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なりたい自分  作者: K
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 ワンルームのアパートにしては広めのキッチンが気に入っている。間取りは1Kということになってはいるけれど、実際は1DKと言ってもいいぐらいの広さがある。

 部屋の電気を消して、その広めのキッチンのガスレンジの小さな電球だけを灯して、その下にストールを置いて腰掛けて、ジャズやブラック・ミュージックをBGMに、本を読みながらジンやバーボンを飲んだり、タバコを吸ったりしてくつろぐのが、孝之のお気に入りの時間だ。

 ——あの仕事、どうなったかな……。

 ジンをロックで飲みながら、レコーディング機材の専門誌を読んでいたら、R&B系の女性シンガーのプロデュースで有名なミュージシャンのプライベート・スタジオを紹介する特集が組まれていた。孝之は先月、その女性シンガーの新曲のコンペに参加している。

 自分では作曲することのない女性シンガーや男性シンガー、アイドルグループ、そういったアーティストの所属事務所は、時おり楽曲コンペの情報を業界内にそれとなく流す。コンペの情報は人づてにミュージシャン、作曲家、音楽クリエイターたちの間に広まって、彼らが作った多くのデモ音源が所属事務所に殺到する。その多くのデモ音源の中から、事務所側がセレクトした一曲が、アーティストの楽曲として採用される。最終的にプロデューサーやアレンジャーによって“本番仕様”のアレンジが施されたものに、アーティストが歌をレコーディングしてリリースされる。

 それは新曲のシングルだったり、そのカップリング曲だったり、アルバムに収録される曲だったりするけれど、いずれにせよその1曲に採用されるということは、自分が作った曲が業界のトッププロに評価された証であるというとはもちろん、その曲が売れたら作曲印税が入ってくるわけだから、収入面でも大きな意味がある。曲が採用された者が無名であればあるほど、むしろそっちのほうが大きい。

 ”一発当てた”ことになるからだ。

 楽曲コンペの話が来たときに、そのアーティストが有名であればあるほど、売れていればいるほど、クリエイターたちは色めき立つ。最高の楽曲、渾身の一曲を提供しようと、目の色を変えて作曲に取りかかる。選ばれるのは一曲だけだ。それを掴み取るために、数多のミュージシャンやクリエイターたちがしのぎを削っている。

 孝之にも、たまに楽曲コンペの情報が人づてに入ってくる。今回の女性シンガーのコンペは、知り合いのスタジオ・ミュージシャンからの紹介だった。

 「俺、他のコンペがかぶってるのと、ここんとこレコーディングの現場がキツキツで手が回らないから、孝之やらない?」

 いわゆる“おこぼれ”的な話ではあるけれど、孝之は二つ返事で引き受けた。こういうクリエイティブな仕事こそ、まさに孝之の望む仕事だ。最高の一曲、渾身の一曲を作って、コンペを勝ち抜いて、その曲が売れて、業界からも評価されて、次の仕事が舞い込んで、作曲のオファーが立て続けに来るようになれば、つまらないデータ制作の日々とはおさらばできる——。

 コンペの話が舞い込むたびに、孝之はそんなことを考えながら楽曲制作に没頭する。そして残念ながら、状況が好転したことは今まで一度もない。

 特集記事のページにデカデカと載ったプロデューサーのプライベート・スタジオの機材の写真を眺めながら、タバコに火をつけて、ジンを一口飲んだ孝之は、諦めたように煙を吹いた。

 ——もう、他に決まったかな。

 女性シンガーのコンペの締め切りは一ヶ月前に過ぎていて、もちろん孝之は締め切りに間に合うように曲のデータを提出先へ送ったけれど、今現在、コンペの発信元からは何の音沙汰もない。ということは、今回のコンペの採用を勝ち取ったのは他の誰かだと考えるのが妥当だ。

 ——まあ、いちおう……。

 メールのチェックでもしておこう、そう思ってタバコを揉み消した孝之は、窓際のデスクに向かった。

 音楽クリエイターとして独立したときに買ったMacBookは、三年経つけれど少しもガタは来ていない。孝之はパソコンの使い方については一家言持っていて、物持ちはいいほうだと自認している。音楽制作に使う機材や、自宅でレコーディングするための機材も、故障したり壊れたりしたことはあまりなくて、どの機材も使い古されてはいるけれど“現役バリバリ”で活躍している。

 逆に言うと、最新の機材が揃った環境ではない。いずれもひと昔前の、数世代前の機材ばかりだ。孝之の自宅をプライベート・スタジオに例えるなら、雑誌に載っていたプロデューサーのプライベート・スタジオの、最新の優れた機材がズラリと並んだあの写真と比べると、天と地ほどの差がある。

 ——いつかは、あんなプライベート・スタジオを持ってみたい……。

 それはまさに、今の孝之にとっての夢だ。その夢を掴むための第一歩として、せめて一度ぐらいはコンペで採用されるぐらいじゃないと……。

 そう思いながら、使用感たっぷりの機材に囲まれたMacBookでメールを開いてみたけれど、期待していたようなメールは届いていなかった。もちろんこの一ヶ月、ケータイにそれらしい着信が残っていた形跡もない。

 他の未開封メールのタイトルにざっと目を通して、キッチンに戻ろうとした孝之は、液晶画面に視線を残したまま一度腰を浮かせて、また座り直した。一通のメールが目に留まっていた。


 Fwd:なりたい自分になれる!CreateMyself!自分実現セミナー


 転送メールだった。誰からだろう?差出人は、馴染みのないメールアドレスだった。転送の迷惑メールなんてあるのかな?孝之はメールを開いて、内容をチェックすることにした。

 「久しぶり。元気?このセミナーで使う映像のBGMを孝之に作ってほしいんだけど、いいかな?内容転送しとくから目を通しておいてちょーだい。よろしく。木田」

 木田は、孝之が音楽制作会社で働いていた当時の先輩で、今はイベント会社に勤めているはずだった。孝之が会社を辞めて独立した後も、ちょくちょく連絡を取り合ってはいたけれど、仕事を紹介してくれるようなことはこれまでなかったから、このメールは意外だった。

 ——木田さんが仕事を振ってくるなんて、珍しいな。

 そう思いながら、何となく内容に目を通して、孝之はまたキッチンに戻った。さっき吸ったタバコがうまく消えていなかったようで、ブリキの灰皿から煙がひとすじ、薄暗いキッチンの天井に向かって弱々しく立ち昇っていた。それはキッチンの天井には届かずに、ガスレンジの換気扇に吸い込まれて消えていった。流れていたダニー・ハサウェイが、その様子に不思議とマッチしていた。

 「なりたい自分になれる!」という表題がやけに印象的で、しばらく頭から離れなかった。

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