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二十二時半。ずぶ濡れになって帰った冴子は、すぐにシャワーを浴びて、バスタオルを巻いたまま部屋の小さなフェイクファーのマットに腰掛けて、アイスクリームを食べた。そしてラジカセでカミカワミカンのCDをかけた。
ワタシはワタシになりたいの
自分で自分になりたいの
でもどうしたって 考えたって 苦しんだって
わからないの ありきたりの 禅問答
冴子がカミカワミカンを知ったのは小学六年生のときで、友達はみんなアイドルやK-POPが好きな子ばかりだったから、大衆ウケするタイプではないカミカワミカンを聴いていた冴子は、友達とあまり話が合わなかった。
カミカワミカンは大衆ウケどころか、ヒットチャートとは縁遠いアンダーグラウンドに近いシーンで活躍する、どちらかと言うと“通好み”のアーティストで、ライブハウスを中心に弾き語りをしながら、たまにバンド形態でラウドロック風の演奏をしたと思ったら、スリーピース・ジャズをバックに歌ったりもする、一風変わったシンガーソングライターだった。冴子の実家はケーブルテレビと契約していて、ある晩、夜更かししていた冴子は、たまたま観ていた音楽チャンネルでカミカワミカンが歌っている映像が流れたときから、すぐにカミカワミカンのことが好きになった。曲はもちろん、歌詞の世界観が、何だか自分の気持ちを代弁してくれているような気がして、耳から離れなかった。
ワタシはワタシになりたいの
唯一のワタシになりたいの
ただどうすれば こうすれば ああすれば
ただ一人の ワタシだけの ワタシになれるの?
冴子が高校生のときにリリースされたこの曲を、冴子はたまに無性に聴きたくなるときがある。高校を卒業して専門学校に通っていた頃はとくに、ほぼ毎日のように聴いていた。
当時の冴子は、他の誰でもない、自分だけの自分になりたいと思っていた。けれど、それがどういう自分なのかを言葉で言い表すことはできなかった。漠然とイメージすることしかできなかった。それでも親や親類や先生はそれを具体的に言葉で言ったり書いたりすることばかりを求めてきた。同級生たちはうまく言ったり書いたりすることができていた。それは本心ではなかったのかもしれないけれど、ただの出まかせやその場しのぎに過ぎなかったのかもしれないけれど、その辺りも同級生たちは“うまく”言ったり書いたりしていた。
冴子にはそれができなかった。その技術や能力はあったかもしれない。けれども冴子は“うまく”やりたくはなかったし、“うまく”言うのも書くのも嫌だった。それは何だか“負け”のような気がしていた。かと言って本心は漠然とし過ぎていて、言えなかったし、書けなかった。そんな苦しみの中に当時の冴子はいながら、この曲を何度も何度も聴いていた。
専門学校を卒業してからは、あまり聴く機会のなかったこの曲を、冴子は今夜、久しぶりに聴いた。
アルバムの最後の曲だから、曲の終わりと同時に冴子の部屋は静まりかえった。窓の外の雨音だけが聞こえてきた。それはラジオの電波を合わせているときの音みたいに聞こえた。食べ終えたバニラのアイスクリームがカップの底で溶けて、白くて小さな“水たまり”を作っていた。
日曜日のセミナーのサクラが、何だかとても面倒臭くなり始めていた。いや、面倒なことになりそうな予感がしてきていた。
——ダルいわ、ホント……。
パジャマに着替えてベッドに横になって、冴子はゲームを始めた。昨日耕しておいた畑にニンジンの種を植えて水をまいたら、アルパカくんとウサギちゃんに餌をあげて、畑のとなりの草むらに新しい柵を立てて、そこをワンちゃんのドッグランにしよう。それから裏山に木の実とキノコをとりに行って、今日はそれでご飯作ってみようかな。毒キノコだったらどうしよう。ライフが減っちゃうかも……。
心を掻き乱されるような何かが起こったらどうしよう——。
気持ちの整理がつかなくなっちゃったらどうしよう——。
ガラにもなく感動しちゃったりしたらどうしよう——。
泣いちゃったりしたらどうしよう——。
頭の中の面倒臭そうなイメージが、どんどん具体的になってしまいそうで、ゲームが手につかなくなった冴子は、洗面所に歯を磨きに行った。ベッドに戻って部屋の電気を消したときに、外の雨音が止んでいるのに気付いた。そしてケータイに母親からメールが届いていることにも気付いた。
「同窓会の案内、どうするの?」
行かないから捨てといて、そう返信して冴子はケータイを枕元に置いた。0時半だった。いつもより少しだけ早いけれど、冴子はもう眠ることにした。眠るしかなかった。それ以外の何をしても、きっと何も手につかなくなる。
カミカワミカンを聴いたあと、ラジカセの電源を切るのを忘れていて、小さな液晶画面が暗い部屋の中でぼんやりと灯っていた。冴子はそれに気付かないまま眠りに落ちた。