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アヴェレート王国シリーズ

ジュエリー店主ヴィオラ・スミスの矜持

作者: 黒井アン子

【ヴィオラ・スミスの断罪】


「ご令嬢に、お売りできる品物はございません。また、金輪際、この店の敷居を跨いでいただかずとも構いません」


 高級ジュエリー店『エテルニタ』の女店主、ヴィオラ・スミスは、声高らかに宣言した。店内の静寂を裂くようなその言葉は、伯爵令嬢アメリア・ハルディアンの耳に突き刺さった。店内の空気がピンと張り詰める。展示台には、美しい木枠に収められた一点物のジュエリーが、薄布の向こうで静かに輝いていた。それらはまるで息づいているようだったが、今この瞬間だけは、まるで冷たく凍りついたように感じられる。

「……何ですって?」

 アメリアは一瞬、耳を疑うように問い返した。しかしヴィオラは微動だにしない。その瞳には、ジュエリー職人としての強い意志と冷静な判断が宿っている。

「当店のジュエリーは、身につける方の品位を際立たせるために存在します。残念ですが、貴女にはふさわしくないと判断いたしました」

 その言葉にアメリアの表情がみるみる紅潮し、怒りがこみ上げてくる。

「ふさわしくない……ですって? この私が?」

 その声音には屈辱と苛立ちが滲んでいた。

「そうです」

 ヴィオラは毅然とした態度で答える。

「身分や地位ではなく、品位こそがこの店でジュエリーを選ぶ唯一の基準です。それを満たさないお客様には、お売りすることはできません」

 アメリアの眉が跳ね上がり、店内の緊張感がさらに高まる。

「……貴族に対してなんて無礼な――!」

 声を荒らげる彼女に対し、ヴィオラは一切たじろがない。逆にその冷静さが、アメリアの怒りをさらに煽る。

「無礼はどちらでしょうか」

 ヴィオラは静かに言葉を重ねる。その声は冷たくも凛とした響きを持っていた。

「貴女が身につけているジュエリーの一つひとつに込められた、職人の誇り、そして贈り主の誠意を踏み躙る言葉を、容認することはできません」


 時は数ヶ月前に遡る。


 アヴェレート王国の王都。その一等地に、高級ジュエリー店『エテルニタ』は店を構えていた。華やかな装飾品が並ぶ店内では、ジュエリーが選び手を待つように輝いている。この店が特別とされるのは、その経営方針にあった。

 通常、貴族向けの商売を行う商人は、取引契約を結ぶ貴族の邸宅に出向き、取引を行うのが常であった。だが、エテルニタはそれを否定した。

「取引する家に縛られず、この店で扱うジュエリーの真価を見抜けるお客様に間口を開く」

 そう掲げた経営方針は、王都の保守的な貴族たちを驚かせるものだった。しかし、時代の変化を敏感に察知する若い貴族たちは、この攻めの姿勢に喝采を送り、店の扉を叩いた。


 その象徴が、店舗奥に設けられたサロンブースだった。

 選ばれし者のみが通されるこの空間は、「今、王都で最も熱望されるサロン」として貴族たちの羨望の的となっていた。

 サロンに入る資格を持つ者は限られている。まずはジュエリー店を開業する際、資金提供を行ったスポンサーたち。宝石貿易の名家であるロシャール男爵家当主、社交界の花形であるマグノリア侯爵夫人など、錚々たるメンバーだ。

 そして、スポンサー以外では、ヴィオラ自身がその審美眼と品位を認めた数名の顧客のみだった。

 ここに入れること自体が、今や貴族たちにとって新しいステータスの一つとなっていた。


 寒さが混じり始めた秋。サロンの内部は、柔らかな光が溢れる心地よい空間だった。ヴィオラが選び抜いた高級なソファが並び、暖炉には美しい青い炎――煌石炭という、貴族に愛される暖炉用燃料による炎――が優しく揺らめき、薬草茶や紅茶がふるまわれる。飾り気がないながらも洗練されたその設えは、訪れる者を魅了する。

 その日、ヴィオラは一人の顧客と談笑していた。客の名は「マリー」。それが真の名でないことは明白だった。彼女は常にベールで顔を隠し、その素性を一切明かさない。しかし、その立ち居振る舞い、声の響きには隠しきれない気品が漂っていた。

「ヴィオラ、この前のペンダント、素晴らしかったわ」

 マリーは軽やかな声で話しながら、ふわりと笑みを浮かべる。その自然体の態度に、貴族らしい気品が混じる様子が、ヴィオラにはどこか新鮮だった。

「ありがとうございます、マリー様。お気に召したようで何よりです」

「それにしても、こんなデザインのネックレスがあったらいいのにって思うの。ほら、こういう感じで――」

 マリーは身振り手振りを交えながら話す。その内容に耳を傾けるうち、ヴィオラの職人魂が奮い立つのを感じた。

 それは、ヴィオラが考えもしなかったアイデアだった。斬新でありながら品位を備え、ジュエリーとしての価値を最大限に引き出す提案だった。

「さすがですね、マリー様。あなたの感性にはいつも驚かされます」

「おだてても何も出ないわよ」

 冗談めかして笑うマリーの姿を見ながら、ヴィオラは彼女への敬意を深める。このサロンに通う客の中でも、マリーの品位と感性は群を抜いていた。

 この特別な空間で、2人の会話は続いていく。その一つひとつが、ヴィオラにとって新たな発見であり、インスピレーションの源となっていた。


 サロンでのひとときを終え、マリーがベールを整えながら軽やかな足取りで店を後にした。その直後、エテルニタの扉が再び開かれる。

 入ってきたのは、男爵令息カイル・ロシャールだった。落ち着いた物腰ながらもどこか親しみを感じさせる笑顔を浮かべ、真っ直ぐヴィオラの元へと歩み寄る。

「ヴィオラ姉、こんにちは。相変わらず店の中は素晴らしいね」

「カイル、ようこそ。まったく、いつも感心してくれるけど、口先だけじゃないでしょうね?」

 ヴィオラが少しからかうように言うと、カイルは苦笑を浮かべた。

「そんなことないさ。僕が褒めるのは本心だよ」


 2人の関係は長い。ヴィオラがまだ父親の元で職人修行をしていた頃、宝石貿易の名家であるロシャール男爵家とは、家族ぐるみの付き合いをしていた。

 3歳年下のカイルは、職人の家に遊びに来るたび、工房で忙しそうにしているヴィオラの姿を眺めていたものだった。「姉」と呼ばれながら、彼女はカイルの面倒を見たり、逆に彼の無邪気な質問攻めに困らされたりした記憶がある。

 そんな彼も今では一人前の紳士らしく振る舞う年齢となり、エテルニタの取引先兼常連客として顔を見せるようになっていた。


「今日は相談があって来たんだ」

 カイルは真剣な表情で話を切り出す。

「実は……ジュエリーを贈りたい人がいるんだ。僕にとって、とても大切な相手なんだ」

 その言葉に、ヴィオラは思わず目を見開いた。

「贈りたい相手……?」

 驚きと共に、言葉を繰り返す。長い付き合いの中で、カイルがこんなに真摯な面持ちで「贈りたい相手」の話をするのを聞くのは初めてだった。

「相手は……アメリア・ハルディアン伯爵令嬢だよ」

 名前を告げるカイルの表情には、少し恥ずかしさが混じっている。それでも、彼の目は真っ直ぐにヴィオラを見据えていた。

「アメリアは、誰が見ても美しいし、気品もあって……。それに、彼女の話し方や立ち振る舞いには特別な魅力がある。僕なんかが相応しいのかどうかもわからないけど、それでも何か伝えたいんだ」

