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屋根系命  作者: 竹子


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最終章:屋根啓一

昼下がりの「武壱屋」。換気扇がけたたましい唸りを上げる中、啓一は、まるで命の儀式のように友人の健太と共に、いつものカウンターに陣取っていた。

「マジで武壱屋のラーメンは最高だよな!今日もちゃんとノルマ達成して、明日も生きような、啓一。」健太は興奮気味に語る。

啓一は、カウンターに置かれた大きな壺から、ニンニクを豪快に大さじ三杯盛り——それはもはや、白い山脈だった。背脂と醤油の暴力的な香りを吸い込みながら、熱々のライスを勢いよく頬張る。

「超高濃度複合栄養素N-3」。それは彼にとって、単なるラーメンではない。生の証、戦いの糧、そして、あらゆる俗世の煩悩から解放されるための、至福の現実逃避薬。

しかし、その瞬間だった。

背後から、氷が砕けるような、聞き慣れた声が聞こえた。

「……啓一くん?」

啓一の全身から血の気が引く。ゆっくりと振り返ると、そこには沙織と、詩織!!??が立っていた。沙織は部活の友達と、詩織は一人で。武壱屋の濃厚な湯気が、二人の清涼な雰囲気を際立たせている。

「な、なんでここに……」啓一の声が上ずり、喉の奥のニンニクが詰まる。

「それはこっちのセリフよ」沙織が射抜くように啓一を睨む。彼女の瞳は、いつもは溌剌とした光を宿しているが、今は怒りで燃え盛るマグマの色だ。

「啓一くん、今日は胃が悪いから一緒にご飯を食べられないって、私に言ってたよね?」

沙織がさらに問い詰める。

「誘いを断ったのに、元気にライスまでおかわりしてるってどういうことでしょうか?」

詩織はおとなしそうな声だが、その冷たさは、武壱屋の熱気を一瞬で凍てつかせる。静かな言葉の刃が、啓一の嘘を切り裂いた。

そして、初対面の彼女ら2人が、カウンター越しに、奇妙なシンクロで顔を見合わせる。今日、二人にはそれぞれ適当な「胃の不調」という理由で食事の誘いを断ったのだった。くだらない嘘が、最悪の形で、啓一の「N-3摂取空間」で伏線回収されてしまった。

「ていうか、この状況……まずすぎる。」啓一の背中を冷や汗が流れ落ちる。それはもはや、背脂の油ではない。

そして、啓一の運命を決定づける、究極の「調味料」が投入される。

健太が、カウンターで腕組みをして、空気を読まずに、啓一の人生を一撃で破壊する台詞を叫んだ。

「え、啓一、お前彼女"たち"にラーメン断ってたの? 屋根系が命って、『超高濃度複合栄養素N-3』がないと死ぬって、いつも言ってたじゃん!」

「う、うるさい!」啓一は悲鳴を上げ、慌てて健太の口を両手で塞いだ。だが、時すでにお寿司っていうやつか。ラーメンの丼の中に、彼の人生が勢いよく傾き、決壊した。

詩織と沙織の瞳は、これまでにないほど鋭く、そして冷酷に光っていた。二人が同時に、同じ疑問を口にする。

「……ちょっと待って。じゃあ、啓一くん、この詩織って人と私両方と付き合ってたってこと!?」沙織が怒りに震え、カウンターに手を叩きつける。丼が揺れる。

詩織も表情を曇らせる。怒りよりも深い、裏切られた悲しみが滲んでいた。「そういうことなんですね……啓一くん、最低です。」

屋根系ラーメンの強烈な熱気も、ニンニクのにおいも、すべてが凍りついた。

二人は席を立ち、まるで啓一の存在を否定するかのように、ラーメンを半分以上残して店を出ていく。沙織は店先で部活の友人に怒りをぶちまけていたが、詩織は一人、静かに、悲しみに暮れて去っていく。啓一にとっての「N-3」のように、二人は彼の生命線だった。

