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美女が野獣。  作者: 健人
第6章 9月
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6.一夜

 考えてみれば、この部屋に入った女性は片桐翠が2人目だ。1人目は、サキ。二人を同列に扱って良いものか、少し迷う所ではあるが。


 翠はずっと無言で俯き、タオルを被ったまま部屋へと入り、今は促されるまま、シャワーを浴びている。脱衣所など無いので一旦寝室に避難していた修一だったが、時計を見ると20時になろうかとしていた。


 とりあえず、米を炊いておくかと台所に移動する。……翠は今日は、食事など喉を通らないかもしれない。それでも念の為、だ。手早く1.5合の米をといで、炊飯器の「急速」ボタンを押す。手を拭いながら、浴室の方を見る。扉の前には制服がきちんと畳んで置かれ、その横には着替えと思しき衣類が揃えられている。下着の端が覗いているそこから無理やり視線を逸らすと、黒い大きなスポーツバッグが眼に留まった。村田が渡してきたものだ。車から降りる際渡して来たのはそれと、寝袋が2つ。


 ――何故2つ?


 部屋に入ってから気付いたが、とりあえず1つはベッドの上で敷布団のように使う事にした。翠にベッドを使ってもらうにしても、普段自分が使っているものだ。匂いとか色々気になるだろうし、気にされるとこちらも困る。


 スポーツバッグは……翠の家から色々と私物を入れてきた、と言っていたな。


 中途半端な場所に置かれていたそれを掴んで、脇へと避ける。


「……?」


 その妙な重さが気になった。少し躊躇したがファスナーが開いていたのを言い訳にして、中を少し覗いてみる。――と、浴室のドアが音を立てて、修一は慌ててバッグから手を放した。


「ご、ごめん! すぐ隣行くからまだ出ないで!」


 言い置いて、寝室に飛び込む。しばらくしてレトロな曇ガラスの引き戸に灰色の人影が映り、小さくノックされた。グレーのスウェットパンツに、パーカー。どこかで見たような、と思って以前コンビニで会った時と同じだという事に気付く。

 久々に見た気がする翠の顔。眼は真っ赤になっており、未だに青ざめているようにも見える。所在なさげに立ち尽くすその姿を見て、修一は慌てて、


「ええと――どうすればいいのかな。寝る――にはまだ早いよな。その――大丈夫か? お腹、空いてないか?」


 翠は少し首を横に振った。


「お腹は……大丈夫。少し、休みたい、かな」

「そ、そう。じゃあ――良かったらベッド、使ってくれ。寝袋敷いといたから、汚くないと思う」


 言葉を発してくれたことに、ほっとする。翠は少し戸惑ったようだったが、ゆっくりとベッドの上にのり、壁を背にして膝を抱えた。


「……電気、消そうか」


 翠の首が再び横に振れて、修一は上げかけた腰を下ろす。


「……ありがとう」

 しばらくの無言の後に翠が呟いた声はとても小さく、危うく聞き逃す所だった。「……一緒に、いてくれて」


「お礼なんて――」

 修一は翠の方を見ずに返答する。「……言わなくて、いいよ。むしろ俺は、片桐さんに謝らなきゃいけないんだから」


「……謝るって?」

「それは――だってほら、全部、俺が原因じゃないか。俺なんかと関わらなきゃ、こんな事には――」

「あたしね、」


 それまでにない強い語気に、修一は口を閉じる。


「――神室君が、前に両親がいないって話してくれた時、正直『羨ましい』って思ったの。まず最初に、そう思っちゃったの。()()()()()()()()()()()って、そう思ったの。だから――だから、」


 口の中が乾いて、唇の動きが空回りする。


「……だからきっと、バチが当たったんだよ。だから――これは、あたしのせい。神室君のせいなんかじゃないよ」


 修一は無言で立ち上がると、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出してキャップを緩めて翠に渡した。


「……今もね、あたし、どこかで喜んでる。お母さん、()()()()()()()()()んだって、そう思ってる。――悲しいんだよ? 涙だって、ウソじゃないよ? ……でもあたし、嬉しいって気持ちも、持ってるんだ。肩の荷が下りたって、思ってるんだ。――最低、だよね。こんなの……」


