裏切りの聖騎士と、光に染まった暗殺者
【運命の遭遇:黄昏の川岸】
降り続く雨が、戦場に漂う鉄錆の臭いを地面へと押し流していた。 光の国「ルミナス」の最前線、黄昏の砦。その外縁を巡回していたアルフレッドは、川の激流が岩にぶつかる音に混じって、かすかな「異物」の気配を察知した。
「……誰かいるのか?」
手にした魔導灯が、暗闇を白く切り裂く。 岩陰に打ち上げられていたのは、泥と血にまみれた細い体だった。
ボロボロに裂けた漆黒の外套。 その下からのぞく肌は、月の光を吸い込んだような灰褐色をしていた。 アルフレッドの心臓が跳ねる。 (魔族――いや、ダークエルフか?)
だが、その疑念は彼女の脇腹を深く抉った傷口を見て、瞬時に霧散した。 彼女は苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返している。戦士としての脅威よりも、今にも消え入りそうな命の灯火が、アルフレッドの騎士道精神を突き動かした。
「おい、しっかりしろ」
彼が駆け寄り、その肩に手をかける。 その瞬間、シレンの意識がわずかに浮上した。 濁った視界の中で、まばゆいばかりの「聖騎士の紋章」と、自分を覗き込む男の慈しみに満ちた瞳が見えた。
(……聖騎士……? 私を、殺しに来たの……?)
彼女は震える手で、隠し持った毒ナイフに触れようとした。 しかし、指先に力が入らない。 代わりに彼女を包み込んだのは、敵であるはずの男が放つ、温かな聖光魔法の輝きだった。
「安心しろ。死なせはしない」
男の低い声が、冷え切った彼女の耳に届く。 シレンは抗う術を失い、深い闇の中へと意識を落としていった。 自分を抱き上げる腕が、皮肉なほどに情け深く、強かったことだけを記憶に刻んで。
アルフレッドは、止血だけでは足りないと考えた。 魔族の地である闇の国「ノクティス」の武器には、往々にして腐食の呪いや不浄な魔力が込められている。それを完全に取り除かなければ、傷口から命を蝕まれることになるからだ。
アルフレッドはさらに深く膝をつき、彼女の体に両手をかざした。
「――《聖域浄化》」
彼の掌から、粉雪のような清冽な光の粒子が降り注ぐ。 それは彼女の泥に汚れた衣服を白く照らし、体内に入り込んだ異質な魔力を根こそぎ洗い流していく術式だ。
「……あ、…………っ……」
シレンの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。 ダークエルフとしての彼女の本質――闇の魔力が、聖騎士の純粋すぎる浄化の光と衝突し、激しい火花を散らす。彼女の意識は、真っ白な光の海に飲み込まれていくようだった。
だが、アルフレッドの魔力はあまりに強大で、かつ「救いたい」という意思に満ちていた。 浄化の光は、彼女の魔族としての気配さえも深層へと押し込め、まるで生まれたての人間のような清らかな魔力波へと一時的に書き換えてしまったのだ。
「よし……これで毒も呪いも消えたはずだ」
アルフレッドは額の汗を拭い、荒い息をつく彼女をそっと抱き上げた。 腕の中の彼女は、先ほどまでの刺々しい殺気を失い、ただの守るべき弱々しい娘に見えた。
「こんな場所で何をしていたかは知らんが……ひとまずは俺の隠れ家へ運ぶ。ここでは夜風が強すぎる」
彼は自分の騎士マントを脱ぎ、彼女の細い体を包み込む。 浄化の光に包まれたシレンは、皮肉にも人生で最も「清らかな状態」で、宿敵の胸の中に預けられることとなった。
アルフレッドが運び込んだのは、砦から少し離れた森の中に佇む古い廃屋だった。 埃っぽい空気の中、暖炉の薪が爆ぜる音だけが静かに響いている。
シレンが意識を取り戻したのは、それから数時間後のことだった。 彼女は跳ね起きようとしたが、全身を襲う奇妙な「重さ」に動きを止めた。
「……っ、ここは……?」
自分の体を確認し、彼女は戦慄した。 傷が塞がっているだけではない。ダークエルフの証である肌の疼きや、常に身に纏っていた「闇の魔力」が、跡形もなく鎮まり返っている。代わりに体を満たしているのは、忌々しいほどに澄み切った、あの聖騎士の光の残滓だった。
「気がついたか。無理に動かない方がいい」