 カイルの語る言葉には、初恋のときめきと揺らぎが滲んでいる。それを聞いているうちに、ヴィオラの表情に自然と微笑みが浮かんだ。

「そう……。あのカイルにも、恋をする時期が来たというわけね」

 まるで弟が成長していくのを見守る姉のような心持ちで、ヴィオラは静かにうなずく。

「それで、どんなジュエリーが良いのか、相談に乗ってもらえるかな?」

 カイルは緊張した面持ちで尋ねた。その様子に、ヴィオラは真剣な目で頷く。

「もちろんよ。カイルの大切な相手にふさわしいものを、一緒に考えましょう」


 その後しばらくしてネックレスが完成し、ヴィオラは丁寧に包みを整えながら、カイルに差し出した。

「お待たせ、カイル。これがあなたのご注文の品よ」

 彼女が差し出したのは、繊細なデザインのルビーが輝くネックレスだった。大ぶりすぎず、しかし存在感のあるその一品は、ヴィオラの技術と審美眼が惜しみなく注がれたものだった。

 カイルは包みを受け取り、そっとそれを開ける。そしてネックレスを一目見るなり、感嘆の声を漏らした。

「さすがヴィオラ姉だ……こんなに素晴らしいものを作ってくれるなんて……!」

 その目は本当に感激しており、彼女への信頼と感謝が溢れている。

「気に入ってもらえたなら何よりよ」

 ヴィオラは微笑みながら、カイルの様子を見守る。

 カイルは大事そうにネックレスを抱え、再び礼を言ってから店を後にした。その背中を、ヴィオラはしばらくの間、応援するような気持ちで見つめていた。

「あの子が、初恋を叶える瞬間を見られるなんてね」

 小さく呟く彼女の胸には、複雑な感情が去来していた。それは姉のような立場としての誇らしさ、そして職人としてのやりがいだった。


 その翌週、カイルは再びエテルニタを訪れた。

「ヴィオラ姉、またお願いがあるんだ」

 彼は少し照れくさそうにしながらも、瞳は輝いている。

「このネックレスを彼女に渡したら、とても喜んでくれたんだ。それで……ネックレスに合うイヤリングも作ってあげたい」

「まあ、それは良かったわね」

 ヴィオラは微笑みながら頷き、すぐにカイルと相談を始めた。

 数日後、完成したイヤリングを彼に渡すと、カイルはまた感激の声を漏らし、ヴィオラの労を労った。


 しかしその翌週、カイルは再び店を訪れた。

「次はブレスレットを贈りたいんだ」

 カイルは以前と変わらない調子で頼んできたが、その言葉にヴィオラは思わず眉をひそめた。

「カイル、こんなに短期間で何度もプレゼントするなんて、少しやりすぎじゃないかしら?」

 控えめにそう問いかけながらも、ヴィオラの内心には小さな疑念が生まれていた。

 

 ――本当に彼の意思でこんなに贈り物をしているの? それとも、彼女に強請られているのではないかしら……?


 幼い頃から知っているカイルのことだ。素直で、優しい性格をしている彼なら、好きな相手の要求に応えようとして無理をしている可能性もある。

「甲斐性あるところを見せたいんだ。それが大切なんだよ」

 カイルは苦笑しながらも、きっぱりと言い返す。その言葉に嘘は感じられないが、ヴィオラの胸に湧いた不安は完全には拭い去れなかった。


 ――まるで贈り物をすればするほど、彼女に認められると信じているみたい……。


 それでも、カイルの熱意を信じることにし、ヴィオラはまたブレスレットを手掛けることにした。完成したブレスレットを彼に渡すと、カイルは満面の笑みで感謝を述べ、いつものように店を後にした。

 しかし、その背を見送るヴィオラの心には、どこか腑に落ちないものが残り続けていた。


 さらにその翌週、カイルは再び店を訪れた。今度は指輪を贈りたいという。

「指輪?」

 ヴィオラは驚きを隠せなかった。

「カイル、流石にこんなに頻繁にジュエリーを贈り続けるのは普通じゃないわ。少し考え直した方がいいんじゃない?」

 しかし、カイルは真剣な表情で答えた。

「これが最後なんだ。彼女に正式に婚約を申し込みたいんだ」

 その言葉に、ヴィオラは目を細める。彼の熱意は本物だった。

「……わかったわ」

 ヴィオラは深くうなずき、最後のジュエリーとして指輪を作る決意をした。それが完成したとき、彼女はそっとそれをカイルに手渡した。

「カイル、これで彼女がどれほど大切な存在か、十分伝わるわ」

「ありがとう、ヴィオラ姉」

 カイルは感謝の言葉を告げ、再び背中を見せて店を出ていく。その背を見送りながら、ヴィオラは心の奥に微かな不安を感じていた。

「彼が幸せになれますように」

 そう願いながらも、心の中の不安は、現実として迫りつつあった。


 それから1週間後のことだった。エテルニタの扉が開き、冬の冷たい空気と、柔らかな鈴の音と共に、1人の見目麗しいご令嬢が現れた。

 彼女は美しい茶髪を優雅にまとめ、上質なコートとドレスに身を包んでいた。その隙のない所作から、育ちの良さと気品が感じられる。入店するなり、彼女はヴィオラにカーテシーをし、丁寧に挨拶をした。

「はじめまして。アメリア・ハルディアンと申します」

 アメリアは、カイルが贈ったジュエリーを一式身につけていた。ネックレス、イヤリング、ブレスレット、そして指輪――どれもヴィオラが手掛けた作品だった。

 ヴィオラは彼女について既知ではあったが、それをおくびにも出さず、いつものように穏やかに対応した。

「ようこそ、エテルニタへ」


 アメリアは店内を見回しながら、一歩ずつゆっくりと歩を進める。その仕草はあまりにも優雅で、まるで社交界の舞踏会の一場面のようだった。

「なんて素敵なお店なのでしょう」

 彼女は展示台に飾られたジュエリーを見て、感嘆の声を上げる。その後もヴィオラに積極的に話しかけ、商品を次々と褒めた。

「本当に美しい品ばかりですわ。どれもが独創的で、身につける方の魅力をさらに引き立てるデザインですわね」

 その言葉は表面的には称賛だったが、ヴィオラの職人としての直感が警鐘を鳴らしていた。


 ――この人、私に媚びている……?


 アメリアの微笑みや言葉の端々から、ヴィオラを取り込もうとする意図が透けた。恐らくサロンへの招待が目的だろうか。そして、彼女がさらに言葉を続けたとき、ヴィオラの疑念は確信へと変わっていった。

「私、このエテルニタのジュエリーが大好きなんですの。愛しすぎて、とうとう一式揃えてしまったほどなんですわ」

 彼女は自慢げに身につけたジュエリーを見せつけるように笑う。それら全てがカイルが贈った品であることを知るヴィオラは、心の中に冷たいものを感じ始めていた。

「初来店でいらっしゃいますが、どのようにして入手されたのでしょうか。恋人からの贈り物とか?」

 ヴィオラは穏やかな声で尋ねた。その質問は自然で、決して敵意を含んでいるようには見えなかった。

 だが、その問いに対するアメリアの返答は、ヴィオラの中に確固たる不快感を呼び起こすものだった。

「恋人なんて、嫌ですわ」

 アメリアは愛嬌たっぷりに笑いながら答えた。

「あれは……そうね、執事に選んでもらいましたの」

 その無邪気なようでいて、カイルを完全に使用人扱いしている言葉。その瞬間、ヴィオラの心が扉を閉ざした。

「なるほど、そうでしたか」

 彼女は淡々とそう答えた。その瞳には冷徹な意志が宿っている。

 そして、店内の空気を裂くように、はっきりと言い放つ。


「ご令嬢に、お売りできる品物はございません。また、金輪際、この店の敷居を跨いでいただかずとも構いません」


【カイル・ロシャールの失恋】

 

 同時刻。カイルは、店舗奥の工房から店内の様子を伺っていた。

 もともと、カイルとヴィオラは新しい宝石の取引について話をする予定だった。加えて、アメリアとの煮え切らない関係についても、ヴィオラに少し聞いてほしいと思っていた。しかし急遽来客があったため、彼は奥の工房で待たされていた。

 工房は静かだったが、店頭から聞こえてくる声がその沈黙を破った。

「なんて素敵なお店なのでしょう」

 柔らかで上品な声。それがアメリアだと気づいた瞬間、カイルは自然と耳を澄ませていた。しかしアメリアの次の言葉が、カイルの胸を貫いた。

「恋人なんて、嫌ですわ。あれは……そうね、執事に選んでもらいましたの」

 一瞬、頭が真っ白になった。耳を疑った。それでも間違いなくそれは彼女の声だった。


 ――執事? 僕が、執事……?


