第三章:屋根系ラプソディ
「屋根系ノルマ」が周囲に露見するリスクに焦燥感を覚えた啓一は、究極の秘策、「朝ラーメン作戦」を決行した。朝料金の恩恵でお財布には優しい。しかし、問題は、大さじ三杯のニンニクが放つ、放課後まで続く強烈なにおいだ。「このにおいこそ、俺の命の証なんだけどな……」運命を呪いつつも、どこか客観的に自分を滑稽だと俯瞰してしまう。
そこで彼が思いついたのが、「スイカ丸飲み」という荒技だった。
啓一にとってスイカは単なる消臭剤ではない。それは、屋根系の強烈なニンニク臭を打ち消すための「秘薬」であり、彼の秘密を守るための「儀式」となった。
ラーメンを食べ終えた後、彼は新宿のスーパーで大玉のスイカを購入し、誰もいない公園を目指す。人目、特に「子供の笑い」や「カップルの視線」、そして「高校生の冷やかし」は、彼のメンタルを簡単に崩壊させる。要するに、彼は誰もいない「無人の時間」を狙うしかなかった。
静寂のタイミングを見計らい、啓一は公園に突入する。
彼はスイカを容赦なく地面に叩きつけ、ひび割れた部分に顔を埋める。まるで獲物に食らいつく飢えた獣のように、果汁を顔中に浴びながら、種もお構いなしに、豪快に、そして凄まじい速さで飲み込む。その姿は、ニンニクの呪縛から生命を繋ぐための、悲壮で、そして滑稽な戦いである。
「笑うなら笑え!最近はもうヤケクソだ!」
人間には体感時間というものがある。小学生の時に教科書を忘れた時の授業は、実際の時間は50分でも体感は200分だったりする。逆にゲームやカラオケは2時間でも30分くらいに感じる。この理論でタイムスリップができるのではないかと思ったことがあるが、それは今はどうでもいい話。ちなみに、スイカに顔を埋めるのは実際は20分だが、体感は2分ほどだ。嬉しさと恥ずかしさと愛しさ(なんか聞いたことあるフレーズだな)があり、最近はやる前は嫌なのだが、やっている最中は楽しさが勝つようになってきてしまった。慣れというものは恐ろしい。
ある日、詩織が中庭のベンチで読書をしていると、啓一の異様な姿を発見する。彼は必死の形相で、スイカを貪り食っていた。
「……啓一くん、なにをしてるの?」
「うおっ!?し、詩織!こ、これは……最近ハマってるアートだよ!『屋根系後のスイカ・クレンズ!』若い人たちの間でトレンドなんだよ!」啓一は顔中の果汁を拭いながら、必死で言い訳を続けた。
詩織は苦笑しながら「そう。でも、ちょっと啓一くん特有の個性が強すぎるわね」と言い、そそくさとその場を後にした。
啓一は冷や汗を拭った。この行動が目立ちすぎるのは承知だが、彼にとっては、このスイカの暴力的なまでの消臭力と、この必死の行為こそが、「屋根系」という密告者から命を繋ぐ唯一の防御策だったのだ。(ああ、完全に引かれたな。まあいい。深く考えたらメンタルが持たない。忘れよう……)
啓一はこの自身の「屋根系ノルマ」の生活を、『屋根系・デッドマン・ライフ』という名のギャグ漫画に昇華させて、隙間時間にこっそり描いていた。この秘密を誰かと共有したいという切実な欲求と、この滑稽な運命を後世に残したいという衝動からだった。健太がいじってくる時のあだ名「屋根系デッドマン」をそのまま使った。もしこの漫画が売れたら自慢して欲しいと思いながら。
彼はその原稿を出版社に持ち込み、見事新人賞を受賞。ちなみにこの時代はAIに頼めば絵は簡単に書くことができるため、この特殊な設定さえあれば簡単にインパクトのある作品を書くことができた。彼は月10万円の連載が決定した。その日、啓一は迷わず近所のスーパーのバイトを辞めた。しかし、周囲には「バイトは続けている」と嘘をつき、誰にも言えない秘密の「屋根系漫画家生活」が始まったのだった。
翌月の第2火曜日。啓一は、まるで重い運命を背負う巡礼者のように、病院を訪れた。
「屋根さん、最近の調子はどうですか?」
担当医は、まるで天気の話でもするかのように、驚くほど冷静に尋ねる。
「屋根系ラーメンを1日1杯、ノルマ通り食べています。食べれば元気が出るので、問題は……ありません。」啓一はいつも通り答えた。
「そうですか。では血液検査をしましょう。」
検査結果が出る。担当医は慣れた手つきで、書類に目を走らせた。
「やはり、体内の『超高濃度複合栄養素N-3』は基準値ギリギリを保っていますね。残念ながら、根本的な治療法はまだ見つかっていません。引き続き、屋根系ラーメン生活を続けてください。くれぐれも、食べ忘れることのないように。」