暗がりに座っていたアルフレッドが、静かに声をかけた。 シレンは反射的に枕元に手を伸ばしたが、愛用の双剣はない。代わりに指が触れたのは、清潔な麻の毛布だった。
「……貴様、何をした。私の、力……気配が、消えて……」
「『ピュリフィケーション』を施した。傷口に不浄な魔力が混じっていたからな。……今は魔力が枯渇しているだけだ。命に別状はない」
アルフレッドは椅子から立ち上がり、湯気の立つ木コップを差し出した。 シレンはそれを拒むように睨みつける。その瞳は、まだ警戒心で鋭く尖っていた。
「私は……敵だ。お前たち光の民が、最も忌み嫌う種族のはずだろう」
「……この暗闇では、君の肌の色も正確には判別できない。それに、戦場でもない場所で、手負いの娘を殺すような教育は受けていないんでね」
アルフレッドは嘘をついた。彼は彼女がダークエルフだと気づいている。だが、浄化の魔法でその禍々しさが消えた今、目の前にいるのは、ただ震えている孤独な女性にしか見えなかった。
「名前は?」
「……シレン」
偽名を名乗る余裕もなかった。 アルフレッドは少しだけ口角を上げ、短く答えた。
「そうか。俺はアルフレッドだ。……シレン、ここでは戦いも、国籍も、神々の意志も関係ない。ただの負傷者と、それを拾った男がいるだけだ。だから、今はその粥を食え」
シレンは差し出されたコップを、震える手で受け取った。 温かい。殺すことしか教わってこなかった彼女の手に、自分を救った敵の体温が伝わってくる。
「……おかしな男だ。後悔することになるぞ、聖騎士」
「後悔なら、もう十分してるさ。この戦争が終わらないことにな」
月明かりが差し込む廃屋で、二人の奇妙な共同生活が、静かに幕を開けた。
アルフレッドは、改めてシレンの姿を正面から見据えた。 聖騎士としての冷徹な観察眼が、図らずも彼女の圧倒的な肢体を詳細に捉えてしまう。
(……なんと、不条理な体だ)
身長は170cmほど。女性としてはかなり大柄だが、その四肢は戦士としてのしなやかさを保ちつつ、驚くほど肉感的だった。 ボロボロになった服の隙間から覗く、豊満すぎる胸の膨らみ。対照的に、吸い殻のように引き締まったウエスト。そして、騎士マントの上からでもはっきりと分かるほど、大きく、豊かな曲線を描く臀部。
邪な考えを抱く余裕などない戦時下でありながら、男としての本能が警鐘を鳴らす。 「いやらしい」と断じざるを得ないほど、その肉体は生命力と誘惑に満ちていた。ダークエルフという種族が持つ、人を惑わす魔性の美しさが、浄化の光の中でもなお隠しきれずに溢れ出している。
シレンは、アルフレッドの視線に気づき、不快そうにわずかに眉を寄せた。
「……何をジロジロ見ている。やはり、ここで首を撥ねるか?」
「……いや。失礼した」
アルフレッドは慌てて視線を逸らし、咳払いを一つした。 心臓の鼓動がわずかに速まったのは、魔力消費のせいだけではないと自覚し、彼は内心で自分を律した。
「傷の具合を見ただけだ。……その、服もひどいな。後で予備の着替えを持ってこよう。男物しかないが、君の背丈ならなんとかなるだろう」
「……好きにしろ。今の私に、拒む力はない」
シレンは毒づきながらも、どこか気恥ずかしそうに、豊かな胸元を隠すようにマントを強く握りしめた。 聖騎士と暗殺者。 月明かりに照らされた廃屋の中で、二人の間に、戦場とは異なる別の緊張感が流れ始めていた。
シレンもまた、目の前の男――アルフレッドを、値踏みするように、そして吸い寄せられるように見つめ返していた。
(……なんだ、この男は)
暗殺者として、これまで多くの人間を闇から見てきた。だが、これほどまでに完成された容姿を持つ男は、魔族の貴族や、美形揃いのダークエルフの中でもまずお目にかかれない。
180cmを悠に超える長身。聖騎士の甲冑を脱いでもなお、その下に隠された分厚い胸板と、鍛え上げられた長い脚が放つ存在感は圧倒的だった。 そして何より、その顔だ。 彫刻のように端正な輪郭に、知性を湛えた瞳。悪意など微塵も感じさせない清廉なその顔立ちは、無自覚に女性を惑わし、狂わせる「天性の誑し込み顔」に他ならない。
(……まさか、私が?)
