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延々と続く単純作業。
創造性のかけらもない仕事。
過ぎ去っていく無意味な時間。
部屋でたった一人、ひたすら黙々とこなしているうちに、当然ながら悶々としてくる。
本来であればクリエイティビティを遺憾なく発揮するための抜群のツールであるはずのMacBookが、こんな作業をするために使われていいはずがない。
一小節だけ作ったドラムのデータをコピーして、三回ペーストして、四小節分のデータにしたら、それをまたコピーして、五小節目にペーストして、八小節ぶんのデータにして、今度はそれをコピーして、曲の終わりまで延々とペーストしていく。単純な“コピペ”作業だ。
——だりぃ……。
そう思いながら、孝之は左手でコマンド・キーと「v」キーとを何度も何度も押し続けた。ドラムのパートがみるみる出来上がっていく。人気ラッパーの新曲で、トラックは至って単純、打ち込みのドラム、シンセベース、デジタリックなシンセサイザー、ラップ、ただそれだけだ。
仕事としては、おいしい。孝之が請け負ってきた数々の音源データ制作の中でも、一、二を争うほど単純な曲だ。音像もクリアで聴き取りやすい。もしかしたら史上最速で終わるかもしれない。時給に換算したら破格の値段になりそうだ。けれど——。
「だりぃな……」
とうとう口に出てしまった。一人暮らしの部屋には、当然ながら孝之一人しかいない。ため息まじりに吐いた“究極の独り言”だ。
手応えも、やりがいも、満足感もない。産みの苦しみもなければ、それに見合った達成感ももちろんない。クリエイティビティが刺激されることも一切ない。
ひと言で言うと、ダルい。
孝之の音楽制作は、もはや生活するための手段に成り下がっていた。厳密に言うとそれは「音楽データ制作」であって、純粋に無の状態から音楽を創造しているのではない。それでも音楽に関係した仕事だけをやっていくと意地を張って、常に「これがやりたいわけじゃない」と思いながら、でもやめたら生活ができなくなるから、仕方なくやり続けている。孝之の日々の音楽制作はそんなものばかりだ。
勉強そっちのけでバンド活動に明け暮れていた高校時代を経て、音楽系の専門学校へ進んだけれど、孝之はすぐに学校をサボりがちになった。授業で教わることが、自分がやりたかったこととは違うように感じて、学校に通うのが時間のムダのように思えてきて、それならアルバイトをして資金を貯めて必要な機材を揃えて、家で一人で音楽制作を始めようと思った。
「音楽クリエイター」という、夢のような目標のような、“こうなりたい”というものが、孝之の中で具体的になり始めていた。
実家にいる以上、親の顔色は気になったから、学校に通うフリだけは続けた。そして朝から晩までひたすらアルバイトをした。
一人で音楽制作を始めたいと思っていたのと同時に、孝之は実家を出て一人暮らしもしたかった。そのための資金も必要だったから、孝之は週七でアルバイトに明け暮れた。音楽制作をするための、プライベート・スタジオのような部屋を持ちたかった。実家の四畳半の自分の部屋でそれをするのは嫌だった。何しろ、音楽系の専門学校に入ったことをあまり良く思っていない母親と、ほとんど会話もなければ顔を合わせることもない父親と、一緒に暮らしていること自体が、もう嫌だった。
孝之がちょうど二十歳の誕生日を迎えたときに、貯金額も百万円を超えた。中古とは言え、ずっと欲しかったiMacを買って、他にDTMソフト、オーディオ・インターフェース、MIDIキーボード、ケーブル類を買って、ひとまず音楽制作に必要な機材は一通り揃えた。ついでに、これまた中古だけれどTAKAMINEのエレアコ・ギターを買った。それで五十万円弱ぐらいが残ったから、孝之は東京の郊外にアパートを借りた。
念願叶って実家を出られたうえに、音楽クリエイターとしての活動の拠点も手に入れられたことで、孝之はこれまで感じたことのない高揚感と開放感とを同時に味わっていた。
けれど、現実は厳しかった。音楽クリエイターとしての仕事が、向こうからやってくることなんかないことぐらいは理解していたけれど、孝之には仕事にありつくためのノウハウも手段も人脈も持ち合わせていなかった。そして、たとえありつけたとしても、それをやってのけるには技術も知識も未熟だということに、孝之はまだ気付いていなかった。
孝之は一人暮らしを始めた時点で、アルバイト生活にもケリをつけようと思っていた。音楽だけで食べて行こうと決心していた。けれども、仕事がない。
孝之は、学費を払わずに“除籍”扱いになっていた専門学校に出向いて、唯一面倒見の良かった先生に頭を下げることにした。
「お前がどうしてもって言うなら……」
先生が学校の講師と並行して運営している音楽制作会社で雇ってもらえることになった。
仕事はカラオケ用のデータ制作や、当時の携帯電話の着信メロディー用のデータ制作がほとんどだった。たまに、ゲームのサウンドトラックやCMのBGM、企業のホームページや展示会用のBGM、グラビアアイドルのイメージビデオのBGMなんかの仕事がスポット的に入ってきた。孝之は先輩スタッフに教えてもらいながら、専門的な技術と知識とを身に付けて行った。
スタッフは全員が非正規雇用だった。そして全員が掛け持ちでバンドマンだったり、スタジオ・ミュージシャンだったり、ミュージック・スクールの講師だったり、生徒だったりした。見たところ正社員と呼べる人間は一人もいなかった。
孝之は毎日午前中に出社して、終電まで働いた。ときには何日も会社に寝泊まりして、シャワーを浴びるためだけに家に帰るようなこともあった。パワハラもモラハラもなかったけれど、今になって振り返ればなかなかにブラックな勤務状況だった。
けれども孝之は楽しかった。毎日が充実していた。その会社には五年いて、その五年間が、音楽クリエイターとして独立するのに充分な知識と技術とをもたらしてくれた。何しろ、一人暮らしを始めた頃にはゼロに近かった人脈が圧倒的に増えた。
——音楽データ制作だけをやるなら、すぐに独立できるな。
五年目の冬、そう思った孝之は、専門学校の講師であり会社の社長でもあった先生に、年が明けてすぐ退職を申し出た。
「そうか、頑張れよ」
先生は、いや社長は、拍子抜けするほど軽いタッチで孝之の背中を押した。孝之のように仕事に飢えた生徒や卒業生は山ほどいて、後釜はすぐに見つかるからかもしれない。とにかく、孝之はさらりと独立することになった。
一人暮らしを始めたときの、あの高揚感や開放感がよみがえってくるのを感じた。「独立」という言葉には、夢を叶えたような達成感があった。
やる気しかなかった。前しか見えなかった。ダルいことなんて、何ひとつなかった。