 カイルは言葉の意味を理解しようとしたが、その全てが鋭く胸に刺さるばかりだった。自分が贈ったジュエリーの数々。それに込めた想い。その全てを彼女はただの贈り物として扱い、挙句の果てに彼を使用人のように語ったのだ。

 カイルの胸に、苦しみと失望が渦巻いた。


 ――あんなに喜んでくれたのは、何だったんだ? 本当に彼女は……僕を……?


 その思考が深まる中、続いて聞こえてきたヴィオラの声が、彼の心を引き戻した。


「ご令嬢に、お売りできる品物はございません。また、金輪際、この店の敷居を跨いでいただかずとも構いません」


 その言葉には、強い意志が込められていた。目の前にいるだろうアメリアだけでなく、カイルの目も覚ますような声だった。


「身分や地位ではなく、品位こそがこの店でジュエリーを選ぶ唯一の基準です。それを満たさないお客様には、お売りすることはできません」


 ヴィオラの言葉が続くたびに、カイルの胸の内を新たな感情が叩いてくる。それは怒りでも悲しみでもなく、ヴィオラの信念への敬意だった。


「貴女が身につけているジュエリーの一つひとつに込められた、職人の誇り、そして贈り主の誠意を踏み躙る言葉を、容認することはできません」


 カイルは、ヴィオラの言葉にじっと耳を傾けていた。自分では言えなかった想いを、彼女が力強く代弁してくれているのを感じたのだ。彼がジュエリーに込めた気持ちを、ヴィオラは誰よりも大切にし、守ろうとしてくれている。その毅然とした態度には厳しさがあったが、同時に彼への深い優しさも滲んでいた。

 胸の中で何かが変わっていくのを感じた。アメリアに利用されたと気づいた失恋の痛みを上回る、ヴィオラへの感謝と敬意が彼の心を満たしていく。


 ――ヴィオラ姉……ありがとう。


 工房の中で、カイルはそっと目を閉じ、ヴィオラの言葉の余韻に浸った。その声が、彼の傷ついた心を静かに包み込んでいた。


「ハルディアン伯爵家を敵に回したことを後悔することね!」

 アメリアは、怒りに燃える瞳でヴィオラを睨みつけた。その表情は、先ほどまで愛嬌を漂わせていた令嬢とはまるで別人だった。彼女はヴィオラの返答を待つことなく、勢いよく踵を返して店の扉を開け、外へ出ていった。

 扉が閉まる音が響き、店内に再び静寂が訪れる。

 そのとき、店舗奥の工房から足音が聞こえ、カイルが現れた。彼の顔には困惑と申し訳なさが滲んでいる。

「ヴィオラ姉……すべて聞いていたよ。本当に、申し訳ない」

 カイルは深く頭を下げた。その姿に、ヴィオラはわずかに目を細める。

「何を謝る必要があるの? あなたは何も悪くないわ」

 彼女の声は、冷静さの中に優しさを含んでいた。

「僕が……僕の判断が至らなかったせいで、こんなことに……」

 カイルの言葉に、ヴィオラは小さく息をついた。そして、彼の肩にそっと手を置く。

「気にすることじゃないわ、カイル。世の中、そういう人もいるのよ。それだけのことよ」

 軽くいなすような口調だったが、その目にはどこか複雑な色が宿っていた。

 カイルは顔を上げると、真剣な表情で口を開いた。

「でも、最後に彼女が家名を出したんだ……『ハルディアン伯爵家』って。それが、なんだか嫌な予感がして……もしかして、報復を考えているのかもしれない」

 その言葉に、ヴィオラは一瞬表情を曇らせた。だが、すぐに平静を装い、毅然とした声で言った。

「大丈夫よ、カイル。そんなことで潰されるほど、私もエテルニタも柔じゃないわ」

 ヴィオラの言葉には力強さがあったが、彼女の胸中には確かに小さな不安が芽生えていた。貴族に目を付けられることが、どれだけの重圧となるかは理解していた。

 そんなヴィオラの様子を見て、カイルは意を決したように口を開いた。

「もしも……もしも彼女がヴィオラ姉やエテルニタに手を出すようなことがあれば、僕もロシャール家の名に懸けて、ヴィオラ姉とエテルニタを守り抜くよ」

 その言葉は力強く、迷いのない響きを持っていた。カイルの瞳には、ヴィオラへの敬意と深い信頼が宿っていた。

 ヴィオラはその言葉を聞き、一瞬驚いたように目を見開いた。しかし、すぐにその表情を柔らかく崩し、安堵の微笑みを浮かべた。

「ありがとう、カイル。あなたのその言葉だけで、十分心強いわ」

 彼女の言葉は穏やかで、それ以上の感情を表に出さなかった。だが、その胸の内には、確かにカイルの頼もしさが刻まれていた。

 2人の間に、再び静寂が訪れる。その沈黙は先ほどまでの冷たさとは異なり、温かく信頼のこもったものだった。

 ヴィオラはふと視線を窓の外に向けた。暮れ始めた空が、薄暗い街並みを静かに包んでいる。その光景を見つめながら、彼女は心の中で決意を新たにしていた。

 

 ――エテルニタを、私の手で守り抜くわ。そして、職人としての誇りも、贈り主の想いも絶対に踏みにじらせはしない。


 一方で、カイルもまた内心で静かに決意を固めていた。自分の未熟さを痛感しながらも、それを超えてヴィオラにふさわしい存在になりたいという思いが芽生えていた。

 それぞれの胸に新たな決意を抱えながら、2人はその場を離れた。戦いの始まりを予感しつつも、互いに支え合う絆の強さを確信していた。


【アメリア・ハルディアンの蛮行】

 

 数日後。冬の寒風が人々の肌を掠める頃、カイルは王都の公園内でアメリアと対峙していた。カイルの手には、ヴィオラが精魂込めて作り上げたジュエリーの数々が収められたケースが握られていた。しかし、その中身を見るたびに、彼の胸に沸き立つ感情は、怒りと悲しみだった。

「これ、どういうつもりなの?」

 アメリアは冷たい声で言い放った。彼女の手元にあるのは、輝きを失い、破損してしまったジュエリーたちだった。

「こんな不良品を渡してくるなんて、あなたもエテルニタもいい加減なものね」

 アメリアが高らかな声を上げたことにより、周囲にいた貴族たちが何事かと顔を向けてくる。彼女の狙いが、エテルニタの悪評流布にあることは明らかだった。

 その言葉に、カイルの怒りは頂点に達した。これがヴィオラの手掛けたジュエリーであることは間違いない。しかし、それがこんな状態になるなどあり得ないことだ。彼女が意図的に破損させたのではないか――そう考えずにはいられなかった。

