4.対峙
穴から飛び降りたサクラは、想像以上の暗さに一瞬戸惑った。殆ど使われていない教室なのだろう。厚いカーテンが全ての窓を覆っている。
しかし、さほど影響は無い。ビーストは視覚より全身から得られる感覚の方を信用するからだ。権瑞の姿は無い。結界が展開されたのなら分かるはずだが、その感覚は無い。天井以外に破壊された様子も無い。ドアから出て行った?
――いや、居る。
サクラは端末を操作し、学校全体を包む規模で結界を展開する。特に問題なく展開できた事を確認して、内心ホッとする。
「――それも、ママの指示かね?」
油断を見透かされたような権瑞の声に、全身が強張る。
……どこから?
「私の結界を、さらに大きな結界で包む。まぁ、確かに多少の足止めにはなるかな。あくまで多少の、だがね」
「多少で十分だもん」
サクラは言い返す。「私の役目は――」
「時間稼ぎ、か」
突然、サクラの目の前に少年が現れニヤリと笑った。抵抗する間もなく首根を掴まれ持ち上げられる。
「――変身!」
咄嗟に端末を操作し、変身による巨大化の衝撃を利用して捕縛から逃れる。
「悪くない反応だ」
少年は、あくまでも余裕の表情を崩さない。「――で、次はどうするかね?」
サクラは腕の体毛を逆立て、硬質化して発射する。が、それらは少年の目前で全て弾かれ、金属のような音がこだまする。
「遠距離攻撃、か。時間稼ぎにはうってつけだな」
少年は両手をポケットに入れたまま、薄笑いを浮かべて立っている。「……いい加減にしないと、ハゲるぞ」
言った瞬間、周囲に飛び散った体毛が一斉に浮き上がり、サクラに向った。
「このっ!」
発射を中止して咄嗟に避けるが、何本かが命中してうめき声を上げる。
「自分の毛で怪我してれば、世話が無い。――だが、おめでとう。よく頑張った。感動した! 君の役目は果たされたようだ」
少年は口の端を歪めると、大事な客人を自室に招き入れるかのように腕を振った。
「……よく言うわね。最初から、逃げるつもりなんかなかったくせに」
現れた倫子は、呆れたように鼻息を鳴らす。
「おや、ご存じでしたか」
「そりゃ、あそこまで見え見えの誘いに乗ってくれるんだもの。一対一でやりたいって、言ってるようなものじゃない。……けどさ、」
倫子はタバコを取り出し、火をつける。「本気で、あたしに勝てると思ってんの?」
「……割と、良いセンいけると思ってるんですがね」
少年はあくまでその余裕の態度を崩さない。
サクラは荒い息をつきながら、二人の対峙を眺めているしかなかった。傷は既に回復している。だが、体が動かない。分かるのだ。もし自分が加勢したとて、それは加勢でなく、邪魔にしかならないと。
「分かってると思うけど、サクラの結界の中に、あたしの結界を張ったわ。……そう簡単には、逃げられないわよ」
少年は一つため息を付いて、かぶりを振る。
「――今日の目的は、貴女と戦う事じゃあなかったんですがね。ホントですよ? でも――」
歯をむき出しにして、少年は笑った。「ここまでされると、戦いたくて仕方なくなってしまう」
「ビーストなら、そうでしょう。――そうでなくちゃ」
二人はそれぞれ教室の反対側に対峙し、不気味な笑みを湛えている。いつ破られるのかわからない静寂。緊張感が渦となって、二人の間に滞留している。
「変身、しなくていいの?」
倫子が口を開く。
「まぁ、大丈夫だと思いますよ。……そちらこそ、良いのですか?」
「格下相手に変身する方が、恥ずかしいでしょうよ」
と――、倫子がタバコを口にした。火の付いた先が、明るさを増す。次の瞬間、そこから巨大な炎が柱となって飛び出し、少年に襲い掛かった。が、それは見えない壁に阻まれて少年には届かない。炎は少年全体を包むように燃え続ける。燃え続けてはいるが、これでは――。
「ママ! 届いてない!」
「いいのよ、これで。ビーストだって生き物だもの。酸素が無くなればどうなるか――」
言った瞬間、教室にあった椅子や机が浮き上がり、倫子に向けて飛んでいく。が、倫子がタバコの先を円状に揺らすとそれらは一斉に燃え上がり、灰となって床に落ちた。
