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5.世界の崩壊

 Seaser Glassの存在を知ってから一週間が経ち、私はほとんど毎日のように通っていた。

 ただそこにいるだけの日もあれば、マキさんやそこにいる人たちと話す日もあって。

 少しずつ、自分の存在を認められ、少しずつ、気持ちに気付けるようになってきた。

 “普通”ではないことが“普通”の空間。

 その心地よさに、救われていた。

 ちなみに、浅木くんとは、初めて喫茶店を訪れて以来、あまり言葉を交わしていない。

 といっても、学校での様子はあまり変わらなくて、図書室で会ったときには、少し話してくれる。

 お互い、学校では喫茶店のことには触れず、今までと同じ日常を過ごしている。

 私にとっては、同じ日常ではなくなっているけど。

 だからか、そろそろ教室に行けるかもしれないって思い始めた。

 さっき保健室に行って、そのことを先生に伝えてきた。

 居場所を見つけられたかもしれません、って。

 そして、先生の優しい笑顔に見送られて、今、廊下を歩いている。

 久しぶりの教室前廊下に、変な緊張感が走る。

 一歩踏み出すたびに、私の勇気がすり減っていく感覚。

 やっぱり無理かも。

 そう思ったときだった。

「柚衣!」

 背後から明るい声が聞こえ、振り向くと、そこには凛花が立っていた。

 そして、凛花は私の隣に駆け寄ってくる。

 ずっと保健室の先生やマキさんの距離に慣れてきたのか、凛花が真横にいることに違和感を抱いてしまった。

 だけど、凛花はそれに気付かずに、歩き始める。

「今日からこっちなんだね」

 凛花が嬉しそうな声を聞きながら、私は少し凛花と距離を取りながら「うん」と返す。

 やっぱり凛花の距離感に戸惑うだけで、こうして気遣ってくれるところは好きだ。

「柚衣、最近雰囲気変わったよね。なんか、柔らかくなった」

「本当?」

 凛花に言われて思い出すのは、やっぱりあの喫茶店のことだった。

 凛花にも伝わるくらい変わることができているのは、正直嬉しい。

 それを聞いて、萎んでいた気持ちが回復してくる。

「もしかして、好きな人ができたの?」

 凛花はにんまりと笑いながら、私を見た。

「違うよ」

 少し前までなら、この質問すら苦しかった。

 だけど、普通ではない自分を受け入れたからか、自然と返すことができた。

「えー? 隠さなくてもいいんだよ?」

 だけど凛花は信じてくれなくて、さらに口角を上げた。

 これは、今までとは違う。

 なにか確信を得ているような表情。

 それを見て、なんだか嫌な予感がした。

「浅木くんと付き合ってるんでしょ?」

「え……」

 絶望に近い感情だった。

 なにを言われても、平気だと思ったばかりなのに。

 どうして、そうなったの?

「浅木くんは……ただの友達だよ」

 戸惑いつつも、しっかりと否定した。

 自分のことを言われるだけなら、問題はない。

 だけど、この勘違いはちゃんと訂正しておかないと。

 これが噂になってしまったら、浅木くんが本当に好きな人ができたときに、迷惑をかけてしまう。

「照れないの」

 それなのに、凛花は聞く耳を持たなかった。

 どうして?

 なにが、凛花をそうさせるの?

 ――無理強いはしないよ。恋は誰かに言われてするものじゃないもん。柚衣が違うなって思ったなら、それまで。

 この前は、そう言ってあっさり引き下がったのに。

「だって私、見ちゃったんだもん。柚衣が浅木くんと歩いてるとこ」

「それは……」

 言葉につまってしまうと、説得力が欠けてしまう。

 だけど、Seaser Glassのことを言ってもいいのか迷ってしまった。

 ……ううん、言いたくなかった。

 あの場所は、日常から切り離された居場所。

 そこを、凛花には知られたくない。

「柚衣が男の子と二人きり並んで歩くなんて珍しいし、ただならぬ雰囲気だったし、そうしかなくない?と思って」

 凛花の推論は、どんどん広がっていく。

 先を進んでいく凛花にはもう、私の声なんて聞こえていなさそうだ。

 私の足が進まなくなっていることにも気付いてないだろう。

 どうして、私を“普通”の世界に戻そうとするの?