「アメリア、本当にこんな状態で受け取ったと言うのか?」

 カイルの声には明らかな怒りが込められていた。アメリアは表情を崩さず、肩をすくめるだけだった。

「ええ、そうよ。不良品だったとしか思えないわ」

「……そうか」

 カイルは一度深く息をつき、冷静さを取り戻そうと努めた。そして、はっきりとアメリアを見据えながら言った。彼はあえて周囲に聞こえるよう、声を上げた。

「1週間後、このジュエリーに何が起きたのか証明してみせる。ここで、同じ時間に、だ」

「証明? 何を言っているの?」

 アメリアは笑みを浮かべ、彼を嘲笑するような態度を取った。しかし、カイルは怯まなかった。

「ヴィオラ姉が作ったものが、不良品であるはずがない。これが証明できれば、それ以上君を許すつもりはない。もし君が来週ここに来なければ、君は自身の弁明の機会を逸することになる」

 その言葉に、公園に居合わせた貴族たちがざわめき始めた。周囲にいた人々は、この2人のやり取りを聞き、噂を広める準備を整えていた。カイルはその視線を感じながらも、毅然とした態度を崩さなかった。


 更に数日後、エテルニタのサロンでは、冬の柔らかな陽光が差し込む中、ヴィオラがマリーと談笑していた。

「ねえヴィオラ、噂を聞いたのだけど。あなた、変なことに巻き込まれているんじゃない?」

 マリーはいつものようにベール越しに微笑みながら言った。その声には親しみと心配の両方が感じられた。

「少し厄介ごとに巻き込まれていますが、大丈夫です。私はこんなことに屈しませんし、心強い味方もいます」

 ヴィオラは微笑みながら答えた。言葉に揺るぎはなく、その姿勢はジュエリー職人としての誇りそのものだった。

「さすがね。それなら安心できるというもの」

 マリーは軽く笑みを浮かべると、席を立ち、ヴィオラに別れを告げた。

「陰ながら見守っているわ。頑張ってね」

「ありがとうございます、マリー様。またお会いできる日を楽しみにしています」


 マリーが店を去ると、サロンには再び静寂が訪れた。ヴィオラは片付けを済ませると、工房へと足を向けた。

 工房の中は、ヴィオラが整えた機能的な空間が広がっていた。彼女は修復中のジュエリーに目をやると、そっと手を伸ばし、細やかな作業を再開した。その手元には、彼女が培ってきた技術と誇りが込められている。

「さて、仕上げてしまいましょう」

 彼女の声は静かで、しかし力強かった。その瞳には職人としての揺るぎない意志が宿っている。

 ジュエリーを磨き、細部を整えながら、ヴィオラは一瞬だけ思いを巡らせた。


 ――この仕事を選んで、本当に良かった。


 彼女は微笑みを浮かべると、再び集中を取り戻した。どんな困難が訪れようとも、自分を支えてくれる人々がいる――その確信が、彼女の心を強くしていた。


 約束の1週間後。王都の公園は、貴族たちのさざめきで溢れていた。広場の中央には、カイル・ロシャールとヴィオラ・スミス、そして対峙するアメリア・ハルディアンの姿があった。

 カイルの手には、一つのブレスレットが収められたケースが握られていた。それは、ヴィオラが手掛けたジュエリーの中の一つであり、アメリアが返却してきたものでもあった。

「さあ、カイル様」

 アメリアは冷たい笑みを浮かべ、挑発するように問いかけた。

「あなたが証明したいと言うその真実を、見せていただけるのかしら?」

 その言葉に、周囲の貴族たちは興味津々といった様子で視線を注ぐ。彼らの好奇心と噂好きの性分が、この場にさらなる緊張感を与えていた。

「もちろんだ」

 カイルは力強く答え、ブレスレットを収めたケースを開けた。その中に収められたブレスレットは、酸化により黒ずみ、傷だらけの状態だった。彼はそれをそっと取り出し、周囲に見えるよう高く掲げた。

「これが、アメリア様が返却してきたブレスレットです」

 彼の声は広場全体に響き渡る。その場にいる貴族たちの目が、一斉にそのブレスレットに注がれた。

「皆様、このジュエリーをご覧ください」

 カイルはブレスレットを手に取りながら続けた。

「これは高温の環境にさらされていたことが分かります。シルバー部分は急激な酸化により黒ずみ、また熱による膨張と収縮が原因で、この傷が生じています」

 彼は指で傷をなぞり、観客たちに見えるように差し出した。

「これは自然に起こる現象ではありません。つまり、このジュエリーは意図的に高温の炎に投げ込まれたのです、恐らく暖炉の中へ」

 その言葉に、集まった貴族たちの間からどよめきが起こった。

「暖炉だと……?」

「そんなことをするなんて……?」

 カイルは観客たちのざわめきを背に、アメリアをじっと見据えた。

「アメリア様、このジュエリーを暖炉に投げ込んだのは、あなたではありませんか?」

 アメリアの顔色が一瞬曇ったが、すぐに平然を装った。彼女は鼻で笑い、肩をすくめる。

「証拠もないのに私を責めるのね。面白いわ」

 その挑発に、カイルは怯むことなくきっぱりと言い放った。

「証拠はここにあります。この暖炉に使われた燃料――煌石炭の痕跡が、ブレスレットに残されているのです」

 その言葉に、貴族たちの間で再びどよめきが起きた。煌石炭とは、銅の成分を含む特殊な石炭で、燃やすと青い炎を上げることから高貴な象徴として愛用されている燃料だった。上流階級の邸宅では暖炉用の燃料として人気があり、その独特な燃焼が生み出す色彩が、彼らの生活に欠かせないものであった。

 カイルは手にしたブレスレットを観客たちに向けて掲げた。

「煌石炭が燃えるとき、炎に含まれる銅成分が特有の微細な粒子を放出します。このブレスレットには、それが付着している痕跡が残っています。つまり、このジュエリーは煌石炭を燃料にした暖炉に投げ込まれたのです。これ以上の証拠はありません」

 会場全体が息を呑む静寂に包まれる中、カイルはさらに続けた。

「そして、煌石炭は貴族たちの間でしか使用されない高価な燃料。これが何を意味するか、皆様にはもうお分かりでしょう」

 その場にいた貴族たちの視線が、一斉にアメリアに向けられた。彼女の顔は青ざめ、口元が震えている。


 その時、ヴィオラが静かに一歩前に進み出た。彼女の手には、美しく輝くジュエリーが収められたケースがあった。

「ここに、もう一つの真実があります」

 ヴィオラは穏やかでありながらも、どこか凛とした声で語り始めた。彼女はゆっくりとケースを開き、中に収められたネックレス、イヤリング、指輪を取り出した。

 その瞬間、周囲の貴族たちは息を飲んだ。美しい輝きを放つジュエリーたち――それは、アメリアが返却してきたジュエリーと全く同じデザインのものだった。

「これは、アメリア様が破損させたジュエリーを修復したものです」

 ヴィオラは静かに語りながら、手元のジュエリーを一つずつ高く掲げた。

「どれもセットの一点物であり、加工の特徴から見ても、アメリア様がお持ちになった品と同じものだと明確に分かります」

 ヴィオラは一瞬だけ言葉を止め、周囲を見渡した。そして、アメリアに視線を向けながら続ける。

「このように修復が可能である以上、元々のジュエリーが不良品だったという主張は全くの根拠を持ちません。そして、ジュエリーを傷つけたのが誰であるか――それを想像するのは、難しいことではないでしょう」

