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いつからだろう。
いろいろなことが、とにかくダルい。
九時から十七時まで街の小さな建築会社の事務員として働いたあと、十八時から二十二時まで家の近所の本格中華料理店でアルバイトをする毎日は、かわり映えのない平坦な日々で、ただただ時間だけが過ぎていって、退屈と疲労しか残らないから、当然と言えば当然のことなのかもしれない。
事務員の給料では、家賃と光熱費と食費とで残りはわずかだ。だからアルバイトでもしなければ、ゲームで費やす課金や、漫画を買うお金や、好きなキャラクターのグッズを買うお金や、アニメの初回限定版ブルーレイを買うお金や、推しの声優のコンサートのチケット代が払えない。
ただ、そもそも中華料理店のアルバイトは、事務員になるよりも前から続けているから、事務員の仕事は冴子にとって本業という意識があまりない。それに加えて「頼まれて始めた仕事」だという背景もある。
中華料理店で働き始めてから三年目、ちょうど専門学校を卒業して一ヶ月が経とうとしていた頃だった。
「冴子ちゃん、頼む!ウチの会社の事務やってくれないかな?」
常連客のおじさんが、料理を注文する前にそう頼み込んできた。おじさんは店長の友達で、建築会社の社長だった。普段から冴子にもたまに話しかけてくるけれど、おじさんに興味がなかった冴子は、おじさんが社長だとは知らなかった。
「冴子ちゃん、経理の専門学校通ってたんでしょ?店長から聞いたよ。ウチの事務が来月いっぱいで急に辞めることになっちゃってさ、困ってんだよ〜。店長にはスカウトの許可もらってるから、頼むよ」
冴子に辞められたら困ると、店長はあらかじめ社長に釘を刺していたようで、どうしても新しい事務員を雇いたかった社長は、中華料理店のアルバイトは続けても構わないということにしたらしい。
自分をめぐって、水面下でそんな取り引きが行われていようとは。しかもおじさん同士で。冴子は呆れたけれど、社長が悪い人ではなさそうなのは知っていたし、悪い話でもないから、承諾することにした。
翌日、冴子は“いちおうの”面接に出向いた。そこは想像よりもずっと小さな建築会社で、中小企業を絵に描いたような、こぢんまりとした古びた三階建ての社屋を構えていた。その一階にある狭い事務室で、週明けから冴子は働くことになった。「よろしくね」と挨拶してくれた三十代後半ぐらいの女性の事務員は、気さくで人当たりの良さそうな人だった。退職するまでの一ヶ月ほどで、冴子に業務の引き継ぎをしてくれるという。「難しいことは何もないから大丈夫よ。安心して。給料は安いけど」と言って笑った。その場で聞いていた社長も笑った。悪い会社ではなさそうだった。
思いもよらず、冴子は就職することになった。
高校を卒業した冴子は、何となく経理関系の専門学校に入った。とくに夢や目標はなかった。やりたいこともないし、就きたい職業もなかった。進路指導の先生からはいつも、
「やりたいこと、何か見つかったか?」
顔を合わせるたびにそればかり聞かれた。今やりたいことは沢山ある。ゲームをやる。漫画を読む。アニメを観る。好きなキャラクターのグッズを集める。お菓子を食べる。寝る。
結局、進路指導の先生が言う「何か」は、ひとつも見つけられないまま卒業を迎えた。まず、何を見つければいいのか、どう見つければいいのか、そもそも見つけなければいけないものとは何なのか、冴子にはぼんやりとしかわからなかった。
逆に言うと、ぼんやりとだけど、わずかながらには、わかっていた。
わかっていたけれど、見つけようとしていなかった。それをしたくなかった。それをするのは何だかすごく面倒で、億劫で、とても気持ちが疲れることのように感じた。
入っておけばとりあえず困ることはないだろう、最後はそういう理由で経理関係の専門学校に通うことになった。その結論を出したのは先生と親だった。そこに冴子の意思はなかった。
「高校卒業したら、お小遣いはアルバイトして自分で稼ぎなさい」