 私は、やっと“普通”じゃないことを受け入れられたのに。

「そうだ、これでダブルデートが」

 止まらない凛花の妄想に、抑えていた感情が溢れ出た。

「……だから、違うって!」

 凛花がスカートをひるがえし、振り返ったと同時に、私は凛花の言葉を遮った。

 それは、自分でも驚いてしまうほどの大きな声。

 凛花は数回瞬きをすると、ぽかんと私の顔を見ている。

 その表情に、胸が痛む。

 ……ずっと、気をつけてきたのに。

 凛花を傷つけないようにって、気を配ってきたのに。

 それなのに、凛花を否定するような、攻撃するような言葉を吐いてしまった。

 揺れ動く凛花の瞳に、さらに喉の奥が閉まる。

 そのせいで“ごめん”という言葉も出てこない。

「柚衣……?」

 凛花はゆっくり私に近付くと、震える手で私の左腕に触れる。

 その瞬間、全身に鳥肌が立ち、凛花の手を払った。

 しまった。

 そう思ったときには、もう遅かった。

 自分で思っているよりも強い力で振り払ってしまったような気がして、息が詰まる。

 今までなら堪えられていたのに。

 堪えられたのに。

 今までずっと、「触らないで」と言えないでいたけれど、これはもう、全身で言ってしまったようなもの。

「……柚衣」

 すると、凛花に名前を呼ばれ、私は視線を上げた。

 凛花は、今にも泣きそうな表情で、笑顔を作っている。

 その顔が私の罪を語っているようで、より胸が締め付けられた。

「……勝手に騒いで、ごめんね」

 凛花はそう言い捨てて、私に背を向けて走っていった。

 無意識に引き留めようと伸ばした手は、行先を見失う。

 追いかけたい気持ちはあるはずなのに、私の足は動いてくれない。

 それに、追いついたとしても、なにを言えばいいのかわからなかった。

 一番に謝ればいいことはもちろんわかっているけど、今の私に起きていることをちゃんと説明できる自信がない。

 だから私は、小さくなっていく凛花の背中を見つめることしかできなかった。

「随分と派手にやったね」

 立ち尽くしていると、背後から声がした。

 その声に身体をビクつかせ、声がしたほうを向く。

「浅木くん……」

 こんなときに声をかけてくるなんて、思っていなかった。

 いや、こんなときだからだろうか。

 私が戸惑いを隠せないでいると、浅木くんは私の元に歩みを進める。

「大丈夫?」

 浅木くんの表情は崩れないし、その声は冷たいように感じる人も多いだろう。

 だけど私は、浅木くんがどんな人なのか、知っている。

 だから、その言葉に彼の優しさが滲んでいるように思えた。

 心なしか、浅木くんの表情が心配してくれているようにも感じる。

 すると、視界がぼやけた。

 でも、今ここで泣いてしまうと、迷惑だ。

 そう、ちゃんとわかっているのに、私は彼の質問に涙で応えた。

「……え」

 浅木くんの戸惑いの声を聞いて、私は慌てて涙を拭った。

 だけど、堪えていた感情が溢れてしまって、私の意思で涙が止められなくなった。

「……行くよ」

 浅木くんはそう言うと、私の右手を掴み、歩き始めた。

 凛花とは違う、骨ばった大きな手に、少し乱暴だけど、優しく腕を引っ張られていく。

 浅木くんのひんやりとした肌を感じて、悪寒が走る。

 それなのに、私には振りほどく気力が残っていなかった。

「この辺でいいかな」

 一階の渡り廊下まで来ると、浅木くんは手を離した。

 ようやく解放されて、私はたった三段しかない階段に座り込んだ。

 今日は本当に、我慢が効かない日みたいだ。

 少し呼吸が乱れてしまっているのを、深呼吸して落ち着かせる。

「待って、顔色悪すぎない?」

 浅木くんの慌てた声が頭上から聞こえてくる。

 大丈夫だよって、言わないと。

