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なりたい自分  作者: K
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[7]

 キッチンというよりかは、そこは台所と呼んだほうがふさわしい。広さも、雰囲気も、設備も、何から何まで「台所」だ。

 それでも、ドアのない入り口のてっぺんには丁寧に「キッチン」という張り紙がしてある。それは冴子がこの会社に入った当時から貼ってあって、紙もセロテープもすっかり黄ばんでいる。シンクの壁の「キッチンの流しにカップ麺の残りを捨てないこと」という手書きの張り紙も、冴子が入った当時からずっと貼ってある。その張り紙でもこの場所は「キッチン」であるということになっているから、やはりここはキッチンなのだろう。

 キッチンを掃除して、ゴミをまとめて集積所に持っていくのも、冴子の業務の一つだ。朝、出勤してメールチェックをしたら、まずキッチンに行って掃除をする。退勤前にもキッチンの掃除をする。「応接室にお茶を持ってきてちょうだい」という内線が社長から入れば、キッチンでお茶を入れて持っていく。そんなこんなで、冴子はよくキッチンに出入りする。

 冴子はそれが苦ではないし、どちらかというと好きだった。それがなければ、基本的には九時から五時まで事務室に缶詰だからだ。キッチンに行くか、ゴミ出しをするか、社屋の周りの掃き掃除をするか、お昼を買いに行くか、トイレに行くか。退屈にまみれた事務室から勤務中に抜け出す方法は、それぐらいしかない。

 事務室は、どれだけ広く見積もっても四畳半ぐらいで、三方の壁をびっしりとキャビネットに囲まれた中に、バカでかいコピー機が一台、事務机が一台、そこに冴子が一人だ。冴子の席の後ろに大きめの窓があって、採光は充分だから、狭いわりに部屋は明るい。

 ゴミを集積所に運んで事務室に戻ってきた冴子は、事務机の左側にある引き出しのうち、一番下の引き出しを開けると、チョコレート菓子の小さな箱を取り出して、何の躊躇もなく開封して食べ始めた。左手でお菓子を口に放り込みながら、右手でマウスを操作してインターネットのブラウザを立ち上げた。

 ——これ、欲しいなぁ。

 眺めているのは、大好きなキャラクターがコラボしたお菓子の期間限定サイトだ。そして今まさに左手でつまんでいるのが、そのお菓子だ。外装の箱には、そのキャラクターのマークがプリントしてあって、それを切り取って五個集めて応募すると、今なら抽選で限定グッズが当たる。ハズレなしで、冴子が狙っているA賞のマグカップが当たらなかったとしても、参加賞的にステッカーがもらえる。冴子はそのキャラクターが昔から好きだから、たとえ参加賞でも嬉しい。

 七年も事務員としてこの会社にいて、事務員は冴子一人、そして事務室にも冴子一人だから、言ってしまえば好き放題に近い状態がまかり通っている。勤務中にどれだけお菓子を食べようが、会社のパソコンでインターネットを見ていようが、注意する者は一人もいない。いや、見つかったら注意の一つもされて当然だけれど、そんな生真面目な社員がこの会社には一人もいないし、そもそも普段から社員が事務室に入ってくることがほとんどなくて、入ってきても用件だけを伝えてすぐに出ていくだけだから、事務作業や電話応対以外の時間は、退屈極まりない反面、誰にも干渉されずに済む時間を過ごすことになる。七年もそんな時間を過ごしていれば、おのずと人は好き放題になってしまうものなのかもしれない。

 さすがに冴子も、仕事中に会社でやるべきことではないという意識と自覚はあるから、そこまで堂々とお菓子を食べたりインターネットをしているわけではない。一応、最低限の節度は保っているつもりだ。節度を保ったところで、褒められたことではないけれど。

 気付いたらお菓子の箱が空っぽになってしまったことにハッとしたのと同時に、ケータイの液晶画面が光った。メールの冒頭二行が小さく表示されていた。


 【臨時募集】二時間五千円!セミナーに参加するだけ!詳細は……


 ——サクラか。

 冴子は事務員も中華料理店も休みの日曜や祝日に、たまに単発のアルバイトをすることがある。専門学校時代の先輩から紹介されて以来続けていて、サイトに登録しておけば、ありとあらゆる“サクラ”を紹介してもらえるシステムになっている。