専門学校入学を控えた三月、母親がそう言った。冴子はそれまでアルバイトをしたことがなかった。いろいろと探してみた中で、小さいけれど綺麗で品格があって“本格中華”を謳っていたその店は、時給がよかったのと、家からさほど遠くないのと、中国人の店長が面接のときに“穏やかでいい人そう、イコール怒らなそうだったこと、この三つが決め手になって、すぐに働き始めた。
働き始めて三ヶ月で突然オーナーが変わって、ホールスタッフの制服をチャイナドレスに変えるということになったときには、辞めようかどうか悩んだけれど、他のアルバイトを探すのが面倒で、冴子は店に残ることにした。チャイナドレスなんてコスプレイヤーが着るもので、自分なんか絶対ムリ、絶対やだ……と思っていたけれど、実際にはチャイナドレスではなくて、長めの黒い“チャイナ服”だったことがわかったときには心底ホッとした。
建築会社は、私鉄の駅の商店街から歩いて十五分のところにあって、社員はほぼ全員が電車通勤だから、東西に延びるその私鉄の駅からバスで二十分の、だいぶ南の外れにあるこの店に、会社の人間が来ることはまずないだろう。そして実際に、社長以外の人間と店で出くわしたことは一度もない。逆に、どうして社長がここの常連なのか不思議なくらいだ。
社長が会社で店の話をしている様子は一切ないから、おそらく社長以外の誰も冴子が店で働いていることを知らないだろう。事務室に出入りする社員はほとんど限られているから、そもそも社員と顔を合わせる機会自体が少ないけれど。とにかく今振り返ってみても、チャイナドレスなんか着るハメにならなくて本当によかった。チャイナドレスを着ているところなんて、社長はもちろん、社員の誰にも絶対に見られたくはない。
九時五時で事務員、夜はチャイナ服を着てホールスタッフ、帰ったら好きなキャラクターたちに癒されて、休みの日は家でゲームをしてアニメを観て漫画を読んで……そんな毎日が始まった。
実家暮らしだから、貯金はどんどん増えていった。事務員になって二年が経った頃、冴子はアパートを借りて一人暮らしをすることにした。実家はラクだけど、親と一緒にいるのはなんだか億劫で、面倒で、わずらわしかった。
親とは決して仲が悪いわけではない。ギスギスしているわけでもない。ただ、“ベクトルがあさっての方向を向いたままずっと交わらない感じ”がとてもある。いつもある。それは多分、父親も母親も自分に対してそう感じているんじゃないか、そしてそれは、父親と母親の間でも起こっているんじゃないか、何となくそんな雰囲気が家中に漂っていた。
もとから自分のことには干渉されたくない。自分の生活スタイルや自分の居場所も邪魔されたくはない。けれども両親と一緒に暮らしている限り、そういうわけにもいかなくなることはある。だから冴子は、食事以外に自分の部屋から出ることがほとんどなくなってしまっていた。実家のラクさよりも、両親と一緒に暮らしていることによるわずらわしさのほうが完全に上回っていた。だから実家を出て一人暮らしをするのは必然だった。いっそ自分の部屋がそっくりそのまま別の場所へ移動してくれたらいいのに——そう思っていた。
そんなこんなで一人暮らしを始めてから、五年が経った。
事務員になってから七年、中華料理店は九年目になる。
事務員はすっかり板についたし、店のホールではすっかりベテランだ。
勝手がわかりきっているから、ということもあるだろうけれど、どちらも仕事はヒマだ。おそろしくヒマだ。
単純で、退屈で、平坦で、いつも通りで、かわり映えしなくて、やりがいがなくて、ダルい。それでも冴子はダラダラと続けてきて、今もダラダラと続けている。そして気が付いたら、アラサーと呼ばれる年代になっていた。
——アラサー……。
ちょうど読んでいた漫画の主人公がアラサー女子だった。ローテーブルに放ってあったいつかのレシートを、読んでいたページにはさんで漫画を閉じた冴子は、頭の中で「アラサー」と言う言葉を何度も繰り返しながら、キッチンの棚へお菓子を取りに行った。