 でも、説得力がないような気がした。

「ごめ……私……人に触られるの、苦手で……」

 少しずつ呼吸は整ってきたけど、手の震えは収まらない。

 せっかく浅木くんが私に心を許してくれたのに。

 これだと、浅木くんを拒絶してるみたいになってしまう。

 はやく落ち着いてよ。

 そう思うほどに、逆に焦ってしまって、落ち着きが戻ってこない。

「……ちょっと待ってて」

 すると、浅木くんの足音が離れていった。

 そして自販機から、飲み物が落ちてくる音がした。

「はい、これ」

 顔を上げると、浅木くんが水を差し出していた。

 浅木くんの手に触れないように気をつけながら、それを受け取る。

「ありがとう……あ、お金」

 カバンから財布を出そうとすると、浅木くんに「いらないよ」遮られた。

 そして、浅木くんは一番近くの鉄柱に背中を預けるように座った。

 私に気を使ってくれたのかな。

 だとすれば、申し訳なさすぎる。

 そう思う反面、ほんの数メートルの距離が、私にはちょうどよかった。

 ようやく安心感を覚え、水を喉に通す。

 思っていた以上に身体の水分がなくなっていたみたいで、身体が潤っていく感じがする。

「それにしても……今の様子、触られるのが苦手っていうより、無理って感じだったよね」

 浅木くんは一呼吸置いた。

 その瞳の奥には、悲しみが揺れ動いた気がした。

 私、また誰かを傷付けたの?

 こんなことなら、誰かに触られることが苦手だって、隠さなければよかった。

 そうすれば、凛花も浅木くんも、傷付けずに済んだかもしれないのに。

「……それって、僕が(・・)触ったから?」

「え……」

 困惑して声を漏らすと、浅木くんは自虐的な笑みを浮かべた。

「僕みたいな奴? 前に、気持ち悪いって言われたことあったなーと思って」

「ち、違う!」

 慌てて否定したことで、少しだけ声が大きくなってしまった。

 浅木くんは驚いて目を見開いている。

 ……違うよ、浅木くん。

 私は、そんなこと絶対に思わない。

 もっと言えば、浅木くんにそれを言った人に、怒りを覚えるくらいだ。

 それと同時に、腑に落ちている私もいた。

 だから浅木くんは、誰にも近付こうとしなかったし、誰も寄せ付けなかったんだって。

「浅木くんだからってわけじゃなくて……誰に対しても、ああなっちゃうの」

 そう話しながら、私は視線を落とす。

「家族でも……凛花でも」

 目を閉じれば、脳裏にさっきの凛花の表情が思い浮かぶ。

 凛花の、傷ついた顔。複雑な、作られた笑顔。

 私が、凛花を傷つけたんだ。大切で、大好きな凛花を。

 その罪悪感が込み上げてきて、ペットボトルを握っている手に力が入る。

「……なるほど、そういうこと」

 闇に落ちていく感覚から抜け出せなくなっていると、浅木くんの独りごちる声が聞こえた。

 顔を上げると、浅木くんは一人で納得している。

 今のでなにに納得したのか、さっぱりわからない。

「僕……相馬さんも僕と同じだと思ってたんだよね。倉本さんの恋の話を聞いて顔を顰めてたし、倉本さんに触れられて複雑そうな顔をしてたから。だから、相馬さんが倉本さんに対して、そういう感情を抱えてるのかなって」

 浅木くんは「違ったけど」と言いながら、苦笑する。

 ああ、そうか。

 私の中で、ずっと不思議だった疑問が、ゆっくりと解けていく。

 浅木くんが、私に声をかけてくれた理由。

 私に、秘密を打ち明けてくれた理由。

 これまでは自分のことで一生懸命で考える余裕がなかったけど、ふと気になっていた。

「……それで、苦しんでいる相馬さんが、過去の自分と重なったんだ。こういうのは触れられたくないってわかってるけど……でも、相馬さんを見て見ぬふりすると、僕は、過去の僕も無視したことになる。それは嫌だったんだ」

