4.急転
原付に跨り、信号待ちで止まった片桐翠の前の横断歩道を、一組の母娘がゆっくりと通り過ぎる。2、3歳程の子供は力いっぱい右手を上に伸ばして、左手を母親に引かれつつ何度も左右に首を振っている。
……右を見て、左を見て、お手てをしっかりとあげて、横断歩道を渡りましょう、か。
誰かに言われた事を、素直に体全体で表現している。こちらを向いた瞬間に少し手を振ると、子供は笑って、上げたままの右手を大きく振った。
――私にも、あんな頃があったのだろうか。
信号が変わると同時にアクセルを回しつつ、翠はふと思う。母親と2人でいれさえすれば、幸せ。そんな頃が。
父が、家を出ていったのは翠が中学1年の時。気付いたら、学校から帰ったら、いなくなっていた。そんな感じだった。その夜、何も知らない翠に向かって、母は言った。
「お父さん、出て行っちゃった。……オーケストラも、辞めちゃったって」
父の部屋に入ってみると、棚に置かれていた筈の父のトランペットケースが無くなっていた。それだけなら、よくある光景だ。父は、演奏会が行われる週末にはしょっちゅう家を空けていたからだ。だが、違う事が1つあった。机の上に、翠が初めて見るトランペットケースが置かれていた。開けてみると、中には父が予備で使っていたトランペットが入っていた。幼い頃、トランペットを吹きたい、と父に言った時の嬉しそうな表情を、今でも憶えている。全部大人の歯になったらね、と頭を撫でられた。
その事を、憶えていてくれたのだろう。だが、嬉しいという感情は一切湧いて来なかった。……それは明らかに父からの置き土産であり、戻ってこないという決意の現れというのが、分かったからだ。
その日から、母娘二人での暮らしが始まった。当然かもしれないが、最も変わったのは――変わることを強いられたのは、母だった。翠にこれまでと同じ生活をさせる為に。それまで専業主婦だった母にとっては、正に激動だっただろう。必然的に、家の中の事は翠の担当になった。炊事、洗濯、掃除、買い出し。正直に言って、翠はそれを辛いとは思わなかった。範囲は広がったものの、それまでも母を手伝ってやっていた事だからだ。
それでも――確実に、変化の弊害は、現れていた。
母と、言葉を交わさなくなった。朝は無言で翠が出した朝食をかっこみ、家を出ていく。夜は、外で食べてくる。帰宅も遅く、何度か起きて待っていようとしたのだが、気付いたら朝になっていて諦めてしまった。週末も別の仕事を入れて、出かけていく。翠も中学で入部した吹奏楽部の活動で、週末も出掛ける事が増えた。結果、殆ど顔を合わさなくなっていた。
そして、ある日。突然、母は壊れた。
朝になってもダイニングに来ない。会社が休みなのか、それとも病気か。母の部屋に行くと、ベッドに横になっていた。話かけても、返事が無い。布団をめくって、愕然とした。そこには赤ん坊のように体を丸める母の姿があった。その体は絶え間なく細かく震え、血が滲むまで親指の爪を噛みしだき続けていた。
2、3日寝て休めば、以前の母に戻ってくれる。そう思っていた。願っていた。
だが、数日後にダイニングに現れた母は、以前とは全く違ってしまっていた。寝間着のままで椅子に座り、翠が用意した食事に手を付ける事なくテーブルから払い落とした。眼に生気が無く、焦点も合っていない。
「……馬鹿にして」
震える口が、細かく動いていた。「皆、私を馬鹿にして!」
聞き取れたのは、それだけだった。母はふらつきながら自室に戻ると鍵をかけ、翠が何度声をかけても返事すらしなかった。
さらに母の暴走は続いた。家にある食料を、手当たり次第に食べてしまう。あればあるだけ、食べてしまう。食料を入れた棚に鍵をかけてみたが、学校から帰ると棚は何かで破壊され、床はその破片と、食べ残しのカスと包装ゴミで酷い有り様になっていた。食料が無いと分かると、暴れ始める。奇声を上げて、家の中のものを壊すのだ。大人しくさせるには、食べさせるしかない。結果、スレンダーだった母の体型は見る影もなく肥え太り、滅多に風呂に入らなくなった全身からは異臭を放ち続けた。
翠がそれでも普段の生活を――少なくとも対外的には――続けたのは、意地だった。
私は、あんな風にはならない。
父を恨む気にはならなかった。どうやって稼いだのかは知るよしもないが、毎月母娘が暮らすには十分な程の金額が口座に振り込まれている、という事を知った事もあったが、身近にいる母への怒りの感情の方が大きかった。
次第に、家の事は最低限で済ますようになった。そうするしか、できなくなった。ガレージのシャッターや門扉は錆付き、庭の草や樹木は伸び放題になった。家の中も、掃除をするのは生活に必要な場所のみ。2階には、ここ数年足を踏み入れてもいない。
学校の友人達と同じように身だしなみに気を遣い、部活も続けた。進学する高校を決め、勉強をした。全て、自分で決めた。頼れる大人など、周りにいなかったから。
……進学を、どうしようか。