胸の奥が、かつて経験したことのないほど熱く、速く脈打つ。 戦場での高揚とも、死への恐怖とも違う。 「一目惚れ」という言葉を知らぬ暗殺者の少女は、今、人生で初めてその不可解な感情の奔流に飲み込まれていた。
「ん? どうした。まだどこか痛むのか?」
アルフレッドが怪訝そうに、それでいて優しく覗き込んでくる。 その無垢なまでの気遣いが、さらにシレンの心を揺さぶった。
「…………なんでもない」
シレンは咄嗟に視線を逸らした。 灰褐色の頬が、自分でもはっきりと分かるほど熱く染まっていく。 冷酷な暗殺者としてのペルソナが、彼の前ではいとも容易く剥がれ落ちていく。
「そうか。……ならいいが、顔が赤いぞ。やはり熱があるんじゃないか?」
アルフレッドはそう言って、自然な動作で彼女の額に手を伸ばした。
アルフレッドは、赤みの差した彼女の頬を見て、反射的に身を乗り出した。 「失礼、熱を測らせてくれ」 「ま、待て……っ!」
拒絶の言葉が届く前に、彼の大きな掌がシレンの額にぴたりと重なる。 聖光魔法の使い手らしい、驚くほど清潔で、それでいて力強い男の体温。 シレンの心臓は、もはや壊れた時計のように激しく鼓動を刻んでいた。
「熱いな……やはり浄化の影響が残っているのか」 「違う、これは……。……離せと言っているだろう」
シレンは彼の手を振り払おうとしたが、その時、廃屋の戸外から乾いた足音が響いた。
「アルフレッド隊長! いらっしゃいますか!」
部下の声だ。 二人の間に、戦場のような緊張が走る。
「……っ、不味い」 アルフレッドは咄嗟にシレンの肩を抱き寄せ、暖炉の影にある狭い隙間へと押し込んだ。 「声を出すな」 「っ…………!」
狭い隙間で、二人の身体は隙間なく密着した。 アルフレッドの分厚い胸板が、シレンの豊かな胸を圧迫する。彼の長い脚が、彼女の柔らかな太腿の間に割り込む形になり、互いの心音すら伝わるほどの距離。 アルフレッドの首筋から漂う、石鹸と鉄の混じった男らしい香りが、シレンの理性をかき乱した。
さらに追い打ちをかけたのは、アルフレッドが持ってきた「着替え」だった。 彼は隠れる直前、彼女に自分の予備の隊員シャツを羽織らせていたのだ。 だが、シレンの肉体は、男物のシャツすら悲鳴を上げるほどに豊満だった。
「(……く、苦しい……)」 シレンが小さく身悶えするたびに、薄い生地越しに彼女の張りのある肢体が、アルフレッドの身体に直接押し付けられる。 胸元のボタンははち切れんばかりに弾け、くびれた腰から下、はみ出した巨大な臀部がアルフレッドの腿を熱く刺激した。
アルフレッドは、無意識に息を呑んだ。 (……まずい。これは、毒だ) 清廉潔白を地で行く彼にとっても、この密着はもはや拷問に近い。 彼女の灰褐色の肌から立ち上る熱と、シャツから零れ落ちそうな肉感的な曲線。 暗殺者のシレンもまた、彼の逞しい腕に抱かれ、生まれて初めて「女」として扱われている自分に、抗いようのない悦びと恐怖を感じていた。
「隊長ー? ……いないのか。……あっちの森を探してみるか」
部下の足音が遠ざかっていく。 だが、二人はすぐには離れられなかった。 暗闇の中、重なり合った鼓動だけが、静かな廃屋にいつまでも響き続けていた。
部下の足音が完全に消え、森が静寂を取り戻しても、二人はしばらく動けずにいた。 密着した身体から伝わる熱が、外の寒気とは対照的に廃屋の中を支配している。
ようやくアルフレッドが腕の力を緩め、シレンを解放した。 「……すまない。咄嗟のことで、無礼を働いた」
