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カップの底に一口ぶんだけ残ったコーヒーをイッキに流し込んだら、無意識に「フーッ」と長いため息が出た。その音がイヤホンを通して耳の奥深くまで伝わってきた。毛布を何重にも被せたような、ひどくこもった音だった。
イスにあぐらをかいて、イヤホンを付け直すと、孝之はMacBookの液晶画面を睨んで、再びスペース・キーに左手の親指を置いた。
カタッ……。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
スペース・キーを叩くたびに、同じフレーズが何度も再生される。鳴り響くのは打ち込みのドラムとシンセベース、左右に別々のエレキギター、ど真ん中には男性グループのメンバー数人によるボーカルの複数の声、さらに中央付近にシンセサイザーによるストリングスの音、ジャカジャカと掻き鳴らされるアコースティックギター、トランペットとサックスのホーンセクション、ピアノ、パーカッション……。
「いらねえだろ、こんなに……」
呆れたように吐き捨ててから、孝之はまたスペース・キーを繰り返し叩き続けた。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
スペース・キーは再生ボタンと停止ボタンとを兼ねていて、一度叩けば曲が再生されて、もう一度叩けば停止される。停止すれば自動的に指定したポイントへ戻るように設定できるから、例えばサビの三小節目にポイントを指定しておけば、サビの三小節目から曲が再生されて、停止すればまたサビの三小節目に戻る。だから、聴きたい部分を何度でもリピートして聴くことができる。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
イヤホンから延々とリピート再生されているのは、曲の最後のほうで繰り返されるサビ、いわゆる“ラスサビ”の部分だ。曲のクライマックスとも呼べる場所で、様々な楽器が渾然一体となって鳴り響く中から、どうしてもトランペットとサックスが聴き取れずにいる。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
何度聴いてもフレーズが掴めない。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
ゴチャッとした音像の真ん中あたりにいろんな楽器がミックスされ過ぎていて、トランペットとサックスのフレーズが埋もれてしまっている。まったく聴き分けることができない。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
カタカタッ……。
数年もの間、繰り返し繰り返し叩かれ続けてきたスペース・キーは、中心部分がテカテカと光沢を帯びてきている。孝之のMacBookのキーボードの中で、最も酷使されたキーかもしれない。
カタッ——。
「やっぱ、わかんねぇ……」
曲が止まるのと同時に孝之はイスから勢いよく立ち上がって、髪の毛を掻きむしりながらキッチンへと向かった。
豪華で賑やかな雰囲気を出すために、サウンドに厚みを持たせようと様々な楽器を詰め込んだ結果、それぞれの楽器が何を演奏しているのかわからないほどゴチャッとした音像に仕上がった、人気男性アイドルグループの新曲。
何もこのグループだけに限ったことではない。この事務所からデビューしている男性アイドルグループの曲はどれもゴチャッとした音像に仕上がっている。そしてどのグループも人気があって、どのグループも新曲をリリースすれば必ず売れる。そしておそらく、ファンの誰一人として、曲の音像についてなんか気にすら留めていない。
ファンとしては、彼らが歌っていて、イイ曲だったら、それでいいのだ。もしかしたら、イイ曲でなくても、たとえどんなにくだらない曲だったとしても、彼らが歌ってさえいれば構わないのかもしれなかった。
孝之は電気ケトルのスイッチを押して、カップにインスタント・コーヒーの粉を入れた。もう何杯飲んだかわからない。朝九時までにこの曲の楽譜データを出版会社に納品しなくてはいけない。発注が来たときにアーティスト名を見て、その瞬間から気が進まなかった孝之は、この数日間ずっと後回しにしてきたこの仕事に、日付が変わってからやっと取りかかった。そして予想通り、各楽器が聴き分けにくいゴチャついた音像に、やっぱり予想通り苦戦を強いられた結果、タイムリミットまで残り二時間弱というところまで追い詰められていた。
——こんなこと、やりたくてやってるわけじゃないのに……。
作業に時間がかかり過ぎている自分に対しての落胆、不甲斐なさ、そして締め切りが着々と迫ってくる状況による重圧と焦り。加えて、「生活のために仕方なくやっていること」だという背景が孝之のテンションをどんどん下げていく。
ラストスパートで追い込みをかけるべき状況なのに、まったくそんな気が起こらない。もはや気合いと根性だけの領域だ。すでにカフェインなんか何の効力ももたらさないだろう。それでもコーヒーをガブガブ飲んで、スペース・キーを叩きまくって、聴きたくもない曲を聴きまくらなければ、この苦行は終わらない。
アパートの前の道路を走る車の音が、少しずつ増え始めていて、世間は通勤ラッシュの時間を迎えようとしていた。それはスペース・キーを叩いていないとき、つまりイヤホンから曲が流れていないときに、イヤホンの外から聞こえる“世間の音”でわかる。そうやって時おりイヤホンの外に広がる世界を感じながら、窓際のデスクに張り付いて、埋もれたフレーズを掘り起こしてデータ化する作業をひたすら繰り返して朝を迎えることが、孝之にはしばしばある。
やっと最後のフレーズを入力してセーブをかけた瞬間、デスクトップの端っこに目をやると、時刻は八時十五分を表示していた。
——間に合った……。
一時はどうなることかと思ったけれど、まさに気合いと根性だけで間に合わせた。これまでこの仕事で締め切りに間に合わなかったことは一度もない。それは意地でも死守するつもりだ。個人事業主としての自分の評価に直結するからだ。孝之は文字通りホッと胸を撫で下ろした。
納品の準備に取りかかろうとしたとき、窓の外から登校途中の小学生のにぎやかな声が聞こえてきた。少しだけ小学生の頃のことを思い出したけれど、データをオンラインで納品し終えた瞬間に、疲れと眠気が孝之をベッドに押し倒した。少なくとも22時間は寝ていない。仰向けになって、額に腕を乗せたまま、布団も被らずに眠りに落ちた。
泥のように眠りながら、孝之は小学生の頃の夢を見た。
前の晩に珍しく台風がやってきて、朝には過ぎ去っていたけれど、近くの小川の水が溢れて通学路は水浸しになっていた。その中を、長靴を履いた孝之は、水をバシャバシャとやりながら学校へと向かっていた。なんだか楽しい。とても楽しい。夢中になって一心不乱にバシャバシャと水を蹴り飛ばしながら歩いているうちに、一緒に登校していたはずの数人の友達が、気付いたらみんなどこかへいなくなってしまっていた。水で溢れ返った通学路に、孝之が一人ぼっちで佇んでいる。ウソみたいに人っ子一人、車一台通らない。あんなに楽しかったのに、急に寂しくなった孝之は、どうすることもできずに、冠水した通学路に立ち尽くすことしかできなかった。みんなどこへ行っちゃったんだろう。いつの間に一人ぼっちになっちゃったんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。でも早く学校へ行かなくちゃ……。
目が覚めたら寂しさしか残っていないような、とてつもなく寂しい夢だった。