 翠は衝動的にボトルの水を喉に流し込む。久々に通り過ぎる冷たい液体の感覚に喉が耐え切れなかったのか、咳込んで水をこぼしてしまった。

 修一が手早くタオルを持ってきてくれる。幸い、ベッドはさほど濡れていなかった。まずそれを拭き、口周りを拭っていると、シーツにできた染みの上にまた水滴が落ちた。補給した水分がそのまま流れ出るように、涙が流れていた。翠はタオルをぐっと目に押し当てた。


 ……翠の家庭の事は、簡単にだが村田から聞いていた。親がいなくて羨ましい、か。……そんな事を言われたのは、初めてだ。哀れみや、慰めの言葉ならば、数限りなく言われてきたけれど。


 両親の事は、正直あまり憶えていない。忘れかけている、というのが正確かもしれない。いない時間の方が長くなってしまった今は、むしろそれが自分にとっての『当たり前』になってしまった。けれど、本来は両親がいる方が、『当たり前』なのだろう。


「……親がいるのといないのと、どっちがいいんだろうな」

 修一は、呟いていた。「……まぁ、親によるんだろうけどな。――結局、人それぞれだろ」


 ペットボトルの蓋を閉め、翠の傍に置く。


「片桐さん、色々と凄く、頑張ってたんだよな。……気づかなくて、ごめん。でもさ、店長が言ってたよ。それは本来、片桐さんがする必要のない頑張りなんだって。……俺も、そう思う。だから――いいんじゃないか。少しくらい、嬉しいって気持ちがあったって、いいんじゃないか。だから――」

 修一は一瞬、何と言えば良いのか迷った。「だから――その、お疲れさま」


「やめて!」

 翠はタオルを一層強く押し当てて、俯いた。「……やめてよ。優しい言葉なんて、かけないでよ……」


 正直、かけて良い言葉だったかわからない。聞きようによっては、上から目線の酷い言葉だったかもしれない。それでも、慰めでもなく、励ましでもなく、ただ、労いたかった。その為の言葉だった。


「……ねぇ」

 しばらくの沈黙の後、翠が口を開いた。「……これから、どうしたらいいのかな。……どうすれば、いいのかな」


 母親の事、家の事。色々とやらなければならない事があるだろう。それは修一にも分かるが、具体的に何をすれば良いのか検討もつかない。翠が言っているのは、それ以上の意味もあるのだろうが。


「とりあえず、店長に相談だな。――知ってるんだろ? あの人ああ見えて、結構エライ人らしいんだぜ。……相談してみる価値は、ある筈さ」


 普段の言動を見るに不安になる部分もあるが、翠の家の事情も知っているし相談相手としては最適だろう。


 しかし翠は上目遣いに修一を睨みつけると、


「……あの、さ」

「うん?」

「……こういう時はね、『俺のそばにいればいい』とか言ってくれればいいの! 女の子はね、そんな事務的な答えなんかを訊いてるんじゃないんだから!」

「えぇ……」


 ――そんなキザなセリフ、恥ずかしすぎて言えるわけないだろう。そもそも、俺に全く似合わない。


「でも――ありがと。事務的な事、大事だもんね。頼るとしたらあの人、か」

「だ、大丈夫だよ。イザという時は、頼りになる人だし」


 改めて確認されると、自信が無くなってくる。


「……あの人、スポーツバッグに何か入れてたんだけど――知ってる?」

「バッグに……?」


 嫌な予感が迸り、修一は隣の部屋に置いてあるバッグを持ってくる。


「――見ていいか?」


 翠が俯いたまま頷くのを確認して、中を覗く。――特に、変なものは無い。と、外にファスナー付きのポケットがある事に気付いて恐る恐る開けてみる。そして……思わず目を覆った。中に入っていたのは、数枚の避妊具――つまり、コンドーム。


 ――何やってんだ、あの野郎!