 ヴィオラの言葉とともに、周囲の視線がアメリアに集中した。彼女の顔には平静を装う表情があったものの、その瞳には動揺が隠しきれなかった。

「……言いがかりだわ!」

 アメリアは声を上げたが、その場にいる誰も彼女の言葉に耳を貸さなかった。

 カイルは静かに言葉を紡ぐ。

「この場にいる全ての人々の前で、ヴィオラ姉の名誉を守らせていただきます。そしてアメリア様、このジュエリーに込めた想いを、どうか踏みにじらないでいただきたい」

 その言葉に、アメリアは言葉を失い、その場を足早に去っていった。


 騒動が収まり、貴族たちが次々と去った後、ヴィオラはカイルの肩にそっと手を置いた。

「ありがとう、カイル」

 その言葉に、カイルは少し照れたように微笑む。

「いや、ヴィオラ姉がいなければ、僕一人では何もできなかったよ」

 ヴィオラは軽く首を振り、柔らかな笑みを浮かべた。

「いいえ、あなたの信念があったからこそ、私も全力を尽くせたのよ」

 2人の間に、静かな信頼の空気が流れる。そして、ヴィオラはそっと呟いた。

「あなたのおかげで、私もエテルニタも守られたわ」

 夕陽に染まる公園を背に、2人は静かにその場を後にした――エテルニタの名声と、2人の絆をさらに深めながら。


【高級ジュエリー店エテルニタの安穏】


 エテルニタのサロン。上品な調度品が並び、窓から差し込む陽光がその洗練された空間を照らしていた。招かれたカイルは少し緊張した様子で、サロンの奥に座るヴィオラを見つめていた。

「ようこそ、カイル」

 ヴィオラは柔らかな笑みを浮かべて、彼を迎え入れた。

「ここに招待してもらえるなんて、思ってもみなかったよ」

 カイルは少し戸惑いながら椅子に腰を下ろし、落ち着かない様子で言った。

「これまであなたをここに招待しなかったのは、理由があるの」

 ヴィオラはカイルをじっと見つめ、まっすぐな声で続けた。

「エテルニタのサロンは、エテルニタのジュエリーの真価を理解してくれる人にのみ開かれる特別な空間。今のあなたなら、この場所にふさわしい」

 その言葉に、カイルの胸はじんわりと熱くなった。ヴィオラが認めてくれたことが、彼にとって何よりの誇りだった。

「ありがとう、ヴィオラ姉……本当に嬉しいよ」

 彼は少し照れたように言い、視線を落とした。だが、その顔には明らかな喜びが浮かんでいた。

「あなたが自分の信念を貫き、エテルニタの誇りを守ってくれたこと。私は本当に感謝しているわ。そして、あなた自身の宝石に対する審美眼も広く認められるようになった。それは、あなたが築き上げたものよ」

 ヴィオラの言葉は、どこまでも温かく、しかし芯の通った響きを持っていた。カイルはその言葉を胸に刻むように頷き、深く息をついた。


 後日。サロンに薬草茶の高貴な香りが漂う中、カイルとヴィオラが談笑する。ヴィオラはカップを片手に持ちながら、カイルを軽くからかうような笑みを浮かべていた。

「で? カイル、その話のオチはどこなの?」

 彼女の問いに、カイルは少し拗ねたように眉を寄せる。

「だから、ちゃんと笑うところだったんだってば! なんでヴィオラ姉には伝わらないんだろうなあ」

「たぶん、あなたの語りが下手だからじゃない?」

 ヴィオラはさらりと言い放ち、カップを置く。その仕草の優雅さに、カイルは一瞬だけ目を奪われたが、すぐに慌てて顔をそらす。最近、ふとした瞬間に、カイルはヴィオラに見惚れることが増えていた。

「いやいや、僕の話術のせいじゃないと思うけどな……」

「そうね。もしかしたら、私の感性が鈍いのかもしれないわ」

 ヴィオラが肩をすくめると、カイルはふっと笑い出す。

「それはないよ。ヴィオラ姉の感性は世界一だって、僕が保証する」

「……ずいぶん大袈裟ね」

 彼女は少しだけ頬を紅潮させながら、視線をそらす。だが、その顔には微かな微笑みが浮かんでいた。

 2人の間に、ふと静かな空気が流れる。その空気に、カイルはどこか落ち着かないように手元のカップをいじり始めた。一方で、ヴィオラはそんな彼の様子をちらりと見つめながらも、何も言わなかった。

 その時、サロンのカーテンが軽やかに開いた。

「あら、私、タイミングを間違えたかしら?」

 聞き覚えのある声に、2人は同時に振り向いた。そこに立っていたのはマリーだった。彼女はいつものようにベール越しに微笑みを浮かべながら、2人を交互に見ていた。

「マ、マリー嬢!」

 カイルは突然の登場に驚き、慌てて立ち上がる。その姿に、マリーはくすくすと笑みを漏らした。

「まあまあ、そんなに慌てなくてもいいのに。何か面白い話でもしていたの?」

「いえ、大したことではありませんわ」

 ヴィオラが咳払いをしてさらりと答える。その横顔には、いつもの冷静さが戻っていた。

 マリーはそんな2人の様子を興味深げに見ながら、席に着いた。

「そう。それなら私も混ぜていただいてもいいかしら?」

「もちろん」

 ヴィオラがすぐに紅茶の用意をし始める。カイルはというと、どこかぎこちない動きでマリーの前に菓子を差し出した。

「ありがとう、カイル。気が利くのね」

 マリーが軽やかに言うと、カイルは少し恥ずかしそうに笑った。

 ティータイムが始まると、三人の会話は自然と和やかなものになっていった。マリーが最近の噂話を話題にすると、カイルがそれに対して真面目な意見を述べ、ヴィオラが辛辣な一言で締める。その軽妙なやり取りに、マリーは楽しげに笑い続けた。


【アメリア・ハルディアンの暗躍】


 同じ頃、ハルディアン伯爵家の広々としたサロンには、重厚なカーテンから漏れる薄暗い光と、柔らかな椅子に沈む人物たちの影が揺れていた。その中心には、アメリア・ハルディアンが高慢な微笑を浮かべ、ゆったりと腰掛けている。

「エテルニタのような商売を放置しておけば、貴族社会そのものが堕落してしまいますわ」

 アメリアの声には確信があった。彼女の前に座るのは、王都市場の管理権限を握る侯爵、オルトン侯爵だった。彼は太い指で頬を撫でながら、低い声で言葉を返す。

「確かに。市場へ費用を納めるべき商人が店舗形式などという新しい形態を持ち出し、我々をないがしろにするようでは問題だ。品位という名目で顧客を選ぶ商売が、貴族社会を乱すのも看過できん」

 その言葉に、アメリアは優雅にうなずきながら、唇を緩める。

「そうですわ。エテルニタの店主、ヴィオラ・スミスは自分の審美眼が貴族以上のものだとでも思っているのでしょう。とんだ思い上がりですわね」

 侯爵は椅子に深く沈み込み、考えるように視線を泳がせた。その様子を見たアメリアは、さらに畳みかける。

「オルトン侯爵閣下、エテルニタを貴族社会における重大な問題として提起するべきですわ。貴族を選定するような営業方針が許されるとすれば、どれほどの混乱が生じることか……。あの店の存在は、すべての市場を支配する貴族の権威を揺るがす危険がありますもの」

 侯爵はしばらく黙っていたが、やがて深いため息と共に言葉を口にした。

「……確かに。あの店舗形式では市場への費用も納められていない。商人でありながら貴族を選別するような行いも見過ごせない。いいだろう、我々が動く」

 その瞬間、アメリアの目が満足げに細められた。彼女は侯爵の同意を得たことで、自分の勝利を確信したのだ。


 一方、王都の別の一角では、エテルニタの筆頭スポンサーであるマグノリア侯爵家のサロンが静かな騒然さを帯びていた。ロザリンド・マグノリア侯爵夫人は、優雅に紅茶を啜りながら、集まった貴族たちを見渡していた。