 アイドルのコンサート、著名人の講演会、声優のイベント、カリスマ講師のセミナー……客入りが悪いと人気に直結する、空席が多いのはマズい、サクラを雇ってでも空席を埋めたい、何なら満席にしておきたい、そう考える運営主体はありとあらゆる業界に存在していて、そういう場合はサクラを入れてでも、つまり真実を偽ってでも“人気があるという実態”を作ろうとする。

 事務所の社運をかけた社長肝いりのアイドルグループのお披露目イベント。全盛期をとっくに過ぎているのに「このキャパじゃないと歌わない」と言い張るベテラン歌手のコンサート。サクラを雇う背景は様々で、運営主体の強い意思でサクラを集める場合もあれば、出演する本人からの理不尽な指図や圧力によってサクラを集めざるを得ない場合もある。人気商売だから、仕方なく見栄を張らなければいけない局面もある。理由は多岐にわたる。

 とにかく、様々な業界で必要とされるサクラを、必要なときに、必要な人数を集める、そんな仲介業者が存在していて、その業者が運営するサイトに冴子は登録している。そして時おりサクラとして様々なイベントに参加しては臨時収入を稼いでいる。拘束時間は長くても三時間で、ほとんどの現場が時給に換算すれば割高だし、行きたいイベントだけを選んで参加できるし、参加したいときだけ参加すればいいから、冴子は暇つぶし感覚でサクラのアルバイトを続けてきた。

 ——二時間五千円はオイシイな。今度の日曜日か……。

 完全にインドア派の冴子は、基本的に休日は家から出たくない。前の晩にコンビニでパンやらお菓子やらジュースやらを買い込んで、一日一歩も外に出ないこともザラにある。サクラのアルバイトも、頻度としては二、三ヶ月に一回程度、割のいい現場だけを選んで行っている。もしくはゲームに課金し過ぎたか、ムダ遣いをし過ぎたか、どうしても行きたいコンサートがあるけどチケット代がバカ高いときぐらいだ。

 ——行くの、ダルいけどな……。

 お菓子の空き箱をゴミ箱に捨てて、試しにメールの内容を見てみることにした。場所が遠かったらやめようと思った。


 なりたい自分になれる!CreateMyself!自分実現セミナー。場所、南村山市。時間、十五時〜十七時。支払、五千円。(※詳細は参加が確定した方にお送りします。)


 行くのはダルいけど、冴子はそろそろ二年に一度のアパートの更新料を払わなければいけない時期に差し掛かっていた。一応そのための貯金はしているけれど、大きな出費には変わりない。

 ——更新料、払うの嫌だな……。

 サクラの募集人数は明かされないことがほとんどで、定員が埋まってしまえば、希望しても参加することはできない。早い者勝ちだ。冴子は十六時五十九分までメールのことを頭に留めておいて、十七時の退勤と同時に登録サイトでエントリーした。ダメだったらいいや、そう思っていた。南村山市は冴子の家からさほど遠くない。


 【現場詳細】『なりたい自分になれる!CreateMyself!自分実現セミナー』


 中華料理店のアルバイトに向かう道中で、詳細のメールが送られてきた。参加確定だ。

 ——なりたい自分になんて、なれるわけないでしょ。

 詳細に簡単に目を通して、冴子はすぐにメールを閉じた。何だかイライラしている自分がいた。

 ——なりたい自分になりたい人が行くの?バカみたい。どうせ集客に困ってサクラ集めてんでしょ。ダサい。私がお金もらってサクラで行ってやるわよ。

 本心では、どんなセミナーなのか興味がじわじわと湧いている。その本心を押し殺すように、冴子は心の中でセミナーを罵倒してみせた。けれど、なりたい自分になりたいと思って行く人よりも、サクラとして行く自分のほうが何倍もバカみたいで何倍もダサいと思って、だんだんと悲しくなってきて、情けない気持ちになった。これ以上考えてもひたすら落ち込むだけだと、今までの経験則から結果を予見した冴子は、考えるのをやめた。

 十七時過ぎにポツポツと降り始めていた雨は、店に着いた頃には本降りになっていた。

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