界のせいにし、世界が自分を慰めるべきだと信じている男。
「サリナ、お前は分かっている。礼儀もある。外子のくせに使えるな」
外子のくせに、という言葉を堂々と添える。
サリナは笑って、彼の腕に軽く触れる。
「ルシアン様が導いてくださるなら、わたくし、どこへでも参りますわ」
……どこへでも? 軽いな。
わたしが帳簿を直し、屋敷の支出を削り、使用人の残業を減らしても、ルシアンは見向きもしない。
「おい、レミナ。お前、目が死んでるぞ。そんなのが伯爵家の妻になるとか、ありえない。場を汚すな」
言われるたび、胸が冷たくなる。けれど、目的は伯爵家を継ぐことじゃない。母のもとへ帰ること。だから、嫌われるのはむしろ都合がいい。
――そう、都合がいい。
なのに、嫌われるたびに、心が擦り減る。
そんなある日、屋敷に新しい家令が来た。
名をクラウスと名乗る若い男。無駄のない身のこなし。声は落ち着いていて、目がよく人を見ている。
最初に会ったとき、彼はわたしに丁寧に礼をした。
「レミナ様。必要なことがあれば、何でも」
その“何でも”が、わたしには怖かった。何でも、は、期待を生む。期待は、裏切られる。
「結構です」
わたしは冷たく言った。悪役令嬢の癖で。
クラウスは眉ひとつ動かさない。
「承知しました」
その平坦さが、逆に安心だった。
その日の夕方、帳簿室で彼と二人になった。わたしが直した数字を、クラウスが確認している。ペンが走る音が心地いい。
「……あなた、仕事が速いですね」
わたしが言うと、クラウスは顔を上げた。
「あなたが整理してくださっているからです」
……褒め方がずるい。自分の手柄を相手に渡す。
その瞬間、胸がふっと軽くなった。こんなふうに呼吸が楽になるのは久しぶりだった。
けれど、社交の外では、わたしは悪役。
次の茶会で、サリナの命令が飛ぶ。
「レミナ。ルシアン様に冷たくして。私が優しくするから。あと、公爵の噂があるの。従兄の親友の公爵。もしかしたら、伯爵家に口を出してくるかもしれない。外子のあなたが目立つと厄介だから、もっと嫌われて」
もっと嫌われて、って何。笑うところ?
わたしは「はい」とだけ答えた。
茶会の場で、ルシアンがわたしに話しかける。
「お前、字が書けるんだって? 外子のくせに珍しいな」
わたしは扇の裏で笑ってしまいそうになった。外子のくせに、が口癖なんだ。逆に可愛い。いや、可愛くない。全然可愛くない。
「外子にも手はありますから。字くらい書けます」
「口が減らないな。やっぱりサリナの方が上品だ」
「上品は便利ですもの。中身が空でも、包み紙が綺麗なら売れます」
――言っちゃった。
場が凍った。サリナが一瞬、目を細める。でもすぐに可憐に笑う。
「まあレミナったら。ほんと、意地悪なんだから」
意地悪。そう、それでいい。
帰りの馬車でサリナが囁いた。
「あなた、今のはちょっと面白かったわ。ふふ。ねえ、包み紙が空って、誰のこと?」
「さあ」
「私じゃないわよね?」
わたしは答えなかった。答えたら、物語が崩れる。
夜、帳簿室でクラウスが紅茶を差し出した。
「……お疲れでしょう」
その言葉に、胸が痛んだ。わたしは反射で突き放す。
「あなたには関係ありません」
「関係がないと思うのは、あなたの都合です」
クラウスは淡々と言う。
……何それ。悪役令嬢に説教する家令なんて、職業選択を間違えている。
「大胆ですね、家令」
「職務の範囲です」
「職務として、余計な同情はしないで」
「同情ではありません」
クラウスの声が少しだけ柔らかくなる。
「あなたは無理をしている」
見抜かれている。
胸が熱い。だめだ。こんなの。
「わたしは貴族として振る舞わなければなりません」
