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なりたい自分  作者: K
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 大きな雨粒が窓を打ちつけて、時おりバチバチと力強い音を立てた。夕方から本降りになった雨は、夜になってもその勢いが弱まらない。バチバチという音はイヤホンごしにでも、窓際のデスクで作業を続ける孝之の耳にしっかり届いた。

 ——どんなセミナーなんだろう。

 木田からの紹介で始まったセミナーのBGM制作の仕事は、ここまで至って順調だ。けれども孝之は、肝心のセミナーの中身や全体像をはっきりと掴めないまま、曲だけが完成に近付いているという状況に置かれていた。

 木田がよこしたメールは、メール広告かメールマガジンか何かの転送で、夢を現実のものとするとか、自分を創造するとか、自己啓発系っぽいセミナーの宣伝のようだったけれど、それだけではセミナーの内容を充分に把握することはできなかった。木田からのメールに返信して数日後に、セミナーの運営サイドから正式な発注の概要が送られてきて、それによると依頼は三曲、開場から開演までのBGM、セミナー終盤に流す動画のバックに流れるBGM、それからセミナー終了と同時に流れるエンディングのBGMだった。


「会場に一歩足を踏み入れると、そこは期待と希望に満ちていて、それでいて癒しとリラックスを感じられるような穏やかさがあって、肩の力を抜いて新しい自分を迎え入れられる、そんな心と身体の準備が整えられそうな曲。スローテンポで、ヒーリング・ミュージックに近い雰囲気で」

「開けたことのないドアを見つけた。勇気を出して開けてみたら、見たこともない世界が広がっていた。壮大で、光り輝いていて、どこまでも果てしなく広がっている。自分はその世界を思いのままに飛び回ることができる。あるのは希望だけ。恐怖も、不安も、忍耐も、悲しみも、痛みも、ありとあらゆるネガティブなイメージが払拭されて、前だけを、未来だけを見つめて進んでいけそうな曲」

「何か新しい自分に出会えるようなワクワク感が自然と込み上げてくるような、不思議な力に背中を押されているような、家路につくその足取りが跳ね上がるように軽く感じてしまうような、ポジティブな気持ちになれて、明るい明日につながるような曲」


 運営サイドからのメールには、それぞれの曲のイメージが記されているだけだった。そしてループで流しっぱなしにできるように、というのが共通の条件だった。

 音楽制作会社にいた頃から、クライアントからの抽象的なイメージや指示に従って曲を作って提供する、ということには慣れっこだったから、孝之はさほど苦労せずに、それぞれのイメージに沿った、かつループでエンドレスで流すことができる曲を三曲、作った。あとは音のバランスを整えて、データを運営サイドに納品して、相手方のリアクションを待つだけだ。

 ただ孝之は、三曲それぞれにしっかりとイメージがあって、そのイメージに沿った曲を作ったとしても、トータルのコンセプト、つまり、セミナー全体がもたらす雰囲気や、始めから終わりまでの流れと構成、全体を通して運営サイドが発信したいもの、そういったこととマッチしているかどうかで、曲の雰囲気や評価も変わってきてしまうことがあるから、そこだけが唯一の不安だった。

 どんなセミナーなのか、その全体像がほとんど掴めないまま、それぞれ指定されたイメージだけを頼りに曲を作ったから、完成度のわりには決して「自信作」とは呼べないものを作ったという、何とも言えない気分になっていた。

 ——まあ、どうだっていいか。

 どんなセミナーだろうと、相手の依頼内容通りに、相手が満足する曲を作るのが俺の仕事だし。そう思いながら、完成した三曲の最終的なミックスをして、スピーカーで鳴らして全体的な音のバランスを微調整して、データに書き出して、運営サイドが指定した送付先に納品した。


 ——それにしても……。

 なりたい自分になれる、ってすごいな。本当にそんなことが可能なのかな?どんなことをすれば、なりたい自分になれるのかな?

 っていうか俺、どんな俺になりたいんだろう?俺のなりたい自分って、どんな自分なんだ?

 アーティストに提供した曲はすべてヒットして、プロデュースしたグループは軒並み売れて、ソングライターとしてもプロデューサーとしても業界から引っ張りだこで、ゴージャスなプライベート・スタジオを持ってて……それが、俺がなりたい自分なのかな?

 それはちょっと違うような気がした。これまで「売れたい」とか「成功したい」とか考えたことは何度もあるし、実際に「音楽クリエイターになりたい」「独立したい」と思って行動に移した結果として今の自分があるわけだけれど、「どんな自分になりたいか」なんて、もしかしたら真剣に考えたことは今まで一度もなかったかもしれない。

 そして不思議なことに、「なりたい自分」についてイメージしようとすればするほど、どんな自分になりたいのかがわからなくなってくる。本当にそれが「なりたい自分」なのか?という疑問符が最後に必ず残ったまま、そこでイメージが途切れてしまう。

 「なりたい自分になれる!」という言葉に、ここまで考えさせられるなんて思ってもみなかった。孝之はMacBookを閉じて、デスクに並んだ機材ごしに窓を眺めながら少しボーッとした。そして部屋の電気を消してキッチンに向かった。

 冷蔵庫からハイネケンの缶を取り出してグラスに注いで、一口飲んでからタバコに火をつけた。それでもセミナーのことはしばらく頭から離れなかった。

 雨音は止むことなく一定のペースで窓をバチバチと叩き続けていた。窓を濡らした雨粒に街灯の光が反射して、暗くなった部屋を照らした。バチバチという音はキッチンまで届いた。何かが弾けるような音のようにも聞こえた。そしてその奥からサーッという雨音も聞こえてきた。雨足が強まっているようだった。

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