啓一は、その背中を見送ることしかできなかった。

結局、啓一も食欲がなくなり、生命線であるはずの屋根系ラーメンを、8割以上残すことになった。特盛りのライスも、大さじ三杯のニンニクも、もはや喉を通らない。「N-3が……」カウンターの上の、醤油の滲みた卓上調味料の瓶が、嘲笑うように光っている。啓一の胃の腑は、嘘の代償として、空っぽのまま激しく痛み出した。彼に残されたのは、油でギトギトのカウンターと、「超高濃度複合栄養素N-3」を拒絶された、無惨な魂だけだった。

修羅場の果て、啓一は完全に孤独になった。精神的なショックで、一切食欲が湧かない。しかし、このままではいけない。死が迫る。胃はキリキリと痛み、身体がラーメンを受け付けない拒否反応を示している気がした。

健太と別れ、重い足取りで家路につこうとした時、背後から、静かだが確かな声で呼び止められた。

「啓一くん……」

振り返ると、そこに詩織が立っていた。彼女の表情は怒りではなく、深い諦めに満ちていた。

「最低だって言いました。それは今も変わりません。」詩織は静かに、抑えた声で口にした。「でも、あの時、健太くんが言っていたこと、あれは本当なのですか?」

啓一は抵抗する気力もなかった。「……ああ、本当だよ。屋根系ラーメンを食べないと、俺は死ぬ。」彼は力なく、己の運命を認めた。

詩織は、張り詰めた糸が切れるように深呼吸をした。そして、彼女はポケットから、慣れた手つきで一枚の診察券を取り出した。

「そう……私も同じなんです。正確に言えば、『極端な栄養吸収不全』。私もあなたと同じ、超高濃度複合栄養素N-3を毎日摂取する必要があります。」

啓一は息を飲んだ。「でも、私が摂取しなければならないのは、醤油の濃い屋根系ラーメンだけ。にんにくやライスはノルマじゃない。だから、いつもあなたを誘う時、屋根系ラーメンを避けていたんです。私の秘密を、あなたに知られたくなかったから。」

啓一は絶句し、思考が停止した。あの時、詩織の丼にあった、少なめのにんにく、そして並盛ライス。あれは、彼にバレないように、彼と同じ『屋根系ノルマ』を自分に課していた証だったのだ。にんにくを少なめにしてるのは譲れないものがあったからだろう。乙女心的な。

「そんな……じゃあ、あの時、ラーメン屋にいたのは……」啓一の声が震える。

「ええ。あなたの秘密を探るためじゃありません。ただ、私も限界だったから。どうしても、あのタイミングで、屋根系ラーメンを食べなければ、いけなかったんです。」詩織の瞳に静かに涙が浮かんだ。「最低なのは、あなただけじゃないです。秘密を抱えて、あなたを追い詰めた私も、最低です。」

二人は、最も知られたくない秘密を共有し、悲しみに暮れた。だが、和解は訪れなかった。運命は似ていても、傷つけ合った事実は消えない。詩織は静かに背を向け、去っていった。啓一は再び、絶対的な孤独の中に立ち尽くす。

「詩織……お前まで、そんな運命だったのかよ……」互いを裏切ったと思っていた相手もまた、同じ地獄を生きていたという、あまりにも皮肉で厳しい現実に、啓一の胸はさらに強く締め付けられた。(早く、屋根系を食わなければ、本当に死ぬ…)彼は痛み始めた胃を抱え、重い足取りで病院とは反対の方向へ歩き出した。しかし何を食べても喉を通る気がしない。精神的な苦痛は、彼の生命維持に必要な食欲を完全に奪い去った。それはもはや、肉体的飢餓を超越した、魂の拒絶反応だった。


家に帰ってから、啓一はショックでボォーッとしていた。視界の端には、未だ描きかけの漫画原稿が転がっている。

また、このまま屋根系を食べないで死んでもいいかと思った時、ふと、その原稿が目に入った。「俺はまだこの漫画を書き上げてないじゃないか……」

彼の描く『屋根系・デッドマン・ライフ』。屋根系ラーメンこそが人類を救う唯一の真理、という、滑稽だが彼にとっては唯一の"真実"を描いた、彼の命そのもの。


夜の23時45分。啓一はアパートを飛び出した。彼は夜の街を半狂乱で駆け巡る。体は震え、視界は定まらない。二股騒動の修羅場を経た彼の魂は、もはや倫理や常識を超えた、ただ一つの要求に支配されていた。

