5.検証
――酷いものだ。
村田はため息をつく。
これまで、数えきれない程の凄惨な現場を見てきた。だがここまでのものは、記憶に無い。
遺体の回収と現場検証がようやく終わったが、部屋中に飛び散った血糊はどうしようもない。おそらく、回収しきれない細かい肉片も残っているだろう。今でも酷い臭いだが、時間が経てば経つほどさらに酷くなるに違いない。
「――窓を開けるワケにもいかんしな」
部屋を見回し、少し開き気味になっているカーテンを閉める。ビニールで包んだ靴の下で、血が乾きかけた絨毯の固い感触と、まだ濡れた部分から液体が滲む感覚が伝わってくる。出口を振り返ると敷島倫子が立っていた。
「……遅かったじゃないか」
「あたしにも事情ってものがあんのよ」
倫子はそう言うと顔をしかめて鼻を覆う。「……酷い臭いね」
人間より感覚の鋭いビーストには、より耐え難いのだろう。
「汗、尿、人糞、残飯、様々なものの腐敗臭、それと血糊に――ビーストの臭い」
村田は頷く。
部屋は窓も含め内側から施錠された密室状態。そして、人間業とは思えない程の遺体の損壊状況からして、ビーストの仕業である事は間違いない。そもそも被害者はここ数年引きこもりで、家から出た事も無いという。殺される理由が無いのだ。強盗と出くわした? 誰が強盗に入るというのだ? 庭は荒れ放題、中も生活に必要な部屋以外は、ほぼゴミで埋め尽くされているようなこの家に。
「それにしても、この部屋だけじゃないのね、酷いのは。――知ってたの?」
「前に、監視をつけた時があったろ。コンビニで襲われた時。……その時、部下から報告されてな」
村田は肩をすくめ、「何かしら問題があるのは明白だった。――けど、立ち入れないだろう、部外者なんだし。あの時はできるだけ遠ざけたかったしな」
「――あんたの事だから、どうせ調べたんでしょうに」
「……察しの良すぎるビーストさんは、嫌われるぜ」
倫子の言う通り、村田は片桐翠の身辺調査という名目でこの家の事情をある程度把握していた。だからこそ――こうなる事を予測できなかったのか。こうなる前に、何かできなかったのか。表には出さないが忸怩たる思いがある。まさか、母親が殺されるとは。
二人はダイニングへと移動する。まだここは、臭いがマシだ。
「あたし、こういう事が出来る能力を持ってるビーストに心当たりがあるんだけど」
「奇遇だな、実は俺もなんだ」
――エル。空間に隙間を作り、結界の中と外を自由に行き来できる能力を持つビースト。その能力ならば、密室に入る事など造作もないだろう。
「やっぱり、奴が脱走して直ぐのこの事態は――」
「偶然なわけないでしょ、常識的に考えて」
倫子は不機嫌そうに腕を組み、「まぁ、あいつの片割れって可能性もあるけどね。どっちにしても、権瑞が絡んでいるのは間違いないわ」
やはり、そう考えるのが自然だろう。だが片桐翠の存在をどうして知ったのか。
「それは……やっぱり、サキでしょうね。権瑞がサキの記憶を見た可能性は高い。存在が知れれば、家を調べるなんて簡単でしょう」
「状況証拠は、完璧だな」
いずれにしても心配なのは、あの二人だ。今は外のバンの中に居てもらっている。しかし気になるのは――。
「あなたの気にしてること、当ててみましょうか」
「……何だよ」
「本当は、片桐翠が狙われたんじゃないかって、そう考えてるんでしょ」
正に図星だった。
「まぁな。だってその方が、自然だろ?」
「――分かってないわね。無理も無いけど」
倫子はため息をついて首を横に振る。「権瑞って男は――ビーストはね、どうしたら相手が一番苦しむのか、ってのをとことん突き詰めるのよ。片桐翠を殺してしまったら、そこで終わり。でもその親を殺せば子も苦しむし、それを見て修一も苦しむ。ずっと、苦しみ続ける」
「……だから、親を狙ったって?」
「まず間違いないわね。――死亡推定時刻だって、あの子達が学校にいる時間でしょ? それくらい、権瑞も把握してるわ」
村田は無性にタバコが吸いたくなった。
「分からん話じゃないが……確証はないさ」
今度は監視でなく、『護衛』が必要になるかもしれない。
「片桐翠については、精神的な事の方が心配よ」
「――へえ、珍しいな。あんたがそんな心配してくれるなんて」
「あんたは忘れてるかもしれないけど、」
倫子はひっつめ髪を後ろへやり、「一応あたし、あの子達の高校の保健教師だからね」
とりあえず、額面通りに受け取っておこう。確かに片桐翠が心配だ。何しろ実の母が文字通り八つ裂きにされたのを目にし、さらに机に置かれた、首だけになった母と正面から向き合ってしまったのだから。
「……とりあえず今は若いもんに任せるしかない、かな」
◇ ◇ ◇
話題にされていたその若いもんは、落ち着かなかった。狭い車内に二人きり。後部座席に並んで座っている。翠は頭から大きなタオルを被って俯いたままだ。先程迄ずっと、泣いていた。声を出さず、涙だけが時おり床に伝い落ちていた。今は、止まっている。少しは、落ち着いてくれたのだろうか。
連絡を貰った修一だったが、翠の家の場所を知らなかった。そこで村田に一報を入れて住所を訊きだし、倫子にも連絡して急行したのだ。家の外観に驚かされ、中に入ってまた驚き、翠の様子に困惑して、現場の部屋を見て、凍り付いた。
訊きたい事は、山ほどある。だがそれ以前に――謝らなければならない。自分と関わらなければ、こんな事にはならなかった。つまり原因は、自分に有るのだ。謝って済む事では既にないのは分かっているが、それでも――。
修一は座席に寄りかかり、天井を見る。
何と、声をかけたらいいのだろう。頭の中でシミュレーションをしようとするが、それすらうまくいかない。結局、無言で座っているだけになる。
いや――しっかりしろ、俺!