アルフレッドは顔を背け、乱れた呼吸を整えるように窓の外を見つめた。清廉な彼の横顔には、隠しきれない動揺の色が浮かんでいる。
シレンは、はち切れそうな男物のシャツを必死に手で抑えながら、壁に背を預けて深く息を吐いた。 「……お前、本当に聖騎士なのか? 相手は魔族だぞ。あそこで突き出せば、お前は英雄になれたはずだろう」
「英雄……か。そんなものには興味がない」 アルフレッドは自嘲気味に笑い、再び床に腰を下ろした。 「俺はただ、誰も死なない夜が一度くらいあってもいいと思っているだけだ」
その言葉に、シレンの胸の奥がチリりと痛んだ。 彼女は膝を抱え、今まで誰にも話したことのない、闇の国の真実をぽつりぽつりと語り始めた。
「私たちは……生まれた瞬間から、影として生きるよう教育される。親の顔も知らない。あるのは、効率的に首を刈る技術と、命令に従う冷徹さだけだ。……お前のような、光の中にいる者には想像もつかないだろう?」
シレンの瞳に、深い孤独が宿る。 「救われることなんて、考えたこともなかった。死ぬときは、誰にも知られず影に溶けるだけだと思っていたから」
「シレン……」 アルフレッドが何かを言いかけた、その時。
廃屋の周囲の空気が、一瞬で氷点下まで下がった。 森の木々がざわめき、月光さえも届かない「不自然な闇」が、建物を包み込んでいく。
「見つけたぞ、シレン。……裏切り者の匂いがする」
低く、地這うような声が響く。 シレンの顔から血の気が引いた。それは、彼女と同じ隠密部隊に属する魔族の「奪還隊」――実体は、失敗した者を始末するための処分部隊だった。
「奴らだ……。アルフレッド、逃げろ! お前まで殺される!」
シレンは、まだ覚束ない足取りで立ち上がり、奪われた双剣を探して辺りを見回す。 だが、アルフレッドは逃げるどころか、静かに腰の聖剣を抜いた。
「言ったはずだ。死なせはしない、と。……それが例え、君の同胞が相手でもだ」
彼はシレンを背にかばい、入り口の扉を見据えた。 聖剣から放たれる白銀の光が、迫りくる闇を真っ向から押し返していく。
闇の底から這い寄る影たちが、廃屋の扉を蹴破ろうとしたその瞬間だった。 アルフレッドは迷いなく右腕を突き出し、凝縮された聖なる魔力を解き放った。
「――《聖光の弾丸》!」
先ほどの治癒の光とは似て非なる、極大の破壊を秘めた純白の閃光。 それは夜の闇を一瞬で昼間のような輝きに変え、先頭に立っていた魔族の男を正面から貫いた。
「な、……貴様ッ、これほどの光を――が、あああああああッ!!」
男が絶叫を上げる暇さえ、光は与えなかった。 聖なる輝きに包まれた奪還隊の体は、影が太陽に焼かれるように激しく霧散していく。衣服も、肉体も、そして彼が抱えていたどす黒い殺意さえもが、清冽な粒子となって虚空へと消えていった。
残りの奪還隊の面々が、恐怖に一歩後ずさる。 「……化け物め。聖騎士隊長、アルフレッド……!」
背後でその光景を見ていたシレンは、息を呑んだ。 自分を包み込んだあの優しい温もりと同じ根源から放たれた、容赦のない「死」の輝き。 しかし、その光を放つアルフレッドの背中は、驚くほど静かで、一点の迷いもなかった。
「……立ち去れ。これ以上、この場所を汚させるつもりはない」
アルフレッドの声が低く響く。 彼は剣を抜くことさえせず、ただ圧倒的な魔力の残滓を纏わせながら、敵を冷徹に見据えていた。 奪還隊は、仲間の無惨な消滅とアルフレッドの実力差を悟り、憎悪に満ちた視線をシレンへ投げかけながらも、再び闇の中へと逃げ去っていった。