「無駄無駄。観念なさい。……もし、また床を破ろうなんか考えているなら、止めといた方がいいわよ。破ったら、」
その途端にドン、という音と共に火球の中心を太い炎の柱が下から上に貫いた。
「おお、派手っ!」
壁が無くなったのか、炎は球状でなく、柱となって激しく渦を巻く。――が、この程度で死ぬような輩ではあるまい。
「バックドラフト現象、ですか」
案の定、炎の中から落ち着いた声が聞こえてきた。「体が半分、千切れましたよ。死んだらどうするんですか、全く」
「……大人しく死んどきゃあいいのよ、そういう時はさ」
「生憎、そう簡単には死ねない体になってしまいましてね」
炎が消え、何も影響を受けていないような綺麗な姿のままの少年が姿を現す。
「……苦労するわよね、お互い」
「いや全く」
二人は顔を見合わせて、笑う。
「――では、お返しです」
少年が指を鳴らした。その瞬間、倫子の右脚の太腿辺りが小さく光ったかと思うと、爆発音と共に肉が弾け飛んだ。
「……火、か」
倫子は身じろぎ一つせず、傷口を観察する。
「そうです。貴女の火ですよ。先ほどのね」
少年が両手を動かすと、その軌跡に沿うようにいくつもの明りが空中に灯る。「で、これを――こうするワケです」
明りが一斉に、倫子を目掛けて殺到する。倫子は一度舌打ちすると、火をつけた新しいタバコをくわえ直してそれをくゆらす。再び発現した炎が渦を巻き、明りを巻き込んで消えた。が、炎を逃れた明かりが数個、倫子の近くで爆発する。
「――ママッ!」
サクラが悲鳴を上げた。
倫子の姿は凄まじい事になっていた。片腕はほぼ千切れかかり、体のあちこちが抉れ、蒼い血が吹き出している。
「――ほう、これはこれで、美しい」
少年が自分の顎を撫でる。
「ありがと。でも、すぐに戻っちゃうけどね」
倫子が肩をすくめると、言葉通り傷がたちまち元に戻る。が、服だけは戻らない。「……妙に、エロい格好になっちゃったわね。こういう趣味?」
「生憎、年増の女性は苦手でしてね。といって、あまり若すぎる、幼稚なのも遠慮しますが」
横目でサクラを見ると、ビクッとして身構える。
「――しかしまぁ、予想通りとはいえ、このままでは決着が付かないと思いますが」
「あらそう? そんな事はないわよ。……確かにまぁ、良いセンいってるとは思うわ。遠距離ではね」
次の瞬間、倫子の姿は少年の背後にあった。放たれた蹴りが少年を吹き飛ばし、壁に大きな穴を開ける。
「でも、近距離ではどうかしら。あたし、こっちの方が得意なのよね」
「――知ってますよ」
壁の向こうで、少年はゆっくりと立ち上がる。「なので、こんなのはどうです?」
倫子の周囲に、星が瞬くような明かりが灯っていく。
「動けなければ、近距離は無いですよね?」
倫子は大きくため息をつき、短くなったタバコを弾く。
「バカにしてんの? このあたしが、自分の脚で移動してるとでも?」
タバコが床に落ちる前に倫子の姿は消え、少年の背後に姿を現す。
「――でしょうね。貴女の結界内なら、瞬間的な移動が可能だ。だから、」
倫子が蹴りを放とうとしたその瞬間、少年の周囲を明かりが囲んだ。
「この方が、効率的だ」
このままいくと、倫子は明かりの中に自ら突っ込む事になる。が――倫子は躊躇なく、蹴りを放った。いくつもの爆発。それが発する光が消えた時、倫子の脚が深々と少年の横腹にめり込んでいた。
「……あたしの再生能力、見くびんじゃないわよ」
吐き捨てるように、倫子は言った。まして権瑞は、爆発の威力が自身に及ばないよう気を遣っていたはず。そんな状態で、防げるようなものではない。
目を見開いて倫子の脚を見ていた少年が、それを掴もうとする。
「おっと、お触りはなしよ」
倫子は脚を戻して、腕を振り上げる。少年の体は大きく歪み、倫子の顔を見上げるその口からは血が滲み出していた。
「それじゃあ――ね」
指先まで一直線に伸ばした鋭い手刀が、少年の心臓目掛けて打ち込まれた。