下手の考えなんとやら、だ。とにかく何か声を――。
突然バンのスライドドアが勢いよく開き、修一は悲鳴を上げて飛び上がった。
「何だぁ? そんなに驚いて。なんかイカガワシイ事でもしようとしてたんじゃねぇだろうな」
タバコを咥えた村田が立っていた。言葉の軽さとは裏腹に、笑顔は無い。
「するわけないじゃないじゃないですか。こんな時に」
ふーん、と村田はタバコをくゆらせ、ま、お前はそういう奴だよな、と呟きながら奥を覗き込んだ。
「そういや、先生は?」
「帰ったぜ。何でもこれから作戦会議だとさ」
「……俺は?」
「知らん。呼ばれて無いなら、いいんじゃないのか?」
慌てて端末を確認するが、メッセージも入っていない。
で、どうなんだ、と村田が視線で訊いてくるので修一はかぶりを振る。村田は顔をしかめると外に煙を吐き出して、手招きをした。
「とりあえず、今出来ることは終了だな。本当は、お嬢さんの話を聞きたい所なんだが……さすがに今直ぐは、な」
翠は村田の言葉が聞こえているのかいないのか、全く反応が無い。
「――で、問題は今夜どうするかってことなんだが」
気が付くと、外はすっかり暗くなっていた。虫の音が聞こえてくる。
「今夜って……」
言いかけて気付いた。翠をあの家に戻すのか。それはさすがに酷すぎる。それ以前に、こんな状態で一人でいさせるのも不安だ。少なくとも今夜位は誰かが一緒に――。
「と、いうワケで河合荘に泊めてやってくれ。頼むぞ」
村田は修一の肩を叩く。
「……はぁ!? いやいや、さすがにマズいでしょそれは」
一体何を言い出すのかこの大人は。
「マズイって、何が」
「いやその――高校生の男女が二人きりで泊まるなんて――」
「じゃあ俺の所に泊まらせろってか? いくら職務上とはいっても、それはいわゆる事案だぞ? お前、俺の人生をダイナシにしようってのか? そんな事されたらオレ泣くぞ? 今泣いちゃうぞ? いい歳したオッサンが公道で人目もはばからず、大声で泣いちゃうぞ?」
「どんな脅迫ですか、それ。――そうじゃなくてホテルとるとか、付き添える女の人だって、いるでしょ?」
「――あのな、」
急に村田の声のトーンが変わり。修一は口を閉じる。
「彼女は、一番最初にお前に助けを求めてきたんだ。他の誰にでもない、お前に、だ。――だったら、応えてやれよ、男として」
村田は拳で軽く修一の腹を小突く。修一は、ため息をついた。
「……その指の形さえなければ、いいセリフだったんですけどね?」
「ま、あまり深く考えんなよ」
村田はニッと笑い、人差し指と中指の間に挟んでいた親指を戻す。「今日くらい、一緒にいてやれ。お前には、その義務がある。――お嬢さんも、それでいいよな?」
それまで微動だにしなかった翠の頭が、少しだけ上下に揺れた。
「――よし。じゃあ、送っていってやる。明日朝、迎えを寄越すよ。それで大丈夫だったら、話を聞かせてくれ」
村田は大きなスポーツバッグを翠の脇に置く。「お前さんの着替えとか一式だ。部屋にあったのを入れてきた。ちゃんと女性にやってもらったから大丈夫だと思うけど……中、確認するか?」
今度は頭が横に振れた。
「ま、何か足りないものがあったら、修一に買いに行かせりゃいいさ」
村田は運転席に座る。修一も慌てて乗り込み、ドアを閉めた。ゆっくりと、車をスタートさせる。
――そういえば、明日は土曜日か。
カーナビの表示を見ながら、村田はふと思った。
おそらく今日の片桐翠は、眠る気にもなれないだろう。それでも明日には、話を聞かなければならない。
……明日が土曜で、幸いだったな。慰めにも、何にもならないが。
ミラーで後部座席を確認しつつ、村田はバンを走らせた。