湧水の家 〜水の音が聞こえる〜
「ここの水はね、生きてるのよ」
祖母がそう言ったのは、小学生の夏休み、田舎の家に泊まったときだった。
山あいの静かな場所にぽつんと建つ古い家。水道から出るのは地下から湧いた“湧水”で、冷たくて少し甘かった。
「だからね――夜の水は使ってはいけないの」
祖母はそう言って、やさしく微笑んだ。
その意味はわからなかったが、子ども心に、守らなければいけない“約束”のように感じていた。
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十数年後、祖母が亡くなり、私は一人でその家に住むことになった。
都会で疲れ切った心を休めるにはちょうどよかった。
だが、静かな日々は長くは続かなかった。
夜中、どこからともなく水音が聞こえる。
台所の蛇口が勝手に開いていたり、風呂の水面に誰かの影が浮かんだり――
あのときの「夜の水を使ってはいけない」という言葉が、頭をよぎる。
ある晩、夢を見た。
祖母が、家の裏の井戸から私を見ていた。
「水はね、生きてるのよ。でも、悲しみを溜め込むと、濁ってしまうの」
「夜の水が危ないのは、人の“泣いた記憶”が流れ込むから。
水は、それを抱えてさまようようになるの。
でも、聞いてあげれば、また澄んでいくのよ」
目覚めた私は、台所の蛇口から湧水を汲み、小さく声をかけた。
「……ごめんね。怖がってばかりで。
あなたの声を聞こうとしていなかった」
すると、水面が静かに揺れ、ひとつぶの涙のように、ぽたりと光る雫がこぼれた。
家じゅうを満たしていた水音が消えていく。
冷たかった空気が、少しだけあたたかく感じられた。
それから、奇妙な現象は起きなくなった。
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数ヶ月後、私は古い水瓶を磨いて小さな水神様を祀る棚を作った。
毎晩、湧水を供えては、祖母に話しかける。
「今日もありがとう。今日も無事でいられました」
すると水面が、ほんのわずかに揺れる。
まるで、返事をしてくれるように。
水は生きている――だからこそ、ちゃんと向き合えば、支えてくれる存在なのだ。
怖さや不気味さを感じた水の正体は、「記憶」や「悲しみ」を蓄えていた存在でした。
けれど、拒絶ではなく「対話」を選んだことで、主人公は“水”と“祖母”の想いを受け取り、共に生きていく道を見つけます。