[3]
トン、タ。
トン、タ。
トントン、タ。
トン、タ。
狭い事務室はおそろしく静かで、数分前からこの音だけが延々と鳴り響いている。その音に合わせて、一人デスクに向かう冴子の右手が、ひたすら一定の動作を繰り返し続けている。
トントン、タ。
トン、トンタ。
トン、タ。
トントン、タ。
スタンプ台と書類の右端とを往復しているうちに、ハンコを持つ右手が自分の右手ではなくなっていくような感覚に陥るときがある。ハンコに意思があって、ハンコに操られるままに、自分の右手がスタンプ台と書類の右端とを行き来しているみたいだ。
トントン、タ。
トン、タ。
トン、トンタ。
トン、タ。
それでも、目で見て「ちょっと薄いな」と感じたらトントン、と二回スタンプ台を叩くわけだから、やっぱり自分の意思でハンコを押していることは疑いようのない事実なのに、それすらも実は気のせいで、もしかしたらハンコの意思なのかもしれない。
スタンプ台を二回叩いたほうがいい、ハンコがそう判断してそうしているのかもしれない——退屈なハンコ押しをしている間に考えることなんかとっくの昔になくなって、最近はそんなくだらない妄想を挟んだりしている。
トン、タ。
トン、タ。
トントン、タ。
トン、タ。
お昼ご飯のこと、晩ご飯のこと、漫画のこと、アニメのこと、ゲームのこと、お菓子のこと、好きなキャラクターのコラボ商品のこと、週末にかかってきた実家からの電話のこと、実家に来ていたらしい同窓会の案内のこと、一口ぶんだけ飲み残して置きっぱなしにしてきたアイスコーヒーのこと、“ずぼら”という言葉の意味……そして最後の一枚まで押し終わったら、
カシャン——。
ハンコをスタンプ台のフタの上に放り投げるように置いて、押し終えた書類の束を机の上で数回、トントンとやって揃えたら、デスクの左隅の“ハンコを押し終わったヤツ”の山の上にその束を乗っけて、
「ハアーッ……」
ため息をついてから、机の右隅の“これからハンコを押すヤツ”の山から一束、書類をとって机の真ん中にドサッと置く。
それがハンコを押しをするときの自分のルーティンになっていることに、冴子は最近になって気付いた。
ため息を吐いている自覚なんてなかったから、それに気付いたときには結構落ち込んだ。落ち込んだのと同時に、
——そりゃ、そうでしょ……。
納得したくはないないけれど、当然の帰結、自然な流れ、なるべくしてそうなった、そんな気持ちになって、なんだか妙に腑に落ちた。
山積みされた書類に果てしなくハンコを押していく作業は、事務員として働く冴子にとっての中心的な業務のひとつだ。ただ、中心的な業務だからといってモチベーションが上がるわけでもないし、いっそうの責任感が湧き出るわけでもないし、誰かから評価されるわけでもないし、その量や質によって給料が上がるわけでもない。“ミスなく淡々とこなしてさえいればいい”業務だ。
そもそも事務員とはそんなものだと割り切っているからなのか、この会社に貢献しようという気がさらさらないからなのか、中心的な業務がそんな類いのものばかりでも冴子は平気だった。投げやりになることもないし、ふて腐れるようなこともない。
それでも、ハンコをスタンプ台のフタの上にカシャンと放り投げてため息をついている自分に気が付いたときには、それなりに落ち込んだ。
そして、妙に腑に落ちた。
平気だけれど、つまらないことに変わりはない。投げやりではないけれど、頑張っても意味はない。ふて腐れてはいないけれど、誰も評価はしてくれない。
つまり、やりがいはひとつもない。
けれど、それで”しおれていく”自分は認めたくない。
だけど、どうすればいいのかは、わからない。
だから、他愛のないことばかり考えて、くだらない妄想をして、単純作業に追われて、ハンコを投げて、ため息をついて——。
——やさぐれてんじゃん、私……。
ガチャッ!
「ごめーん、これ全部処分しといて」
ドサッ!
「はーい」
滅多に入ってこない社員が事務室に入ってきて、一瞬で出て行ったから、冴子は条件反射的な返事をすることしかできなかった。社員はA4サイズのコピー用紙の束を投げ捨てるように置いて去って行った。それは以前に冴子が延々とハンコを押した書類の束だった。
「ハアーッ……」
ため息を合図に、かつて延々とハンコを押した書類の束を果てしなくシュレッダーにかけていく作業が始まった。