屋根系ラーメンの赤提灯を探す彼の目は、もはや「超高濃度複合栄養素N-3」を求める、本能的な光しか灯していなかった。「お願い……どこでもいい、開いててくれ……!」

時計の針は23時50分。ついに、薄暗い路地裏で、希望の赤い看板を見つけた。啓一は最後の力を振り絞り、その店のガラス戸に飛びつく。しかし、その扉には、無情にも「本日分完売」の札が、まるで彼の墓標のように貼られていた。

啓一の足は鉛のように重くなる。心臓のポンプが急速に弱まるのを感じる。

頭の中には、詩織と沙織の冷たい表情。そして、「スーパーの同僚」という偽りの身分で浮気相手だと誤解されながらも、彼が漫画家であるという、一番大切な秘密を唯一知ってくれた千葉灯の顔が、走馬灯のようにちらついた。唯一、彼の本質を知る人間。その彼女にも、まともな別れも告げられずに終わるのか。

「俺の『屋根系・デッドマン・ライフ』は、こんな、滑稽で孤独な終わり方でいいのか……?」

23時58分。彼は近くの公園にたどり着き、力なくベンチに腰を下ろした。視線の先、遠くの街灯の下で、誰かが倒れているように見えたが、それはもはや栄養失調による幻覚だと決めつけた。立ち上がる力もない。

体内のエネルギーは完全に枯渇し、手足の感覚が薄れていく。彼は、「N-3」ノルマ未達による、明確な生命活動の停止を、冷たいベンチの上で感じていた。

時計の針が、カチリと24時00分を指した瞬間――啓一の視界がふっと暗転し、体からすべての力が抜けていった。彼の命を支え続けた、あの湯気立つ屋根系ラーメンの強烈な香りが、もう二度と彼に届くことはなかった。


翌朝。未完の原稿が転がる啓一のアパートに、誰も彼の死を知らない健太からのメールが届いていた。

『おはよ。今日のノルマ付き合うぜ、もちろん固め濃いめ多めでな!』

そのメッセージが読まれることは、永遠になかった。


啓一の死から三ヶ月後。

彼の遺作となった漫画『屋根系・デッドマン・ライフ』は、世間の度肝を抜く設定と、生々しい悲壮感、そしてシュールなギャグが受け、社会現象となっていた。読者は、この「屋根系ラーメンを食べないと死ぬ」という設定を、現代社会の過剰なノルマやストレスに対する、ブラックユーモアだと熱狂的に解釈した。

連載は、アシスタントだった千葉灯が、残された啓一のメモとプロットを基に、彼の遺志を継ぐ形で描き続けることになった。彼女は、連載の構成を進める中で、ある皮肉な事実を知る。

啓一が最後に誰を想い、誰をメインヒロインとして設定したかという点だ。啓一の生前のメモには、物語のクライマックスについて、詳細な指示が残されていた。それは、主人公と、彼と同じ奇病を抱える詩織が、共に「N-3」ノルマ未達による謎の死を遂げるという、あまりにも悲しく、そして漫画としては「非常に美しい」結末だった。

啓一が、最も心を通わせ、病の秘密を共有した詩織を物語の「運命の相手」として選んでいた事実に、灯は静かに胸を締め付けられる。灯自身、最後まで啓一が自分をどう思っていたかを知らなかった。彼女が最後に原稿に加えるペンは、啓一の「自分を一番好きでいてくれた人物」ではない詩織を、光輝くメインヒロインとして昇華させる作業だった。

灯は時折、仕事の合間に、啓一がネタとして描いた「スイカ丸飲み儀式」のシーンを見て、そっと笑みを浮かべる。それは、二重の秘密と孤独を抱えて生きた彼の、唯一無二の滑稽な戦いだった。

世間は知らない。この滑稽な「死のノルマ」が、本当に彼自身の命を奪ったことを。そして、この物語が、彼が誰にも言えなかった二重の秘密と、成就しなかった恋の結末を曝け出した、悲劇的な遺書だったことを。


灯は、啓一が最後に描き残した未完の原稿に、静かに新しいペンを入れた。

「屋根先生、また、馬鹿みたいに大ヒットですよ。皮肉なことに、あなたたちの死は、この漫画を不朽の名作にしたんですから。」

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