言い訳を口にする。
クラウスは一拍置いて言った。
「貴族として。倒れないでください」
妙な励まし方に、わたしは扇の裏で小さく笑ってしまった。笑ったのがばれないように、咳払いをする。
「……あなた、変です」
「よく言われます」
その返しが、ずるいくらい笑えた。
それからわたしは、クラウスに少しずつ惹かれていった。
それは恋というより、呼吸だった。彼の前では、呼吸ができる。悪役の仮面を外せないのに、それでも息ができる。不思議だ。
でも、わたしは閉じ込めた。
相手は家令。使用人。身分が違う。――そう思い込むことで、心を守った。守らないと、崩れる。
伯爵家の中では、継承婚の話が進んでいく。
そして最悪な日が来た。
ルシアンが公然と宣言したのだ。
「俺はサリナを選ぶ」
会議室がざわつく。正妻実家筋の老婦人が眉をひそめる。
「……理由は?」
ルシアンは肩をすくめる。
「分かりやすいだろ。サリナは素直で可愛い。レミナは性格が悪い。外子のくせに偉そうだ」
――外子のくせに、がまた来た。
サリナが勝ち誇ったように笑った。その笑顔は、昔一緒に泥だらけで笑った顔と同じ形なのに、もう別物だった。
わたしは胸の奥が冷え切るのを感じた。
……これでいい。これで、いいはず。
わたしは伯爵家を継がなくていい。母のもとへ帰れる。サリナは約束を守る――はず。
その夜、サリナが部屋に来た。浮かれた香水。高い酒の匂い。
「ねえレミナ。見た? 私、選ばれたの」
「……おめでとう」
「ありがとう。あなた、ちゃんと悪役やってくれて助かった」
助かった。使える。便利。わたしは道具。
わたしは静かに言った。
「約束は?」
「え?」
「母のところへ帰すって」
サリナは少しだけ唇を尖らせた。
「ああ……もちろんよ。落ち着いたらね。今、婚約準備で忙しいの。伯爵家のこともあるし、私、これから“当主夫人”になるんだから」
落ち着いたら。忙しい。これから。
約束は、また先延ばし。
その瞬間、わたしの中で何かが切れた。
怒りではない。諦めでもない。……ただの理解。
ああ、これがサリナだ。
わたしが欲しいものをちらつかせて、わたしを動かす。自分の欲しいものが手に入ったら、約束は曖昧にする。悪意があるわけじゃない。ただ、世界が自分中心なだけ。
その世界に、わたしの母は存在しない。
泣きそうになって、でも泣かなかった。泣いたら、負ける。サリナに。
その夜、帳簿室でクラウスに会った。わたしが鍵を回す音で、彼が振り返る。
「……顔色が悪い」
わたしは笑おうとして、できなかった。
「大丈夫です」
悪役令嬢らしく言う。なのに声が震えた。
クラウスは、何も聞かない。ただ椅子を引き、紅茶を出し、砂糖を一つ置いた。
「甘いのはお嫌いですか」
「……嫌いじゃない」
言った瞬間、自分でも驚いた。嫌いじゃない、と言えたことに。
クラウスが小さく頷く。
「なら、今は甘い方がいい」
その言葉が胸に染みて、涙が出そうになる。わたしは扇で顔を隠した。
――この人の前で泣いたら、終わる。
でも、終わってもいい気がした。
翌日から、婚約者としてのサリナの待遇は変わった。
使用人は頭を下げ、親族は笑顔を見せ、父はご機嫌を取った。
サリナはますます調子に乗った。
ルシアンは性格が悪い。悪いから、サリナを大切にするわけがない。彼はサリナを“勝利の証”として扱い、気に入らないことがあると平気で貶した。
「おい、サリナ。髪型が派手だ。俺の妻は俺の顔を立てろ」
「はい、ルシアン様……」
「声が小さい。外子の分際で、聞こえないんだよ」
外子の分際で――今度はサリナが刺される側になった。
サリナは最初、笑って流した。
