2.昔話
「――お久しぶり。元気だった?」
いつもと同じ、白衣姿の倫子が微笑んだ。その後ろから、後ろ手に手を組んだサクラがぴょん、と飛び出してくる。彼女も、以前の通り制服姿だ。
「……まぁ、何とか」
どう返事したものか迷いつつ、修一は適当な言葉を発する。
「そっちは、元気そうですね。今まで、何をしていたんですか?」
「……まぁ、色々と?」
倫子は修一に合わせて適当な返事をすると、「――冗談よ。権瑞が死ぬまでは、本当に身動きが取れなかったの。特殊な結界の中に飛ばされて、場所がわからないから扉も作れない。今ここに戻れたのは、あなたのおかげよ。感謝するわ」
「感謝しているなら、戦うのをやめてもらう事って――」
「それはできないわね」
倫子は短く、ハッキリと言った。
「……どうして?」
「だってそれが、あたしの最終的な目的だから。――あなたが抵抗せずに心臓をくれれば戦わなくて済むけど、そうもいかないでしょう?」
……そりゃあ、そうだ。
「……どうして、俺なんです?」
その質問に倫子は肩をすくめ、
「前にも言ったでしょ。あなたは、特別だって。特別なビースト。何しろ、あたしがこのお腹を痛めて生んだビーストなんだからね」
翠が顔色を変えて、修一の顔を見る。動揺しているようには見えなかったが、口唇の端が強く噛まれていた。
「驚かないのね? 誰かから聞いてた?」
「……まぁ何となく、そんな気はしてましたから。前から、ちょくちょくヒントも出してくれてましたよね」
「お、気づいてくれてたかぁ、エラいエラい」
倫子は笑って小さく拍手をする。「いい機会だからさ、ちょっと話してもいいかな。戦い始めたらあんた達すぐ死んじゃうだろうし、あたしもちょっと誰かに聞いてもらって、自慢したい気分なのよねぇ。そんな時間はとらせないから。いいでしょ?」
……断るという選択肢など、無いに違いない。修一が返答する前に、倫子は口を開いた。
◇ ◇ ◇
ビースト。この世界とは異なる世界から来た、異なる存在。人間達はそう言うが、ビーストの側から言わせて貰えれば、ビーストもこの世界の一部であり、魚や鳥や獣がいるように、ビーストもいる。それだけの事なのだ。
見た目が人間と同じである、という事がむしろ人間の恐怖感を煽っているのかもしれない。人間社会に溶け込んで生活し、化け物やら超常現象といった、ビーストの仕業としか思えない噂話を聞く度に、倫子は――当時は別の名を名乗っていたが――そう思うようになっていた。別に恐れる必要などなかろうに。確かに、人間と同じ外観を持ちながらその能力や生態は全く異なる。とはいえ意味も無く人間を襲う事は無い。全く無い、とは言わないが、自身の領域を侵された時に争いが発生するのは、獣だって同じだろう。倫子とて、不殺を貫いていた訳ではない。必要な時には殺す。ただそれだけの事だ。
そんな倫子にとって、楽しみの為に人を殺すビーストの存在は、迷惑でしかなかった。既に数え切れない程のビースト同士の戦いに勝ち、相当な力を持っていた倫子は、人間の世界でも権力者との知古を得て、存在感を増していた。他のビーストの情報を得るには。それが一番だったからだ。「鬼が集まる島」についての嘆願を耳にした時は、鬼がビーストであることを察して1人で現地に向かい、蹂躙したりもした。その事実に尾ヒレがついて、後の世にまで語り継がれるとある昔話になるのだが、それは別の話しである。
いつの間にか倫子の周りには、ビーストの巨大な組織が出来上がっていた。組織といっても集うことはせず、人間として目立たぬように社会に溶け込む。それのみ守っていれば基本的には好きにやれる倫子のやり方は、一人きりで世界に放り出されたビースト達にとって、居心地が良かったのだ。
しかし、次第に倫子は飽きてきた。人間もビーストも、同じ事を繰り返しているだけだ。自分の寿命がどれだけあるのか分からないが、戦いに勝ち続けている限りは尽きないであろう予感があった。倫子の立場を強奪しようとする輩は引きも切らなかったから、心臓の補給には困らなかった。が、その戦いでさえも面倒だった。
――何か、面白い事はないだろうか。
そんな倫子が興味を持ったのが、人間の生殖行動だった。女だけが孕み、子孫を増やす。ビーストとは根本的に異なるその生態。自分も――少なくとも外観は――女だ。自分が、子を生んだらどうなるだろう? どんな子が生まれるのか? そして――その心臓を食べたら、何が得られるのだろう。分からない。そして分からないという事は――素晴らしい!
