8.普通の世界
凛花たちと話した放課後、私は多賀くんを呼び出した。
あの日の返事をするためだ。
ずっと、保留にしていたけれど、今日なら、ちゃんと返事ができる気がした。
「相馬」
誰もいない空き教室で待っていると、多賀くんが静かにドアを開けた。
話の内容を察しているのか、多賀くんはあの日のように緊張している。そんなふうに緊張されると、緊張が移ってくるから、やめてほしい。
ゆっくり深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「……告白の返事、なんだけど……」
「……うん」
私の言葉に、十分な間を置いて、多賀くんは応えた。
こんなにも無言の時間を作りながら会話したことが、今までにあっただろうか。
でも、それくらい考えて言葉を発しないと、私は全てを間違えてしまう気がしていた。
「多賀くんとは、付き合えない。……ごめん」
多賀くんは、すぐには応えなかった。
私から言葉を急かすこともできなくて、静寂が私たちを支配する。
その間、多賀くんの顔も見れず、私はただ、多賀くんの足元を見つめていた。
「……そっか」
多賀くんの返事はシンプルだった。
顔を上げると、多賀くんは笑っていた。
でも、その表情が、無理して作られた笑顔にしか見えなくて、私はますます、視線を落とした。
それを見てしまうと、私はきっと、素直な言葉を述べることができなくなる。
「……友達には、戻れないよな」
私は言葉に迷った。
ここで、言ってみようか。そのほうが、誠実だろうし。
でも、多賀くんが受け入れてくれるだろうか。
凛花に打ち明けることすら、抵抗があったのに。
……いや、言おう。どんな反応をされても、私にはもう、味方がいるのだから。
「そう、だね……私は、誰かから恋愛感情を向けられていることが、たぶん耐えられないから……」
多賀くんは、なにを言っているのかわからない、という目をしている。
まあ、これが普通の反応だろう。
「……私ね、無性愛者なんだ。誰にも恋しない、ちょっと普通から外れちゃった人、みたいな……」
言ってから、それが自虐的な言い回しになってしまったような気がした。
そのせいか、多賀くんの表情には混乱が見える。
こんな断り方をして、申し訳ないとは思っている。今までに聞いたことのない理由で断っているし、無理もないと思う。
だけど、私はもう、私を偽ることをやめたから。これが、私の普通だから。
「……そっか、わかった。じゃあ、いつか。俺が相馬への想いを思い出にできたら、そのときまた、友達になってよ」
多賀くんがつらそうに笑うから、胸が締め付けられる。
「いいの……?」
そんな、私に都合のよすぎる約束。
多賀くんに申し訳ないとわかっているのに、嬉しいと思ってしまう私がいた。
「いいもなにも、俺が提案したんだよ?」
多賀くんは、優しい人だ。
だからこそ、多賀くんの気持ちに応えられなくて、苦しさが増していく。
でもきっと、ここで「ごめん」って言うのは、違う。
「……ありがとう」
そんな私の返事を聞くと、多賀くんは柔らかい笑みを返してくれた。
多賀くんが先に帰ったことで、独りになる。
押しつぶされそうな緊張感から解放されたからか、私は大きく息を吐き出した。
お疲れ様。
自分にそんな言葉をかけながら、私も空き教室を後にする。
その足で、Seaser Glassに向かった。今日は、マキさんにたくさん話を聞いてもらいたい。話したいことが、たくさんあるんだ。
「いらっしゃい、ユズちゃん」
シーザーグラスのドアを開ければ、マキさんがいつも通りに出迎えてくれる。
少し前までは、ここに来ることが非日常だったのに、いつの間にか、私の日常の一部に溶け込んでいた。
私は本当に、素敵な出会いをした。
そんなことを思いながら、店に入っていく。
「今日はなににする?」
「そうだな……ミルクティーをお願いします」
それからミルクティーが届くと、私はそれを口にした。
どんな飲み物でも、優しく身体に染み込んでいくのだから、不思議だ。
そして私は、今日あった出来事をマキさんに話した。
浅木くんとも和解したこと。凛花が嬉しいことをたくさん言ってくれたこと。
そして、多賀くんにありのままの私を打ち明けられたこと。
私の拙い説明では、伝わらない部分もあったと思う。
それでも、マキさんは優しい相槌を打ちながら、話を聞いてくれた。
「ユズちゃんを見てたら、このお店を始めてよかったって、改めて思っちゃった」
すべてを話終えると、マキさんは嬉しそうに言った。
その言葉を聞いて、ふと思い出した。
「そういえば……Seaser Glassって、どういう意味なんですか? ネットで調べても、Seaserって出てこなくて」
すると、マキさんは照れくさそうに笑った。
「それね、造語なの。私、シーグラスをシーザーグラスって勘違いしてて」
「え、そうなんですか?」
可愛い勘違いに、思わず笑ってしまう。
「でもそれなら、シーグラスでよかったんじゃ……」
「うーん……Ceaseって単語があってね? 止まるって意味なの。そこにerをつけて、止まる人、立ち止まる場所って意味にしたら?って、仁が提案してくれて。それなら、CをSにして、シーグラスの意味も込めようって、このお店の名前を決めたの」
知らない言葉の意味を知ると、ますますここが好きだと思った。
なんて素敵な意味なんだろう。
本当に、マキさんの想いがこもってる。
「ここが、心を休める場所になってくれたら。今は尖っていても、シーグラスのように、時間が経って丸く、綺麗な世界になってくれたら。そう、願ってるんだ」
その願いは、もう叶っている気がした。
今ここにいる人たちの穏やかな表情、楽しそうな声を聞いていれば、答えは見えてくる。
もっとここにいたい。
そう思うのは、マキさんの優しい願いが込められているからだろう。
「マキさん、今日はたくさん話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「いいえ」
ミルクティーを飲みほすと、私は席を立った。
もう、初めてここを訪れたときの暗い私はいない。
こんなにも心が軽いのは、いつぶりだろう。
「ユズちゃん、いってらっしゃい」
店を出るとき、マキさんにそう呼び止められた。
この声かけをされたのは、初めてで、一瞬戸惑った。
でも、不思議と嫌じゃない。
「行ってきます」
そして私は、私の普通の世界に一歩踏み出した。
私が私でいられる、素敵な世界に。