「ルシアン様は冗談がお上手なのね」
けれど冗談ではなかった。ルシアンは本気でサリナを下に見ていた。下に見ているから、選んだ。自分が優位でいられるから。
ある晩、廊下でサリナが泣いていた。泣き顔を見られたくないのか、壁に額を押し付けている。わたしに気づいて、怒ったように言う。
「見ないでよ」
わたしは足を止めた。
「……見てない」
「嘘。見たでしょ。笑えば? ほら、あなた悪役でしょ」
その言葉が、胸に刺さった。
悪役。悪役でしょ。――そう言われるたびに、わたしは自分を削ってきた。
わたしは静かに言った。
「笑わない。あなたが泣いてるの、面白くない」
サリナが一瞬、呆けた顔をした。次に、唇が震える。
「……どうして? あなた、私のこと嫌いでしょ?」
「嫌いじゃない。……ただ、あなたのやり方が嫌いなだけ」
サリナの目から涙が溢れた。
「だって、私だって怖かったのよ! 愛人の子って言われて! 誰も守ってくれないって思って! だから……」
だから、他人を踏んだ。わたしを踏んだ。
わたしは何も言えなかった。言ったら、許すことになる。許したら、母が報われない。
サリナは嗚咽混じりに言った。
「ねえレミナ……約束、ちゃんと守る。あなたをお母様のところへ、ちゃんと……」
――今さら。
でも、わたしは信じたくなってしまった。人って弱い。わたしも弱い。
その数日後。
屋敷に“公爵”が来るという噂が立った。
正妻の娘の従兄の親友。伯爵家の内情に口を出せるだけの権力を持つ人間。しかも、正妻の娘が生前、最も信頼していた男だという。
サリナはまた目を輝かせた。
「公爵よ、公爵! ねえ、もし公爵が私を気に入ったらどうしよう?」
「……婚約してるのに?」
「婚約は婚約よ。結婚してないもの。人生は選択よ」
……相変わらずだ。笑える。
来訪当日。
「公爵閣下がご到着です」
使用人の声。
会議室の扉が開いた。
入ってきたのは――クラウスだった。
いや、違う。クラウスの顔で、クラウスの歩き方で、でも空気が変わっていた。背負うものが違う。周囲の視線が一段と低くなる。
彼は静かに手袋を外し、礼をする。
「ご無沙汰しております。伯爵家の皆様。――改めまして、公爵家当主、ヴィルヘルム・アルディスです」
サリナが凍りついた。父は青ざめた。親族の顔は硬い。
わたしだけが動けなかった。
胸が痛い。
家令に惹かれて、身分の違いを理由に閉じ込めた。閉じ込めた相手は、そもそも遠い人だった。
ヴィルヘルム――公爵は、淡々と説明を始めた。
「なぜ私が伯爵家で家令を務めていたのか。疑問でしょう」
侍女長が睨む。
「当然です。公爵が使用人のふりをするなど――」
「使用人のふり、ではありません。家令の仕事は仕事として行いました」
ヴィルヘルムは平然と言う。ここ、ちょっと笑えるくらい真顔だ。公爵ってそんなに勤勉なの? いや、勤勉だから公爵なのか。
「正妻の娘――故人は、私の旧友の従妹でした。彼女は生前、伯爵家の財政と、婿入り当主の不透明な動きを危惧していた」
父がわずかに肩を揺らした。
「彼女の死が病によるものだとしても、死後の伯爵家が混乱することは目に見えていた。私は旧友の頼みで、伯爵家の内情を調べ、家を立て直すための“実務”を担う役割を引き受けました」
なるほど。だから帳簿。だから歯車。だから“倒れないでください”。と彼は私に優しくしたのか。
「加えて、外子である二人の娘が引き取られることも予見できた。彼女たちが、政治的な駒として潰されるのを防ぐ必要があった」
視線が、わたしに向く。
心臓が痛い。優しさじゃない。保護でもない。……でも、守ろうとしてくれたんだ。
ヴィルヘルムは続ける。