「つまり、こういうことですわ。品位を試されると都合の悪い方々が、エテルニタに難癖をつけているだけの話ではありませんこと?」

 その辛辣な言葉に、集まった貴族たちは笑い声を漏らした。ロザリンドは、わざとらしい微笑を浮かべながら話を続ける。

「『貴族を選定する不埒な営業方針』ですって? その基準を超えられないと自覚している方が声を大きくしているようにしか思えませんの。品位を試されて怒るのは、品位に自信がない証拠ではなくて?」

 その言葉に賛同する声が上がる一方で、沈黙を守る者も少なくなかった。特に保守派の貴族たちの中には、オルトン侯爵の影響力を恐れ、ロザリンドの意見に対して遠巻きの態度を取る者もいた。

 ロザリンドは内心で舌打ちした。これ以上の議論を続けても、結論には至らないだろうと悟ったからだ。その時、マグノリア侯爵家の執事がそっと近づき、耳打ちをした。

「オルトン侯爵様が、エテルニタの営業停止を推進する方向で動かれております」

 ロザリンドは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「……そうですの。ならば今は静観が賢明ですわね」


 後日のエテルニタのサロン。カイルとヴィオラは、緊張した面持ちで向かい合っていた。

「……営業停止?」

 カイルが問い返す声には、驚きと困惑が入り混じっていた。一方、ヴィオラは冷静な表情を保ちながら、カップを置いた。

「そう。市場管理権を持つオルトン侯爵が動いた以上、反発すれば事態が悪化するだけ。今は彼らを刺激しない方がいいと、マグノリア侯爵夫人からも助言をいただいたわ」

「でも、それじゃあ……」

 カイルが言いかけると、ヴィオラは優しく彼の言葉を遮った。

「大丈夫よ、カイル。私はこんなことで負けたりしない。エテルニタは、私たちの努力と誇りで築き上げたもの。必ず取り戻してみせるわ」

 その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。だが、2人の胸には、貴族社会の複雑さと困難の予感が重くのしかかっていた。


【ヴィオラとカイルの共闘】


 後日、カイルの手引きにより、ヴィオラは貴族たちを訪ね歩いていた。公園での一件以来、宝石貿易の名家の子息として名声を高めたカイルは、貴族社会に様々な人脈を築くことに成功していた。その人脈の中で、今回の問題に対して中立的立場を取る貴族たちのもとを、ヴィオラとともに訪れていた。ヴィオラは、エテルニタの名誉を守るため、そして何より、自身の経営方針の誇りを信じ、自らの口で貴族たちに真意を伝えようとしていた。

 しかし貴族社会は一筋縄ではいかない。相手に届くのは慎重に選んだ言葉ばかりであり、その奥に込めた熱意や覚悟を理解されるには時間がかかる。ヴィオラは分かってはいたものの、目の前の現実に歯がゆさを覚えずにはいられなかった。


 とある侯爵家の応接間。豪奢な装飾が施された空間の中、ヴィオラは緊張しながらも言葉を紡いだ。

「エテルニタは、貴族を選別するために営業しているのではありません。私たちが目指しているのは、ジュエリーを通じて人々の品位を保証し、貴族社会の誇りを守ることです」

 侯爵家当主は頷きながらも、どこか距離を置いた視線を向けてきた。その様子に、ヴィオラは言葉を続けるべきか迷う。

「ですが……」

 彼女が言葉に詰まった瞬間、隣に立つカイルが一歩前に出た。

「侯爵閣下、彼女の言葉には嘘偽りがありません。僕が保証します」

 その声には強い自信があった。貴族の子息としての落ち着いた佇まいが、場の空気を変える。

「私自身、宝石貿易に携わる家に生まれました。ヴィオラの経営方針は、長年この業界にいる僕から見ても、革新的であり、そして真っ当なものです。彼女のジュエリーに込められた誇りを否定することは、この国の工芸品全体を否定することにつながるでしょう」

 侯爵の目が少しだけ和らぎ、カイルの言葉に耳を傾けているのが分かった。ヴィオラはそんなカイルの頼もしさに安堵しつつも、彼の背中を心強く感じていた。


 応接間を出た後、ヴィオラはカイルに静かに礼を言った。

「ありがとう、カイル。あなたがいなかったら、きっとあの場を乗り切れなかった」

 カイルは軽く肩をすくめ、穏やかな笑みを浮かべた。

「僕はただ、ヴィオラ姉の言葉が届くように手伝っただけだよ。本当に伝えたいことは、君自身が言ったことだ」

 その言葉に、ヴィオラの胸がじんわりと温かくなった。


 しかし、訪れた貴族たちの多くは、こうした説明に感銘を受けつつも、一歩を踏み出すことを渋った。

「君の情熱は理解する。だが、オルトン侯爵家とハルディアン伯爵家が組んでる以上、正面から対立するのは得策ではない。どうか分かってくれ」

 そんな言葉に、カイルは唇を噛みしめ、ヴィオラはただ静かに頷いた。彼らの努力は確実に伝わっているものの、貴族社会全体を動かすには時間がかかる。その現実が、2人の心に重くのしかかった。


【マリーの招待】


 サロンに戻ると、ヴィオラは深く息をつき、ソファに腰を下ろした。その顔には疲労の色が濃く、いつも自信に満ちた彼女の姿は少し影を潜めていた。

 カイルはそんな彼女の前に薬草茶を差し出すと、静かに言った。

「今日は大変だったね。でも、ヴィオラ姉は正しいことをしている、僕が保証する」

 その声は穏やかで、どこか優しく包み込むようだった。ヴィオラはカップを受け取り、彼の言葉をじっと聞いた。

「ヴィオラ姉がやっていることは、ただの経営じゃない。君のジュエリーには、職人としての誇りが宿っている。それが分かる人は絶対にいるよ」

 カイルの言葉に、ヴィオラは思わず目を細めた。彼の真っ直ぐな視線が、彼女の心をじんわりと溶かしていくようだった。

「……ありがとう、カイル。本当に、あなたがいてくれて良かった」

 その一言に、カイルは少し照れくさそうに笑った。


 そんなサロンの静寂を破ったのは、カーテンが軽やかに開く音だった。

「あら、またタイミングを間違ったかしら?」

 聞き覚えのある声が響き、ヴィオラとカイルが同時に振り向く。そこには、いつものようにベール越しに微笑みを浮かべたマリーが立っていた。彼女は2人の様子を見て、くすくすと笑い声を漏らした。

「何やら大変そうね。お邪魔だったかしら?」

 軽やかな口調でそう言いながら、マリーはその場に歩み寄る。その立ち振る舞いには、どこか場の空気を一変させるような気品と余裕が漂っていた。

「いえ、そんなことはありません。どうぞお掛けください」

 ヴィオラは慌てて応じ、手早くティーカップを用意し始める。カイルはややぎこちない動きで菓子を差し出し、マリーの前に置いた。

「ありがとう、カイル。相変わらず気が利くわね」

 その言葉に、カイルは少し照れくさそうに笑みを浮かべる。マリーはそんな彼の様子を見て、ますます興味深げな表情を見せた。


 マリーは薬草茶を口にした後、そっと手元から一通の封書を取り出した。封蝋には、見間違えようのない王家の紋章が刻まれている。

「これを、あなたに」

 マリーはヴィオラに封書を差し出した。ヴィオラは驚きつつも、それを受け取る。緊張した面持ちで封蝋を割り、中の手紙に目を走らせた。

「……『王国工芸品特別展示会』への招待状?」

 ヴィオラは手紙に記された文字を読み上げた。そこには、王城で行われる工芸品展示会への出展が求められている旨が丁寧に記されていた。

「そう。王家主催の特別な展示会ですって。格式ある工芸品を広く知ってもらうための場だそうよ。ぜひ、エテルニタとして出展してちょうだい」

 マリーは軽やかにそう言い放つ。その様子は、まるで特別な秘密を共有しているような親しみさえ感じさせた。

「でも……なぜエテルニタのような小さな店が?」

 ヴィオラは驚きと疑念を隠せなかった。この店が王家の目に留まる理由など思い当たらない。そんな彼女に、カイルも首を傾げる。

「王国工芸品特別展示会……聞いたことがあるよ。でも、それは王家直々の招待がなければ参加どころか、会場にも入れない格式高い展示会だ。僕たち男爵家には縁遠い場所だよ」

