この卵を護らなくてはいけない
真夜中の住宅街。
わたしは電柱の陰に隠れて息をひそめていた。複数人の足音が聞こえる。間違いない。わたしを探しているのだ。より正確にはわたしの抱えているこの卵を。
卵はドッチボールほどもあり、とても白くて美しかった。スベスベしていて、さわり心地もとても良い。
灰色の町。家々から光がこぼれている。わたしはその光から護るように確りと卵を抱きしめた。街灯も、月明かりも、星明りも、この卵には届かせやしない。ありとあらゆる光から、この卵を護らなくては。
電柱の陰の漆黒の闇の中、全ての光から遠ざけているはずなのに、それでもなおわたしの抱えている卵は白く浮き出ているように思えた。
或いは、この卵は自ら光っているのかもしれない。
そんな想像すらもしてしまう。
足音が近くまで来た。
わたしは思わず息を飲む。
「……あの卵が孵ったらお終いだ。その前になんとか見つけ出さないと」
そんな声が聞こえた。わたしはその言葉で卵を強く抱きしめた。よりよく温められるように。良かった。あの人の言った通り、この卵が孵るまで逃げ切れば良いんだ。
暗闇の中でじっとしていると、そのうちに足音は何処か遠くへ去っていった。
いった。
オーケー。
逃げるのなら今のうちかもしれない……
少し前、夜道を歩いていたわたしは、偶然に黒い女の人と行きあった。見えない。不可視の何かを身に纏ったかのような不可思議な女性だった。黒なのだけど、“黒”と言うよりは、わたしが認識できない細かな粒子の中に隠れているかのような印象。
背が高く、頭の上の方から彼女はわたしに話しかけて来た。他の部分は見えないのに、顔だけは不自然な程に白かった。
しかし、それでも、彼女は驚くほどに美しかった。
『助けてください』
彼女はわたしにそう訴えて来た。
『悪い人たちに追われているのです』
ふと見ると、彼女は両手で卵を抱え、それをわたしに向けて差し出していた。
『彼らはこの卵を狙っています。この卵が孵るのを妨げようとしているのです。なんとかこの卵が孵るまで護ってください』
わたしは大きく頷いた。
これほどまでに美しい女性が訴えるからにはそれは正しいのだろう。そうに違いない。
わたしは卵を受け取ると、夜の町を駆け出していた。数人の気配が、彼女の背後から迫ってきているのに気が付いたからだ。逃げなければ……
暗闇の中、わたしの家が見えた。
連中はわたしを知らないはずだ。当然、わたしの家も知らない。だから家の中に隠れれば、もう安心のはずだ。連中の気配も周囲にはない。
が、それは罠だった。
わたしが玄関に近付くと、不意に周囲を人影が囲んだのだ。恐らく物陰に潜み、わたしが来るのを待っていたのだろう。
連中は言った。
「良かった。間に合った。君、危ないから、今すぐにその卵をこちらに渡すんだ」
わたしは首を横に振る。
絶対に嘘だ。何が危ないと言うのだろう? この卵はこんなにも綺麗で愛おしいというのに。
「ダメそうです」
「仕方ない。多少乱暴をしてでも……」
連中が近付いて来た。
もう終わりだ。
しかし、そう思った刹那だった。抱えていた卵にひびが入ったのだ。中では明らかに何らかの気配が蠢いている。
やった! 卵が孵るのだわ!
わたしは歓喜した。あの女の人は、“卵が孵るまで”と確かに言っていた。これでもう大丈夫なはずだ。
中には一体、どんなに可愛い赤ちゃんがいるのだろう?
わたしは喜びとともに卵のひびの中を覗き込んだ……
少女が食べられている。
卵の中から出て来たカラスのような魔物の大きな顎が、少女の顔面に喰らい付いたのだ。血液が飛び散り、グロテスクな咀嚼音が響く。
男達の一人が言った。
「クソッ! 間に合わなかったか!」
この魔物のメスは、人間の精神に干渉をする。そして幻覚を見せて操る。操られた人間は卵をとても美しく愛おしく感じ、なんとしても護ろうとし、そして最後には孵った幼獣に食べられてしまう。つまり、魔物にとって人間は幼獣を護る為の道具であると同時に餌なのだ。
「絶対に逃がすなよ! あれを逃がしたらまた犠牲者が出る!」
男達は銃を構えた。だが、それを見ると即座に魔物は少女の死体を顎で挟み、そのまま器用に男達に向かって投げつけた。そしてその隙に信じられないほどの速度で空を飛んで逃げていってしまった。
……その須臾の間、魔物がほんの少しだけ少女の死体に甘えるような視線を向けたように見えた。