「私は観察しました。伯爵家を守れるのは誰か。人を踏み台にする者か。踏まれながらも歯車を回す者か」
サリナが顔を真っ赤にする。
「な、なによ……! そんな言い方!」
ヴィルヘルムは動じない。
「本日は、伯爵家の今後についての相談に参りました」
そして、淡々と告げた。
「レミナ嬢に、正式な縁談を申し入れます」
会議室が凍った。
次の瞬間、サリナが爆発する。
「はぁぁぁ!? なんでよ!! なんでレミナなの!? あの子、冷たいのよ! 悪役よ! 社交界でも嫌われ者で――!」
ヴィルヘルムは少しだけ首を傾けた。
「悪役、ですか」
わたしの胃が痛む。
「ええ。彼女は悪役を演じています」
ヴィルヘルムが静かに言った。
「演じているのは見れば分かります。むしろ、なぜ周囲が気づかないのか不思議でした」
サリナが叫ぶ。
「違う! レミナは性格が悪いだけよ! 私が優しく見えるからって――!」
そこで、ルシアンが口を挟んだ。
「はっ。公爵が外子に惚れたって? 趣味が悪いな」
ヴィルヘルムの視線が、初めて鋭くなる。
「ルシアン殿。あなたがサリナ嬢を選んだ理由は、彼女が“可愛い”からではない」
ルシアンが顔をしかめる。
「何が言いたい」
「あなたは、支配できる相手を選んだ」
会議室がざわめく。
サリナの顔が青くなる。
ルシアンが嘲笑う。
「当然だ。妻は夫に従うものだろう?」
……ああ、これが現実。
サリナは、今それに気づいてしまった。
ヴィルヘルムは淡々と続ける。
「サリナ嬢。あなたは今、後悔していますね」
「してない!」
声が裏返っている。後悔している声。
サリナの目が揺れる。わたしは胸が痛い。助けたい? 違う。助けたら、また踏まれる。
ヴィルヘルムはわたしを見る。
「レミナ嬢。あなたは自由になれます」
わたしは立ち上がった。背筋を伸ばす。悪役令嬢らしく。
「公爵閣下」
声が震えないように。
「……私は伯爵家の外子です。悪評もございます。公爵家の名に傷をつけます」
「それは他人の評価です」
「それでも」
最後の砦を出す。
「母を置いては参れません。わたしは母と帰ると……それだけを……」
言葉が詰まった。涙が出そうで歯を食いしばる。
ヴィルヘルムは少しだけ目を細めた。
「あなたの母君は、すでに公爵家の保護下にあります」
息が止まった。
「……え?」
「正妻の娘が生前、心配していたのです。『外で生きる女たちは弱い。いつか切り捨てられる』と。私は彼女の意志を受け、あなたの母君と住まいを確保しました」
母が――守られている。
サリナの条件付きの約束ではなく、確かな手で。
胸が熱くなって、涙が一粒落ちた。わたしは扇で隠す。
ヴィルヘルムは追い詰めない。
「それでも拒むなら、私は引きます。あなたの選択を尊重します」
押し付けない。だからこそ、逃げ場がない。
わたしは初めて、自分のために考えた。
母は安全。わたしは自由。悪役でいる必要はない。
残るのは――わたしの気持ち。
わたしはヴィルヘルムを見た。
「……家令殿」
彼が瞬きをする。
「いえ、公爵閣下」
胸が痛い。届かないと思っていた人を、呼んでしまいそうになる。
わたしは小さく息を吸って言った。
「観察の結果に……責任をお取りくださいませ」
ヴィルヘルムが、ほんの少し笑った。あの日、紅茶を渡した時みたいに。
「喜んで」
彼はわたしの前に跪き、手を取った。指先が熱い。貴族の礼。丁寧で、節度がある。
そして――額に、そっと口づけた。
「あなたの覚悟に敬意を。これからは、役ではなくあなたを守ると誓います」
わたしは目を閉じた。
涙が頬を伝う。
背後でサリナが震える声を出す。
「……ねえ、レミナ。あなた、ずるい……」
ずるい?
