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顔を洗ってからキッチンへと向かう足取りが、いつもより重たく感じた。水曜日はそんなもんかな、と思いながら、シンクの上の棚からインスタントコーヒーの粉を取り出して、大きめのカップに入れて、水道水を注いで、冷凍庫から氷を三つつまんで入れて、お弁当用の小さな樹脂製の箸を一本逆さまに持って、それをマドラーの代わりにしてかき混ぜた。
——もう嫌だな、毎朝こんなことするの。
水道水を入れるのも。マドラーの代わりに箸を一本だけ使うのも。
——ただの“ずぼら”じゃん。
冴子は“ずぼら”という言葉を何度も頭の中で繰り返しながら部屋に戻った。解け始めた氷の層がコーヒーの上に出来上がりつつあった。それを“箸マドラー”でかき混ぜて、一口飲んだ。
顔を洗って冷たいアイスコーヒーを飲んでも眠気が消えないところも、いつもの水曜日っぽかった。小さな丸いローテーブルの上にカップを置いて、カーペットに座り込むと、カップの隣に卓上ミラーを置いてメイクを始めた。
どうしてやめられないのか、これまで散々考えてきたけれど、そのたびに、「やめよう!」「変えよう!」「女子っぽくなろう!」そう決心するほどの大それたことでもないように思えてきて、結局いつも「やめる」ことにはならずに、また次の朝を迎える、その繰り返しだ。
決心できない、一歩踏み出せない、そんな自分がいることは、おおぼろげにわかっている。
あくまで“おぼろげ”であることの理由もわかっている。
——こんな自分、認めたくない……。
自分のネガティブな部分とは向き合いたくない。「だらしない」と思われても仕方のないような部分を、自分自身のことだけになおさら、ハッキリとは見たくない。
だからおぼろげにしかとらえられずにいる。「チラ見」ぐらいしかできない。
そして冴子にとっては、決心するということが、とても疲れることで、とても面倒臭いことのように思えてしまう。簡単に言うと、ダルい。
そこは、どれだけ人から「だらしない」と思われようが、「だって疲れるんだもん」「だって面倒臭いんだもん」と開き直ってしまいたい自分がいるということも自覚している。
事実、毎日に疲れていて、毎日が面倒臭い。
インスタントコーヒーを飲むのをやめたいのは本心だ。最近はとくにそう思っていて、アラサー女子っぽく紅茶とかハーブティーを飲んでいたい。オシャレなマドラーやかわいいティースプーンを買いに行きたい。
でも、また帰りにコンビニでインスタントコーヒーを買ってしまう自分がいる。
それをアイスで飲むときに、冴子は普通に水道水を使う。都心までバスと電車を乗り継いで一時間ちょっとの郊外の住民からすれば、それは普通かもしれない。たとえ23区内だとしても、東京の水道水は格段に水質がよくなったから、劇的にマズいアイスコーヒーが出来上がることはない。冴子が住んでいる郊外なら、水道水を使っても、それがインスタントだろうが、ちゃんとまともなアイスコーヒーは普通に飲める。
けれど、それでテンションが上がることはないし、むしろ下がっている。
マドラーがわりに箸を使ってしまうことにも。
キッチンの引き出しには箸が何本か入っている。その中の一本、いつ買ったのかもわからない、お弁当用の白くて小さな樹脂製の箸。ずっと前に買ったコーヒーのおまけについていたマドラーを失くしてから、冴子はこの箸をマドラーがわりに使っている。
——いい加減さ……。
買いなよ、というセリフも、これまで自分に何度も投げかけている。でも、もはや“箸マドラー”は“水道水アイスコーヒー”とワンセットになってしまっている。ある種の”おもむき”が漂っている感すらある。
メイクをしながら、カップの半分ぐらいに減ったコーヒーの上に、新しく解け出した氷の層が出来上がっているのが見えた。また“箸マドラー”でかき混ぜて、一口飲んだ。メイクをしながら片手間に飲むのにはふさわしい味みたいに感じた。
——本当にイヤだったら、もうとっくにやめてるはずなのに……。
また“ずぼら”という言葉が頭の中で反芻されかかっていた。それを振り払うように、冴子は卓上ミラーに写っている自分の顔から目線を外した。レースのカーテンの向こうに、曇った朝の街が見えた。
ダルいけど、できることなら、もし可能なら、変われるのなら、変わりたい——。
ふと窓際に置かれた時計に目をやると、いつも家を出る時間から2分ほど過ぎていた。
——ヤバい、もう行かなきゃ。
コーヒーをもう一口飲んで、慌ててバッグを抱えて冴子は家を出た。バス停に向かって早足で歩きながら、カップの中にコーヒーが一口ぶんだけ残っているのを思い返していた。
——そういうところも……。
冴子はイヤだった。コーヒーが一口ぶんだけ残ったカップが、夜までローテーブルの上に置きっぱなしになることを考えたら、自分のことが心底嫌いになりそうだった。
今朝もバスは満員だった。身をくねらせながら車内の真ん中へ進んで、なんとか手すりに掴まろうとした途端にバスが発車して、冴子はよろけた。隣に立っていたスーツ姿の中年男性にもたれかかりそうになったけれど、なんとか踏みとどまった。
バスが走り出してからしばらく経っても、自分に対する幻滅と、一口ぶんだけ残ったアイスコーヒーのことが、なかなか消えなかった。そこだけがいつもの水曜日と違っていた。