 彼の言葉に、マリーは明るい声を崩さないまま答えた。

「もちろん、カイルも来ていただけるわ。あなたのような宝石貿易の専門家が来場することで、この展示会がさらに意義深いものになるでしょうね」

 そう言うと、マリーはゆっくりと席を立った。

「では、これで失礼するわ。大変だと思うけれど、楽しみにしているわよ」

 彼女は軽やかな足取りでサロンを後にした。去り際の振る舞いすらも、どこか意味深長で謎めいている。


 ヴィオラとカイルは静かに顔を見合わせた。残された招待状を見つめながら、2人の心中には新たな疑念が浮かんでいた。

「……彼女、ただの貴族ではないわね」

 ヴィオラがぽつりと呟くと、カイルもうなずく。

「もしかして、王家に関係のある人なのかもしれない……」

 しかし、2人とも確信には至らなかった。ただ、その可能性がゼロではないという認識だけが、重く胸に残った。

 それでも、ヴィオラは招待状をしっかりと握りしめ、静かに口を開いた。

「……この展示会に参加すれば、状況が変わるかもしれないわ」

 その言葉には、職人としての決意と期待が込められていた。カイルも深く頷き、彼女を見つめる。

「僕も手伝うよ。ヴィオラ姉の作品が王城で認められるように、全力を尽くそう」

 その言葉に、ヴィオラはわずかに微笑んだ。王国の格式ある展示会に出展するという挑戦が、2人に新たな希望と覚悟をもたらした瞬間だった。


【ヴィオラとカイルの共闘再び】


 王国工芸品特別展示会の当日。王城の広間に一歩足を踏み入れると、ヴィオラとカイルはその壮麗さに思わず息を呑んだ。広々とした空間には、豪華なシャンデリアが輝き、壁一面には王家の紋章をあしらったタペストリーが飾られている。重厚な雰囲気の中、会場を埋め尽くすように並ぶブースには、王国中から選ばれた工芸品が並べられていた。

 陶器、絨毯、彫刻――どれもが名匠たちの手による作品であり、一点一点に伝統と誇りが込められている。来場者たちは貴族や商人、そして工芸品愛好家たちで、華やかな衣装をまとった彼らの会話が絶え間なく続いている。まるで社交界の舞踏会のような光景だった。

 ヴィオラは、エテルニタのブースの前に立つと深呼吸を一つし、緊張を抑えるように自分に言い聞かせた。隣にはカイルが立ち、彼もまた緊張した面持ちで会場を見渡している。

「思っていた以上に格式の高い場だね……」

 カイルが小声で呟く。その言葉に、ヴィオラも頷きながら返した。

「ええ。でも、だからこそ、この場で私たちのジュエリーを見てもらう価値があるわ」

 その声には決意が込められていた。


 エテルニタのブースには、これまでヴィオラが手掛けた代表作と、この展示会のために準備した新作ジュエリーが並べられていた。一つひとつが、宝石の美しさとヴィオラの技術を余すところなく引き出した逸品だ。台座に置かれたジュエリーは柔らかな照明を浴びて、まるで生きているかのように輝いている。

 会場を歩いていた来場者たちが、自然とエテルニタのブースに足を止め始めた。他のブースが伝統的な工芸品である中、ジュエリーの華やかさはひときわ目を引いた。

「なんて美しいジュエリー……」

「このカット、ただ者ではないな」

「エテルニタ……確か貴族を選ぶ店だと聞いていたが……」

 人々の間からささやき声が漏れ聞こえる。その中には、エテルニタの経営方針を揶揄するような声もあったが、展示されたジュエリーの美しさを前にして、否定的な意見を口にする者は少なかった。


 カイルは、宝石貿易の専門家としての立場から、来場者たちに丁寧に説明を始めた。彼の目の前には、大粒のロイヤルサファイア――サファイアの中でも最上品質のもの――を中心に据えたネックレスがあった。光を受けて青い輝きを放つその石は、見る者を惹きつけて離さない。

「このロイヤルサファイアのカットをご覧ください。この輝きは、光の反射を最大限に活かすカット技術によるものです。ヴィオラ姉――エテルニタの店主は、宝石の特性を見極め、一つひとつに最適なカットを施しているんです」

 カイルの説明に、貴族たちは興味深そうに耳を傾けた。その場の空気が少しずつ和らぎ、ヴィオラもほっとした表情を見せる。

「素晴らしい技術ですね」

 一人の貴族が感嘆の声を漏らすと、他の来場者たちも頷きながら展示品をじっくりと観察し始めた。カイルはその勢いを逃さず、さらに説明を続ける。

「エテルニタのジュエリーは、美しさだけでなく、身につける方の品位を際立たせるデザインにもこだわっています。例えばこちらのブレスレットは、石の配置が計算されていて、どんな角度から見ても上品な印象を与えるんです」

 カイルの言葉に、来場者たちの視線が自然とブレスレットに集まる。その輝きとデザインに、誰もが魅了されていた。

 ヴィオラは、そのカイルの姿を横目で見ながら、彼の成長を実感していた。かつてはただ「ジュエリーが好きな少年」だったカイルが、今では堂々とした態度で貴族たちに説明をする姿を見て、心の中で感謝と誇らしさを感じていた。

 ブースを閲覧する人の数は次第に増え、エテルニタの展示品が会場の注目を集める存在となりつつあった。その様子を見ながら、ヴィオラは心の中で静かに決意を新たにした。


 ――この場で、私たちの存在を証明してみせるわ。エテルニタの名を、この王国に刻み込むために。


【マルガリータ・アヴェレートの裁定】


 その時、広間に高らかな声があげられた。

「マルガリータ王女陛下のご入場です。皆様、どうぞご注目ください」

 会場内のざわめきが、突然ぴたりと止んだ。人々の視線が一斉に入り口の方へ向かう。その視線を集める中、現れたのは一人の女性だった。彼女は黒みを帯びた茶色の髪を美しくまとめ上げ、青みがかった黒目が静かに輝いている。その姿は、ただそこに立っているだけで空気を支配し、広間の全員の心を奪うほどの存在感を放っていた。

 ヴィオラとカイルもまた、彼女の登場に釘付けになっていた。その立ち居振る舞い、溢れ出る気品――それは紛れもなく、彼らがよく知る人物だった。

「……マリー?」

 しかし、ヴィオラとカイルは、その名が正しくないことを既に悟っていた。彼女こそ、王女マルガリータ・アヴェレートその人だったのだ。

 これまでベールで顔を隠していたときですら、漂う気品と洗練された物腰に特別な何かを感じていた。しかし、今、彼女はその素顔をあらわにし、王女としての威厳と美しさを惜しみなく広間に示し、君臨していた。


「なんてことだ……あの方が、王女陛下……」

 カイルが低く呟いた。驚きと感嘆が入り混じった声だった。

 ヴィオラは唇を結び、目の前の光景を凝視していた。ふと気づけば、マルガリータ王女の首元には、エテルニタのジュエリーが輝いていた。かつて彼女が「マリー」としてサロンを訪れたときに手に取ったものである。

 マルガリータ王女は、会場をゆっくりと進み、広間中央に設けられた壇上へと歩み寄った。その一挙手一投足が優雅で、貴族たちも商人たちも、その動きを見守るほかなかった。やがて彼女は壇上に立ち、柔らかな笑みを浮かべながら、静かに会場を見渡した。