わたしは振り返らなかった。
ただ静かに言った。
「私は、ずっとあなたの影になっていただけ」
サリナが嗚咽を漏らす。
ルシアンが苛立ったように舌打ちした。
「泣くな。みっともない」
――ほら。これがあなたの“選んだ”相手だよ、サリナ。
そのとき、ヴィルヘルム――公爵閣下が、会議室の空気を切り替えるように言った。声は穏やかなのに、刃物みたいに無駄がない。
「では、伯爵家の今後について、決定事項を申し上げます」
親族たちが息を呑んだ。父は顔色を変えた。ルシアンは不快そうに眉を歪め、サリナは泣き顔のまま固まっている。
ヴィルヘルムは淡々と続ける。
「伯爵家の財政は、すでに相当傷んでいます。帳簿の改竄、私物化、印章の不正管理――当主の権限をもってしても許されない行為が複数確認されました」
父が椅子を蹴りそうな勢いで立ち上がった。
「待て! 私は伯爵だ! 当主だ! お前に何の権限が――!」
ヴィルヘルムは一歩も引かない。
「権限はあります」
そう言って、薄い封筒を机に置いた。王家の紋章が、紙の上で冷たく光った。
「王都からの通達です。伯爵家は“家督相続が未確定であり、財政不正の疑いがあるため”、当面の間、第三者の管理下に置かれます。管理人は――私、ヴィルヘルム・アルディス」
会議室が凍った。
父の口が、開いたまま止まる。
「つまり」
ヴィルヘルムは、まるで天気の話でもするように言った。
「伯爵家は、公爵家で一旦お預かりします。屋敷も、領地も、使用人も、帳簿も。すべてです」
その瞬間、胸の奥がすうっと冷えて、同時に熱くなった。
“預かる”。
それは優しい言葉の形をしているけれど、実態は――奪還だ。乗っ取りではない。壊された家を、正しい手順で取り戻すための処置。
ヴィルヘルムは視線を父に向ける。
「あなたは当主職を停止。屋敷への出入りも禁止します。――本日限りです」
父が震えた。
「ふざけるな! この家は……!」
「あなたの家ではありません」
ヴィルヘルムの声が、初めて少しだけ冷たくなる。
「あなたは“婿入り当主”です。家を守るために招かれた立場で、家を食い潰す権利はない」
父は何か言い返そうとしたが、喉の奥で言葉が詰まった。親族たちの目が、もう味方ではない。――乗っ取りの夢が、現実の裁きに潰される音がした。
次にヴィルヘルムは、ルシアンを見た。
「ルシアン殿。あなたの継承婚の提案も、白紙です。理由は単純。あなたは伯爵家を継ぐ器ではない」
ルシアンが鼻で笑った。
「器だと? 公爵は説教が趣味か」
「趣味ではありません。事実です」
ヴィルヘルムは静かに、書類を一枚めくった。
「あなたは伯爵家の財産を“婚約を口実に”動かそうとしました。サリナ嬢を使い、印章の管理に触れようとした。――記録も証言もあります」
ルシアンの笑みが、ゆっくり剥がれ落ちた。
「……なにを」
「あなたも、屋敷を出ていただきます。本日中に」
その“本日中に”が、冷酷なほど明確で、妙に気持ちよかった。
最後にヴィルヘルムはサリナへ目を向けた。サリナは反射的に背筋を伸ばす。泣いていても、癖で“良い子の姿勢”を取ってしまうあたりが、少し滑稽で――そして哀れだった。
「サリナ嬢。あなたも同様です」
「……わたしも?」
声が掠れて、子どもみたいだった。
「あなたは伯爵家の人間ではない。外子として迎えられたのは“保護”ではなく“管理”のため。そしてあなたは、その立場で他者を害し、伯爵家の印章管理にも関与した。――ここにはもう居場所はありません」
サリナの唇が震える。
「わたし、だって……わたしは、伯爵夫人に……!」
その言葉に、ルシアンが乾いた笑いを漏らした。
「伯爵夫人? お前、本気でなれると思ってたのか。都合のいい駒だよ、お前は」
サリナが息を呑む。
その瞬間の顔は――わたしが何度も見てきた顔だった。
条件付きの優しさを信じて、裏切られた人の顔。
ヴィルヘルムは、淡々と締めた。
「三人とも、荷物は今日まとめてください。退出は日没まで。使用人に手伝わせます。――無理に抵抗すれば、王都の憲兵が来ます」
父が呻くように言った。
「……レミナ! お前、父を見捨てるのか!」
その呼び方が笑えた。今さら“父”を名乗るんだ。
わたしは扇を閉じ、静かに答えた。
「父なら、最初からいません」
たったそれだけで、父は言葉を失った。
そして、現実が動き出す。
廊下が慌ただしくなる。使用人が頭を下げ、指示を受け、荷物を運ぶ準備を始める。いつも偉そうだった父の部屋から、家具の引き出しが開く音がした。サリナの宝石箱が閉まる音がした。ルシアンが苛立って床を鳴らす音がした。
――この屋敷は、もう彼らの舞台ではない。
わたしはヴィルヘルムの手を握り返した。熱がある。生きてる手の熱。
悪役令嬢らしく、努めていたものの。
どうやら――役目は、終わったらしい。
そして、物語は。
わたしのものとして、始まる。




