金縛りと巻き戻し 完結
彼は…、ええと、彼と言っても、草レビンの彼だ。あの代打屋の。
彼はあの靴底型時間巻き戻し装置をとてもとても高い値段で買うことにした。
あの胡散臭い男の口車に乗ったとも言える。
まあこれで成績が上がろうものなら、年棒だって簡単に上がるわけだから安いものだ。
彼はそう考えることにしたのだ。
ところで「靴底型時間巻き戻し装置」はちょっと長たらしいので、以後「靴戻し」と略させていただく。
で、彼はいつもその靴戻しをスパイクに忍ばせて球場入りしていた。
ちょっとめには靴の匂い消しそっくりだったので、だれも不審に思うことはなかった。
ところで、試合での靴戻しの使い方はこんな感じだ。
彼は打席に入り、じっくりとピッチャーの球を見る。
まあ、ボールの品定めみたいなものだ。
で、「これだ!」という球が来たらいったん見送っておく。
それで三振になっても構わない。
まあとにかく、「これだ!」という球が来たら、足の親指をちょいと曲げる。
すると靴戻しが作動を始める。
実はこの作動は、ちょっとした見ものだった。
まず、審判が「クイーァルォトゥス」と、大声をあげる。
つぎにキャッチャーミットが「ンーバ!」と妙な爆発音をたてる。
と同時にそのキャッチャーミットから弾丸のようにボールが弾き出される。
そのボールはピッチャーへ向かって唸りを上げてすっ飛んで行く。
そしてピッチャーはまるで踊るように、その剛速球を、事もあろうに、素手で取るのだ!
それからまたこ難しい顔をしながら、もとのセットポジションに戻る。
それからややあって、ピッチャーはまた投球動作に入る。
ところがこの間、ピッチャーは軽い健忘にかかっているので時間を戻されたことも覚えていない。
そのためピッチャーは何の疑いもなく、全く同じ球を投げてくる。
彼はそれを打てば良いのだ。
(前にも言ったように、彼自身は注意しているので、健忘になることはない。まあなったとしても、もう一度巻き戻せば良いだけだ)
そしてその後、彼は「ここ一番」に強い代打の切り札として活躍することになる。
彼はその「一振り」で、何度もお立ち台に立った。
彼はスタープレーヤーへの道を歩み始めていたのだった。
彼…墨レビンの彼だ。押さえのピッチャーの彼のことだ。
彼はその後、毎日グラブに魔法使いを忍ばせて球場入りしていた。
彼は押さえの大事な場面で登板していたのだ。
もちろん彼の「一発病」は相変わらずだった。
だけど彼には強い味方があった。
もちろんそれは例の魔法使いだ。
その魔法使いは、彼が登板するときはいつも彼のグラブの中の、彼の親指の爪のあたりにいることになっていた。
で、彼は今までどおりピッチングをやるのだが、彼が例によらて失投をやらかしたとき、彼はグラブの中の親指をひょいと動かす。
実はこれが合図になっていたのだ。
すると魔法使いは、すかさずバッターに金縛りの魔法を掛けるのだ。
で、「しめた!」と思ったバッターは、もちろん金縛りにあっているのだから、その絶好球に手が出ない。
まるで金縛りにでも掛かったかのように…
(掛かってるのだ!)
もう一つ。この金縛りには、「副作用」があったわけだ。
一瞬だが、軽い健忘になるのだ。
だからバッターは金縛りに掛かったという記憶がなくなってしまうのである。
だからどのバッターも、まさか彼がグラブに魔法使いを忍ばせて、金縛りの魔法を掛けているなどとは思いもしないわけだ。
(そんなこと、誰が考えるかい!)
また、試合中継の解説者も、
「いやあ絶好球なんて、案外手が出ないものですよ」なんてまあ、のんきなことを言っていたわけだ。
もちろんその後、彼は押さえの切り札として大活躍した。
それからしばらくしてのこと。
それはシーズンも押しつまった九月の末だった。
その日、試合の行なわれていた球場の駐車場には二台のカローラレビン、すなわち、「草レビン」と「墨レビン」が停めてあった。
試合は九回表。墨レビンの彼はマウンドにいた。
もちろん彼のグラブの中には、例の魔法使いが待機していた。
ツーアウトランナーニ塁。得点差はわずか一点。球場には「あと一人コール」が沸き起こっていた。
ここで代打に登場したのが草レビンの彼。
もちろん靴底型時間巻き戻し装置をスパイクに忍ばせて…
この夜、墨レビンの彼の投球は冴え渡った。
またたくまに草レビンの彼をツーストライクに追い込んだ。
ほどなく、球場には「あと一球コール」が響き始めた。
しかしここで墨レビンの彼は、いつものポカをやらかしたのだ。
で、棒球の、おあつらえむきの絶好球は、ホームベースへと向かった。
もちろんこのとき、墨レビンの彼はグラブの中の親指をくいっと動かし、したがって中の魔法使いは、草レビンの彼に金縛りの魔法を掛けた。
で、
「ストライク、バッターアウト!」という声に我に返った草レビンの彼は、もちろん、時間を巻き戻した。
この巻き戻しに際し、墨レビンの彼も魔法使いも、軽い健忘になっていた。
そういうわけで、それからややあって、墨レビンの彼はもう一度、絶好球を投げた…
と、その直後、しまったと思い草レビンの彼に金縛りの魔法を掛けた。
するとまたしても絶好球を見送った草レビンの彼は、金縛りの健忘のため、初めて絶好球が来たと思い、時間を巻き戻した。
その巻き戻しの健忘にかかった墨レビンの彼は、もう一度絶好球を投げた。
そして「しまった」と思い金縛りの魔法を…
そういうわけで、それから草レビンの彼の巻き戻し、絶好球と金縛り、そして巻き戻し、次に金縛り、そして巻き戻し、金縛り、巻き戻し、金縛り、巻き戻し………
そしてその夜、球場にはいつまでもいつまでも、エンドレステープのように、その「あと一球コール」が響いていた。
金縛りと巻き戻し 完 お粗末!