「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

 その声は穏やかでありながら、どこか力強さを感じさせるものだった。広間にいた全員が息を呑み、その言葉に耳を傾ける。

「王国工芸品特別展示会は、この国が誇る文化と技術を広く知っていただくための場です。私たちの工芸品には、職人たちの魂と歴史が刻まれています。その真価を認め、共に未来へと紡いでいくことが、この展示会の意義です」

 彼女の言葉は優雅でありながら、確固たる意志を秘めていた。周囲からは感嘆のため息が漏れる。

 そして彼女は一呼吸置き、視線を少しだけ落とすと、再び顔を上げて言葉を続けた。

「本日は、ここに集まった皆様に特別なお知らせがあります」

 その前置きに、会場の空気が緊張感を帯びる。


「このたび、エテルニタというジュエリー店を、王家御用達として認めることを、ここに宣言いたします」


 その瞬間、広間がざわめきに包まれた。

「王家御用達……だと?」

「エテルニタが、王家から認められたというのか……」

 困惑と驚き、そして尊敬の声が入り混じる中、王女はさらに続けた。

「エテルニタの経営方針は、ジュエリーを身につける人の品位を守るためのものであり、決して貴族を選別するものではありません。それは、私自身が身につけているこのジュエリーが証明しています」

 そう言いながら、彼女は首元のジュエリーをそっと指先で触れた。その仕草は、エテルニタの作品に対する揺るぎない信頼と愛情を示しているようだった。

「これからも、エテルニタがこの国の文化と誇りを象徴し、発展させていくことを、私は強く信じています。そして皆様にも、その真価を認めていただけるよう願っております」


 王家の名のもとに下されたこの宣言に、誰一人として反論の余地を持つことは許されなかった。それは、この国における最高の権威が、エテルニタとその理念を完全に承認した瞬間であり、もはや貴族たちが口を挟む余地はなかった。

 彼女の言葉が終わると同時に、会場は拍手に包まれた。その拍手は次第に大きくなり、会場全体を埋め尽くすほどになった。

 ヴィオラとカイルは、その場でしばらく動けずにいた。胸の奥で熱い感情が沸き上がり、2人はただ黙ってマルガリータ王女の姿を見つめていた。

「……王女陛下が、ここまで私たちを信じてくれているなんて」

 ヴィオラは、震える声でそう呟いた。その瞳には、感謝と決意の光が宿っていた。

 カイルは隣で深く息をつき、静かに言葉を紡ぐ。

「ヴィオラ姉、王女陛下だけじゃない。僕も君を支えるよ。どんなことがあっても」

 ヴィオラはカイルの方を見つめ、小さく頷いた。その表情には、職人としての誇りと、仲間への深い信頼がにじんでいた。


【ヴィオラ・スミスの矜持】


 初春の暖かな陽光が差し込むエテルニタのサロンは、穏やかな空気に包まれていた。ヴィオラはお気に入りの椅子に腰掛け、目の前のカイルと談笑している。2人の間には、これまでの困難を乗り越えた安心感と親密さが漂っていた。

「最近、ヴィオラ姉のジュエリーをつける人をよく見かけるよ。王家御用達の看板はやっぱり強いね」

 その言葉に、ヴィオラは微かに肩をすくめる。

「看板に頼らず、ジュエリーの真価そのものを見ていただければ、それでいいのだけど」

「それがヴィオラ姉らしくて、かっこいいところだよ」

 カイルの目が優しく細められる。ヴィオラはふとその視線に気づき、わずかに頬を紅潮させたが、すぐに気を取り直したように口を開いた。

「……カイル。あなた、少し口がうまくなったわね」

「そうかな? 成長したんだと思うけど」

 彼がいたずらっぽく笑うと、ヴィオラもつられて笑みを浮かべた。


 そんな和やかな空気を裂くように、サロンのカーテンが軽やかに開いた。

「あら、私が来るといつも、タイミングを間違えてしまうわね?」

 耳慣れた声と共に、マルガリータ王女が姿を現した。その黒みを帯びた茶色の髪が緩やかに揺れ、青みがかった瞳が優雅に2人を見渡す。以前のようにベールで顔を隠すこともなく、その気品は溢れるばかりだった。

 ヴィオラとカイルは一瞬で姿勢を正し、立ち上がった。

「マルガリータ王女陛下……」

「ちょっと待って」

 王女は手を軽く上げ、笑顔で2人を制した。

「ここでは以前のように『マリー』として接してほしいわ。その方が楽しいもの」

 その気さくな言葉に、ヴィオラとカイルは顔を見合わせ、少しだけ力を抜いて席に戻った。


 マルガリータがソファに腰を下ろすと、すぐにヴィオラが紅茶を淹れ、カイルが菓子を差し出した。いつものお決まりの動作のあと、三人は自然と雑談を始める。

「アメリア・ハルディアン伯爵令嬢が、隣国の遠戚のもとに身を寄せたそうよ」

 マルガリータが告げると、ヴィオラが小さく息をついた。

「そうでしたか……」

 ヴィオラは言葉多くは語らないが、エテルニタの安穏が守られたことを噛み締めていた。

「王国内の社交界では、もう居場所がなかったからね」

 カイルが苦笑する。

「ハルディアン伯爵家も、娘の後始末で、立ち回りに苦労しているみたいだ。さすがに彼らも、影響力を失うことを恐れているんだろうね」

「お気の毒ね、自業自得だけど」

 マルガリータが肩をすくめ、軽く笑みを浮かべた。


 穏やかな雑談の中で何度か話題が変わり、最近のエテルニタの評判に移る。

「この前、貴女のジュエリーを身につけて外交に臨んだのよ」

 マルガリータの言葉に、ヴィオラは思わず目を瞬かせた。

「それは恐れ多いほどの光栄です」

「そしたら他国の王族や宰相たちが、『王国のジュエリーの気品は随一だ』って褒めてくれたわ。中には、エテルニタとの貿易を希望している方もいらっしゃったの」

「……それは大変ありがたいお話ですが」

 ヴィオラの声には慎重さが混じっていた。カイルが彼女の横顔を見つめながら尋ねる。

「でも、受けるつもりはないの?」

 ヴィオラは一瞬目を伏せた後、静かに首を振った。

「私は、自分の手で一つひとつ作ることにこだわりたいの。一点物だからこそ、ジュエリーに魂が宿ると思うから。それがエテルニタの理念であり、私の誇りなの。でも貿易となると、大量生産しないといけなくなるでしょう。私の理念と変わってきてしまうわ」

 その言葉に、カイルは柔らかく微笑んだ。

「そのヴィオラ姉の矜持こそが、エテルニタの本質だと思う」

 ヴィオラは彼の言葉に驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情は和らぎ、微笑みが浮かんだ。

「ありがとう、カイル。あなたにそう言ってもらえると、なんだか自信が湧いてくるわ」

 2人のやり取りを見守っていたマルガリータが、呆れたように肩をすくめた。

「やっぱり来るタイミングを間違えたみたいね」

 その一言に、ヴィオラとカイルは思わず顔を見合わせ、苦笑を漏らす。


 今日もエテルニタでは、ヴィオラが手掛けたジュエリーたちが静かに、そして誇らしげに輝きを放っている。未来へと続く希望の光が、その輝きの中に確かに宿っていた。


ご覧いただきありがとうござきました。

この短編は連載中の作品のスピンオフ作品です。お気に召したらそちらも覗いてくれると嬉しいです。


拗らせ女公爵と策略王弟の愛と希望の日々 〜政略と社交の狭間で愛し合ってみせます〜

https://ncode.syosetu.com/n3251jx/

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