学校に進学希望は出したものの、翠は考えあぐねていた。……お金は何とかなる。成績も、自分次第だが選択肢は幾つかあるだろう。音楽関係は、難しいだろうが。金銭的にも――実力的にも。今の状況を言い訳にするつもりはない。だけど――自分は、本当に本気で楽器をやっていたのか、と言われると自信が無い。
「翠は耳がいいから、きっと上手になるよ」
昔、父に言われた事を思い出す。だが何年も続けていれば、才能の有無は耳の良さなどではない、という事を否が応にも思い知らされる。もう十二分に、思い知らされたのだ。
トランペットは、好きだ。だけどもうそこまで、拘る必要もない。
「……そうだよ」
家に到着し、原付のキーを抜きながら翠は独りごちる。普通の大学に行き、普通の人生を送る。それ以上、何を望む事があるだろうか。
家に入り、台所を確認する。――と、冷蔵庫に入っている食料が、手付かずで残っていた。……珍しい。母は、翠が不在の間に家を物色し、食料を漁る。冷蔵庫の中のものは、あえて置いてあったものだ。
母の部屋に向かう。相変わらず、空気が冷えている。
「……?」
翠は鼻をひくつかせた。元から、母の部屋からの異臭が漂っている空間だが、今日は何か、違う臭いがする。何だろう、生臭いのに加えて、錆びた鉄の臭いのような……。
ドアをノックする。反応は無い。
「――お母さん」
できるだけ無表情に、言葉を出す。「お母さん、大丈夫? ――何か、あった?」
静寂は、変わらない。
――おかしい。
冷え切ったドアに耳を当てる。いつもなら、何かしらの音がする筈なのだ。足音や、うめき声、ベッドの軋み、衣擦れ。だが今は――何も聞こえない。エアコンの室外機の音だけが、静かに伝わってくる。
ノブを捻るが、予想通り鍵がかかっている。他の部屋はスプーンの先で捻れば開いてしまう程度のものなのだが、ここだけは母がいつの間にか専用の鍵が無ければ開かないものに変えてしまっている。合鍵も無い。
「お母さん? 返事して? 大丈夫?」
激しくドアを叩く。いつもならここまですると、怒りを込めた何かが内側からドアに投げつけられる筈だ。だがそれもない。
――中に、入らないと!
翠は一度その場を離れ、何年も開けていない棚を探る。父が使っていた工具箱が入っていた筈だ。さほど迷わず発見できたその中から、金槌を取り出して戻る。金槌を握るその両手が、震えているのが分かる。翠は振りかぶると、思い切りドアノブに叩きつけた。ドアノブを壊せば鍵が開くのかは、分からない。そこまで考えていなかった。ただ目の前にある障害物を破壊しなければ、という気持ちだった。
何度か叩くと、ノブが根元から折れた。――が、ドアは開かない。むしろ持つ部分が無くなり、開けづらくなったといっていい。だが邪魔がなくなったことで、鍵があるだろう部分を直接叩けるようになった。今度は直接、そこを叩く。木がえぐれ、金属が見えてくる。何度か金属を叩き、これ以上は無理と判断して金槌を置く。
後は――体当たりだ!
2,3度体当たりをすると、叩いて抉れていた部分の金属が徐々にズレてくる。
――もう少し!
息を整え、勢いをつけて体当たる。と――金属が弾け飛ぶ音と共にドアが開き、翠は部屋の中に倒れ込んだ。同時に、翠の全身を異臭が包んだ。それまで微かだったものが、確実な、強烈なものとなってそこにあった。反射的に手で鼻を覆おうとして、それが何かで濡れている事に気付いた。色がついている。黒い……インク?
部屋はカーテンが閉められており、薄暗い。それは母が引きこもって以来、開けられた事は無い。でも電気がついていた筈だが……。立ち上がり、濡れた手で壁にある筈のスイッチを探る。
電気は、付いた。次の瞬間、翠はその場に立ち尽くした。自分の手が血で濡れている事にも、触れた壁のスイッチにその跡がべったりと残っている事にも、気付かなかった。部屋の奥に、机と椅子があった。その机の上に、母がいた。母の姿を、翠は見た。見てしまった。
ゆっくりと後ずさりながら部屋を出た翠は、駆け出そうとして廊下に座り込んだ。脚が震えて、立てない。脚だけでない。全身が震えていた。強烈な吐き気を催し、その場で吐いた。開け放したドアからの異臭が広がってくるのが分かる。必死でポケット探り、スマホを取り出した――が、そのまま床に落としてしまう。手が震えて、持てない。床に置いたまま、何度もしくじりながら何とかロックを解除して、通話アプリを起動する。呼び出し音が鳴る。
……出て。……お願いだから、出て!
『――もしもし』
パッと画面が切り替わり、戸惑い気味の修一の声が聞こえた。『えーっと、もしもし? あれ? 片桐さん……でいいんだよな?』
声が、出ない。出せない。乾いた唇だけが、金魚のように無音で開閉を繰り返す。涎をすすり、酸っぱい唾を飲み込む。
「……く……ん」
『もしもし? ――片桐さん? ……どうかした?』
「か……む、ろ……くん……」
『片桐さん? どうした? ――もしもし!』
修一の声に緊張が走る。『何があった? 今、どこにいるんだ? もしもし!』
「かむろ……くん。かむろくん……」
声が出ると同時に、涙が流れた。スマホの上に、雫となって落ちる。
「神室君……神室君…………」
声は次第に嗚咽となり、言葉にならなくなった。