倫子は研究を始めた。人間の生殖の知識を得るのは簡単だったが、ビーストの体には、生殖に必要なものが全て欠けている事が分かった。男のビーストには種が無い。女のビーストには卵も、孕むための袋も無い。そもそも男だ女だというのは人間としての外観のみで、体内の造りはどちらも同じだったのだ。
……まずは種を創ろう。
卵と袋は適当な人間の女を使えばいい。自分で産む、という目的は達せられないが、雌雄同体というビーストであるからしてさしたる違いはあるまい。
程なく、倫子は自身の種を創り出す事に成功する。しかし人間のそれに比べて数が少なく、種付けするのはひと月に一度が限度だった。それとて中々成功せず、改良を加えながら数十年の月日が経ち、ようやく着床に成功したのを確認した時は、さすがの倫子も喝采を上げた。
しかしそこからもまた失敗の連続だった。若い娘を使い尽くしては場所を変え、実験を続けた。そしてついに、その時が来た。
足を広げた体勢で縛られた娘。その腹は今にもはち切れんはかりに膨らんでいる。無理もない。人間の赤子は十月十日というが、この赤子は既に二年以上母親の腹に居座り、栄養を啜り続けているのだ。この様な事は初めてで、母体が死なないように管理するだけでも大変な苦労だった。
――その苦労が報われるか、無駄になるか。
破水が始まった。油断はできない。出産時が最も危険な事はこれまでの経験で知っている。さらに今回は、何が出てくるか分からない。ここまでくれば、母体は不要だ。いざとなれば、腹を引き裂く事も厭わない――つもりだった。うめき声が大きくなり、母体の腹が歪な動きをし始める。次の瞬間、想定外の事が起こった。母体の絶叫と同時にその腹が裂けた。血と羊水とその他の体液が混ざった赤黒い液体が溢れる。そして、完全に裂けきったその腹の中に、赤子が立っていた。
◇ ◇ ◇
「……それが権瑞、ですか」
修一の問に倫子は答えるまでもない、というように肩をすくめた。
「ビーストと人間を掛け合わせる、という意味では成功したんだけどね。でも、やっぱり失敗だった。ビーストの遺伝子が強すぎたのよ。1週間で人間の大人位に成長したあの子は私の言う事など聞かず、手近なビーストの心臓を手当たり次第に喰らうと姿をくらましてしまったわ。その後は――ま、知ってるわよね」
権瑞――自分の、兄。
「あの子は頭は良かったのだけど、研究の方向を間違ったわね。こちらの世界をビーストが支配する為に、人間をビーストに変えようだなんて。……ま、ある程度の成果は出ていたようだけど」
倫子は翠に視線を向けて、翠の体がビクッと反応する。
「どうにも、中途半端ね。こんなのが増えていたらと思うと、ゾッとするわ」
「そんな言い方――」
血相を変えて一歩踏み出した修一の腕を、翠が掴んだ。
「今は、聞きましょ。……ね?」
「そうそう。ここからがいいところなんだから。大人しく聞いときなさい」
顔をしかめる修一を倫子は愉快そうに眺めながら、続けた。