静寂が戻る。 アルフレッドはゆっくりと腕を下げ、背後のシレンを振り返った。
「怪我はないか? ……驚かせてすまない」
その顔は、先ほど敵を消滅させた冷酷な戦士のものから、再び彼女を案じる「男」の表情へと戻っていた。 シレンは震える唇を噛み締め、彼の分厚い胸板に、無意識のうちに縋り付いていた。
「……バカな男。あいつを殺せば、もう引き返せないぞ。お前は……自国の裏切り者として、地獄まで付き合うつもりか」
「地獄か。……君と一緒なら、それも悪くないかもしれないな」
アルフレッドの冗談めかした、だが真っ直ぐな言葉が、シレンの止まっていた時間を動かしていく。
シレンは、先ほどまで男が立っていた場所――今はただ光の粒子が虚空に舞うだけの空間を、信じられないという面持ちで見つめていた。
「……嘘だろ。あいつは奪還隊の中でも、数多の修羅場を潜り抜けてきた手練れだったはずだ。それが、たった一撃で……」
彼女は震える指先で、自分の胸元を隠すアルフレッドのシャツを強く握りしめた。 暗殺者として生きてきた彼女にとって、強さとは狡猾さや速さ、そして冷酷さの積み重ねだった。しかし、アルフレッドが見せたのは、それらすべてを無に帰す、圧倒的で清廉な「正義」の暴力だ。
「聖騎士隊長……ただの肩書きではないというわけか」
シレンの呟きに、アルフレッドは少しだけ困ったように眉を下げた。彼は聖剣を鞘に収めると、彼女の隣に静かに腰を下ろした。
「俺は、守りたいもののために剣を振るうと決めている。……今は、君がその対象だというだけさ。相手が誰であれ、その決意は揺るがない」
アルフレッドの視線が、シレンの灰褐色の肌、そして動揺に揺れる瞳を捉える。 あまりにも真っ直ぐな、そして天性の「女誑し」とも言えるほど端正な顔が至近距離に迫り、シレンは再び息を呑んだ。
「お前は……本当に、自分が何を言っているのか分かっているのか? 私は魔族で、お前は人間の英雄なんだぞ」
「英雄の座など、君を失う代償にするには安すぎる。……シレン、俺が本当に恐れているのは、敵の刃じゃない。君がまた、一人で闇の中に消えてしまうことだ」
そう言って、アルフレッドは彼女の細い肩を引き寄せた。 分厚い胸板の鼓動が、シレンの背中に伝わる。先ほど手練れの魔族を消し飛ばしたその腕は、今は羽毛を扱うように優しく彼女を抱きすくめていた。
シレンは、もう抗うことをやめた。 「……勝手な男だ。……ああ、本当にお前は、最低で最高の聖騎士だよ」
彼女は彼の胸に顔を埋め、初めて安らぎの中に身を委ねた。
窓の外が白み始め、深い群青色が薄明の空へと溶けていく。 アルフレッドは最低限の荷物をまとめ、シレンの前に膝をついた。
「夜が明ける。じきに砦の部下たちが本格的な捜索を始めるだろう。奪還隊が戻ってくるのも時間の問題だ。……シレン、俺と一緒に来てくれ。この国も、闇の国も届かない場所へ」
アルフレッドの瞳には、かつて戦場で見せていた迷いはない。 彼はかつて、教会の教えに従い「悪」を滅ぼすことだけを信じていた。だが、幼い頃に魔族の襲撃から自分を救ったのが、教典が説く「慈悲深き神」ではなく、戦いに疲れ果てて戦線を放棄した「名もなき魔族の脱走兵」であったという過去を、彼は誰にも言えずに抱えていた。
「俺は、種族で人を判断しない。あの日、俺を救ったのが闇の者だったように、今度は俺が君を光の中に連れ出す番だ」
その告白に、シレンは震える手で彼の頬に触れた。 「……お前という男は、どこまでお人好しなんだ」
彼女が立ち上がろうとした、その時だった。