 せっかく人がとりなそうとしていたのに……。()()をポケットの奥底に沈め、ファスナーを閉める。バッグを脇にやろうとして、ふと思い出した。


「あのさ、これ……」


 不自然に重たかったスポーツバッグ。その底に入っていた、大きな箱。顔を上げた翠が、目を見張った。


「それ――入ってたんだ」


 その箱は、修一も見覚えがあった。以前、翠と屋上で会った時に持っていたもの――トランペットのケース。おそらく村田が入れたのだろう。


「知らなかったの?」


 翠は頷いて、壁から離れてベッドの端に移動する。そして修一から渡されたケースを膝に乗せ、表面を優しく撫でた。


「……いい、人だね」

「店長が?」

「うん」


 まぁ――時に悪ふざけが過ぎるが、確かに悪い人では無い。それにとりあえず、翠の信用を得る事には成功したようだ。


「………ねぇ」

「ん? どうした?」


 翠は少し躊躇するように目を泳がせていたが、


「あの……ちょっと、お腹空いたかなって」


 修一が思わず吹き出すのを見て、翠は顔を赤くする。


「待ってろ。何か作ってやる」


 そう言って、修一は立ち上がる。


「え? ――神室君、料理するの?」

「そりゃまぁ、一人暮らしだし、最低限はね。――あんま、期待されても困るけどな?」


 米を炊いておいて、正解だった。味噌汁と――後は、冷蔵庫の中を見て適当に作るか。……念の為、肉類は避けておこう。


 冷蔵庫には卵が数個と、数種の野菜。


「卵、食べても大丈夫か?」


 こちらをおずおずと覗いている翠に声をかけると、小さく頷く。


 ……とりあえず一安心、かな。


 まずは味噌汁を作ろうと鍋を取り出して水を張りながら、修一はほっと息をついた。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝、部屋のチャイムが鳴った。修一が出ると、仏頂面をした村田が火のついていないタバコを咥えて立っていた。


「――よう。ゆうべは おたのしみ でしたか?」


 修一は部屋の中を振り向き、


「な? 言ったろ? 予想通りだ」

「――ホントだ!」


 村田は首を伸ばして奥の部屋で口を押さえて笑いを堪えている翠の姿を確認し、修一に向かって声をひそめる。 


「おい、何したんだよ。……ホントに、ナニしたのか?」

「んなワケないでしょ、いい加減にしてくださいよ。――これ、返しますからね」


 修一が村田のジャケットのポケットに例のコンドームを突っ込む。村田はそれを取り出すと、


「おい、これ数が――」

「あの! 俺は、行かなくていいんですか?」


 村田の言葉を遮るように修一が言うので、村田は口をつぐんでポケットにしまう。


「……お前さんが来ても、出来ることはないよ。今日はお嬢さんに話を聞いて――もし大丈夫なら、現場検証に付き合って貰いたいってとこだな」

「現場検証? って、もう終わったんじゃ?」

「第一発見者に立ち会って貰うっていうのは、基本なんだよ」

「でも……」


「大丈夫だよ、神室君」

 翠が歩いて来て言う。「私、もう大丈夫。――何か、持って行った方がいいものって、あるんですか」


「まぁ、貴重品程度かな。今後の事とかも話さなきゃならんが、そんなに、遅くはならないようにするさ。もしかしたら、今日もここに泊まってもらうかもしれんが――いいよな?」


 最後は2人に向けて言った言葉だ。


「まぁ……片桐さんが、良ければ」

「……神室君が、迷惑でなければ」


 そう言って、ふたりは顔を見合わせる。村田はニヤッと笑い、


「じゃ、お互いヨシって事だな。青春だねぇ。――やっぱりコレ、持っておくか?」

「……いい加減、セクハラで訴えられますよ?」

「適度なセクハラは、コミュニケーションの潤滑剤として必要不可欠なんだよ」


 村田は修一の肩を叩き、階段を降りていく。下には見覚えのあるバンが止っていた。


「それじゃ、荷物、置かせてね」

「ああ、了解」


 翠は靴を履き、振り返った。


「じゃあ――行ってきます」

「……行ってらっしゃい」


 何となく気恥ずかしくなって、顔を見合わせて笑う。翠は軽く手を振ると、ドアを閉めて、階段を降りていった。


 ――だがその日、翠が河合荘に帰って来る事はなかった。

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