食べ忘れるわけねえっての。命がかかってる限りそんなヘマを起こすはずがない。ていうか生きてるうちに考えていることの7割は屋根系ラーメンのことだ。今まで頑張って生きてきたつもりだが、こんなわけのわからない病気にかかって、食べ忘れなんかで命を落とすなんて哀れすぎる。
啓一は、1ヶ月に一度、高額な医療費を払いながら通院しているが、状況は全く変わらない。担当医の驚くほど冷静な対応と、一貫して変わらぬ診断結果が、彼の「屋根系に依存する運命」をより一層、重くのしかからせた。
連載が始まると、出版社は啓一にアシスタントをつけた。それが、物静かで仕事の早い千葉灯だった。容姿は淡麗で、歳は20歳。俺より2個上だが、向こうが敬語を使う上に、「敬語は使わないでください。」と言われたのでタメ口で話している。啓一は一人暮らしなので、彼が住むアパートに灯が来て一緒に作業をするようになった。仲良くはなってきたが"The 仕事仲間"っていう感じだ。
灯はもちろん俺の病気のことを知っている。そのこともあり灯は屋根系の袋麺を作ってくれることがあった。それを食べた日の深夜0時に病院に搬送された。どうやら屋根系の店舗で食べなければいけなかったようだ。2度とこういったことはするなと医者からの指導が入った。あと1回やったら命の危険があるらしい。スズメバチかよ。
灯はすごく謝ってきたが、むしろこっちが謝った。俺のことを思ってラーメンを作ってくれたのにそれを食べて倒れるなんて失礼極まりない。
そんな出来事がありながらある日の深夜。啓一のアパートで二人きりでの作業を終え、灯が帰ろうとした、その時だった。運命は、啓一の秘めた日常を許さない。
偶然通りかかった沙織と、アパートの玄関先で鉢合わせしてしまう。
「啓一、誰!?この子!」沙織の目に鋭い疑いの光が宿る。
「あ、あの、バイト先の…」啓一は咄嗟に秘密(漫画家であること)を守るための、古い嘘をつこうとする。
だが、灯はプロ意識からか、しっかりとした声で自己紹介した。「初めまして、屋根先生のアシスタントの千葉灯です。」
啓一は血の気が引き、慌てて口を挟む。「いや、スーパーの同僚だよ!」
話は複雑にねじれた。「ふーん。スーパーの同僚が、こんな時間にアパートで二人きり?なんだか浮気相手みたいで、思いっきり怪しいじゃない!」沙織は目を細める。一度嘘をついた啓一は、何を言っても信用されない。
啓一が必死で否定する中、灯が啓一の耳元に囁いた。「ここは素直に『アシスタント』と言った方が…」
「ダメだ。秘密なんだ」啓一は小声で返す。彼の病気が絡む連載は、誰にも知られてはいけない。心配をかけたくないのともう一つ決定的な理由があった。それは、この彼女が2人いるという状況も漫画に書いているからだ。そこが肝になってこの漫画は売れたといっても過言ではない。読者にはこの破天荒さが刺さったのだ。
「まあ、どちらにしてもね。異性とアパートで2人きりなんて、浮気以外の何物でもないわよ!」沙織の怒りは収まらない。
啓一は返す言葉がなかったが、真剣な眼差しで訴えた。「ごめん。色々事情があって、今日は仕方がなかったんだ。やましいことは一切ない。信じてくれ。」
沙織は啓一の目を見て、しばらく沈黙した後、「今回は許すけど、二度とこんなことしたら許さないからね!」という厳しい条件で、渋々許してくれた。啓一は、嘘の上に成り立った日常が、危ういバランスで保たれたことを知った。
まあ最初から知ってたんだけど。(ていうか許してくれるんだ)と沙織の懐の広さに感銘を受けた。
別の日、今度は旧友の健太が、作業中の啓一のアパートを突然訪れ、灯に会う。
「おい啓一、こないだの女、今度は別の女かよ!しかも可愛いじゃん!スーパーのバイトってモテるんだな!」健太は軽薄に笑う。
「違うんだ!漫画のアシスタントなんだ!」啓一は真実を叫んだ。よくよく考えたら俺の病気の事情を知るのは健太くらいだ。今更漫画を描いていることを隠す必要はない。むしろ俺の漫画を読んで笑って欲しいくらいだ。ていうかお前のことも鬱陶しい幼馴染として書いてるからそれを読んでダメージを与えたいところだ。こいつは喜びそうだがな。
健太は、いつものように啓一の口の臭いを嗅ぎながら、大声で笑い飛ばす。
「漫画?お前が描けるわけないだろ、屋根系デッドマン!」
健太のしつこさは相変わらずだが、このふざけたあだ名と、友人のくだらない言動だけが、秘密と病に縛られた啓一を、最近唯一、心から笑わせる瞬間だった。
(まったく、本当に笑えるわ……)
啓一は、自身の悲劇的な運命を、親友の笑い声にわずかに紛らせるのだった。