「――っ、あ……熱い……!?」
シレンが自分の胸元を押さえ、その場に崩れ落ちる。 はち切れんばかりの男物シャツの隙間、その豊かな胸の谷間から、鈍い白銀の光が漏れ出していた。アルフレッドが放った『聖癒の弾丸』と『聖域浄化』。あまりに純粋で強力な聖騎士の魔力を短時間に何度も浴びたことで、魔族である彼女の体内で「変質」が起きていた。
「シレン、どうした!?」 「分からない……体が、内側から作り替えられるような……」
アルフレッドが彼女の体を支えると、シャツの襟元から覗く彼女の灰褐色の肌に、見たこともない紋章が浮かび上がっていた。それは闇の紋章ではなく、アルフレッドの魔力特性と共鳴する「聖なる刻印」だった。
「これは……精霊の加護に近い……? まさか、魔族の体が聖光を受け入れたというのか」
魔族としてはあり得ない変化。それは彼女が闇の国へ戻れば「異端」として即座に処刑されることを意味し、同時に彼女がアルフレッドなしでは生きられないほどに「光」に染まってしまった証でもあった。
「……もう、戻れないな」 シレンは苦しげに、だがどこか晴れやかな表情でアルフレッドを見上げた。
「ああ。行こう、世界の果てまで」
アルフレッドはシレンを軽々と横抱きに――いわゆるお姫様抱っこで抱え上げた。170cmを超える彼女の肢体は、鍛え上げられた彼の腕の中でも十分な重みと、暴力的なまでの柔らかさを伝えてくる。
二人は、朝日が差し込み始めた廃屋を後にした。 聖騎士の誇りも、暗殺者の孤独も、すべてを過去の灰へと変えて。
廃屋を後にしてから数週間。アルフレッドとシレンは、追っ手の目を逃れるように険しい山嶺を越え、ついにどの国家の勢力も及ばない北方の果て、中立都市「アジール」へと辿り着いた。
そこは多種多様な種族が混じり合う混沌とした街。聖騎士の鎧を捨て、無骨な旅装に身を包んだアルフレッドと、顔を深くフードで隠したシレンは、安宿の一室でようやく一息をついた。
■ 身体の変化と不可分の絆
街に辿り着くまでの逃亡生活の中で、シレンの体には「変化の完了」が訪れていた。 アルフレッドの魔力を浴び続け、さらに彼から分け与えられる食事や聖水、そして何より彼との深い情愛に触れ続けた結果、彼女の魔力は完全に「光」へと転換されたのだ。
「……アルフレッド、見て」
宿の薄暗い灯りの下、シレンが男物のシャツを脱ぎ捨てる。 そこには、かつての灰褐色の肌から、真珠のような輝きを帯びた白い肌へと生まれ変わった彼女の肢体があった。170cmの長身と、男を狂わせるような肉感的な曲線はそのままに、その肌にはアルフレッドの魔力紋様と同じ「光の刻印」が、胸元から腹部にかけて鮮やかに刻まれている。
「私はもう、闇の力を使うことはできない。……お前の光がなければ、生きていけない体にされてしまった」
彼女がアルフレッドの分厚い胸板にその豊かな胸を押し当てると、二人の刻印が共鳴するように白銀に輝く。それは、物理的な接触を通じて魔力を補給し合わなければならない、不可分の契約だった。
■ 中立都市での新生活
二人は「アジール」の片隅で、用心棒と薬師の夫婦を装い、静かな生活を始めた。
「アルフレッド、今日の夕飯の買い出しは任せたぞ」 「ああ、分かっている。シレン、あまりその……はち切れそうな服で外に出ないようにしてくれ。街の男たちが放っておかない」
アルフレッドは苦笑しながら、以前にも増して艶やかさを増した妻(あるいは、そう呼ぶべき存在)の腰を引き寄せた。 かつて冷酷な暗殺者だったシレンは、今ではアルフレッドの前でだけ見せる柔らかな微笑を湛えている。