 再び浅木くんと目が合うと、その瞳には強い意志が宿っているように見えた。

 浅木くんが救いたかったのは、私じゃなくて、過去の自分。

 そう聞いて、不思議と納得している私がいた。

 失望感のようなものはない。

 これは静かな共感。

 私だって、これから先、私と同じように悩んでいる誰かがいたら、きっと手を差し出すだろうから。

 浅木くんや、マキさんのように。

「自分勝手な理由で、相馬さんを困らせてごめんね」

 申し訳なさそうな顔をする浅木くんに対して、私は首を横に振る。

「ううん……浅木くんのおかげで、私は私を見つけることができたから……」

 浅木くんが本を貸してくれなかったら、私はずっと、なにも知らないままだった。

 Seaser Glassに連れて行ってもらえなかったら、ずっと、独りで苦しんでた。

 どんな理由でも、私が救われたことは確かなんだ。

「だから、ありがとう」

「……そっか」

 浅木くんは照れくさそうに視線を落とし、笑った。

 やっぱり、浅木くんの笑顔にはまだ慣れそうにない。

 そんなことを思っていたら、予鈴が鳴った。

 もう、教室に行かなければならない時間。

 この瞬間が終わってしまうことの寂しさと、これから足を踏み入れる場所への不安感が同時に襲ってくる。

「……どう? 教室、行けそう?」

 浅木くんは心配そうに言いながら、立ち上がった。

 私も立ってはみるものの、まだ足に力が入らない。

 今日もまた、保健室に行こうか。

 そんな誘惑が過ぎる。

 でも、頑張るって決めたんだ。

 今ここで逃げてしまうと、私は、二度と教室に行けないような気がするから。

「……うん、大丈夫」

 強がった声は、少し震えていた。

 きっと、浅木くんは気付いてる。

 だけど、気付かないふりをしてくれた。

「じゃあ、行こうか」

 その優しさに、私の不安は若干和らいだ。

 浅木くんは私の横を通り、先に校舎に入っていく。

 後を追うつもりで階段に足をかけたとき、視界の端で雲が流れていく影が見えた。

 ふと視線を上げると、薄暗い雲が、太陽を隠していく。

 だけど、太陽の光は雲の隙間から漏れている。

 春の暖かさを忘れ、夏を連れてきた太陽。

 その日差しに目を細めた。

 そして、無意識に凛花のいる教室に視線が動いた。

「凛花になんて言おう……」

 私は静かに呟いた。

 今の時間で、気持ちを落ち着けることはできた。

 だけど、まだ気持ちの整理はついてない。

「なにも言わなくていいんじゃない?」

 それは、恐ろしく冷たい声だった。

 さっきまでの浅木くんと、本当に同一人物なのか、疑ってしまうくらい。

 その声色に驚いて、浅木くんのほうを見た。

 校舎内の影に佇む浅木くんの瞳には、光が宿っていない。

 浅木くんが浮かべる笑みもなんだか不気味だけど、寂しさが滲んでいるように感じる。

「普通の人は、僕たちみたいな人のことは理解できない。僕たちがわかってもらおうとしても、いつだって傷つくのはこっちなんだ。だったら、寄り添う必要なんてないでしょ」

 言葉が出てこなかった。

 彼は一体、どれだけ傷ついてきたんだろう。

 どれだけ、傷つけられたんだろう。

 そう思わずにはいられないほどに、憎しみが込められているように感じた。

 ずっと、私の前を歩いてくれていた浅木くん。

 そんな彼が今、そこに立っているのだとしたら。

 いつか私にもそんな未来がやって来るのかもしれない。

 そう思うと、怖くて仕方ない。

 ……だけど。

「……それでも私は、凛花と話せなくなるのは、嫌。だから、ちゃんと話すよ」

 すると、浅木くんから笑顔が消えた。

 まるで、裏切られたと言わんばかりに睨まれる。

「……相馬さんなら、わかってくれると思ったのに」

 浅木くんは私すらも冷たく突き放し、先に教室に向かっていった。

 こんなにもはっきりと境界線を引かれたのは、初めてだ。

 それもあるだろうけど、やっぱり、浅木くんに拒絶されたことで、胸が締め付けられた。

 本令が鳴ったのを聞きながら、私はその場に立ち尽くした。

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