「ふふ、心配性だな。私の体は、もうお前の光で満たされているというのに」
■ 終わりのない愛の旅路
二人が選んだ道は、光の国からも闇の国からも「反逆者」とされる道だ。 いつか再び追っ手が来るかもしれない。だが、アルフレッドの隣に立つシレンの瞳に、もう孤独な暗殺者の影はない。
「たとえ世界を敵に回しても、この光だけは守り抜く」
アルフレッドは彼女の唇に、静かに誓いの口づけを落とした。 窓の外には、かつての戦場を照らしたのと同じ月が浮かんでいる。 しかし、その光は今、二人の新しい門出を祝福するように、どこまでも穏やかに降り注いでいた。
中立都市アジールでの平穏な生活は、三年の月日を経て、かつてない危機に晒されていた。 闇の国「ノクティス」が送り込んだ、理性を失った魔獣軍団。街を囲む城壁が崩されようとしたその時、伝説の「逃亡聖騎士」と「光のダークエルフ」が再び武器を取った。
「シレン、準備はいいか。魔力の同調を!」 「ええ、アルフレッド。私の身体にあるお前の光を、すべて使い切っていいわ」
二人が背中を合わせ、互いの掌を重ね合わせる。 アルフレッドの分厚い胸板から溢れ出す純白の魔力が、シレンの豊満な肢体を駆け巡り、彼女の指先から黄金の矢となって放たれた。かつての暗殺の技は、今や邪悪を射抜く光の雨となり、魔獣たちを次々と浄化していく。
二人の息の合った共闘は、まさに一対の翼のようだった。 アルフレッドが聖剣で道を切り開き、シレンがその影を縫うようにして光の魔法で追撃する。 かつては敵同士だった二人の絆が、今、一つの都市の希望となっていた。
【新たなる命の息吹】
激闘から数ヶ月後。アジールに再び平穏が戻り、二人の家には新しい家族の産声が響いた。
「見てくれ、シレン。……美しい子だ」
アルフレッドが腕に抱いているのは、白銀の髪と、ダークエルフ特有の少し尖った耳、そしてアルフレッドと同じ澄んだ青い瞳を持つ赤ん坊だった。
シレンは産後の疲れを感じさせない、母性あふれる柔らかな微笑みを浮かべながら、ベッドから身を起こした。 「……お前の光と、私の闇……その両方を受け継いだ子ね」
その赤ん坊の背中には、生まれながらにして小さな「光の翼」のような紋章が浮かび上がっていた。それは光と闇が争うこの世界において、両者の和解を象徴する奇跡の証だった。
「名前は、何にする?」 シレンの問いに、アルフレッドは赤ん坊の小さな手を握り、静かに答えた。
「ルクス。……この暗い世界を照らす、一筋の光になってほしい」
【エピローグ:月明かりの下で】
それからさらに数年後。 アジールの街外れにある丘の上で、三人の人影が月を見上げていた。
逞しい体躯の男と、その隣で寄り添う、驚くほど美しい長身の女。 そして二人の間を、楽しそうに走り回る小さな少年。
「父様! 母様! 見て、月がとっても綺麗だよ!」
少年の手から、小さな光の粒が蛍のように舞い上がる。 かつて戦場で血を流し合い、憎しみ合っていた二人の結末が、ここにあった。
「ああ、本当に綺麗だ。……お前が生まれた夜も、こんな月だったんだぞ」
アルフレッドはシレンの腰を引き寄せ、彼女の白い肌に優しく唇を寄せた。 シレンは恥ずかしそうに目を細め、かつての冷酷な暗殺者だった頃には想像もできなかった、幸福に満ちた涙をひとしずく零した。
世界はまだ争いに満ちているかもしれない。 だが、この小さな家族が放つ光は、いつか世界を包む夜明けの先触れとなるだろう。
(完)




