1.逡巡
「真正面から相手にぶつかる。それは確かに正しく、美しい行為だ。賞賛に値する。――が、同時にどうしようもなく愚かで、馬鹿馬鹿しい行為でもある。そうは思わないかね?」
はぁ、とアルは生返事を返す。……どうせ、こちらの反応など気にしてはいまい。こいつはいつもそうだ。気まぐれにやってきて自分の結界に取り込み、自分勝手に演説をぶち、命令を下して去っていく。気に喰わない。――全く気に喰わないが、実力の差は、如何ともし難い。特に今は何をやっても敵う事がないのは、わかっている。
「――私はね。ただ単に、目的を達成するためだけに行動するなんて真っ平だ。そんな事をするのは、馬鹿の極みだ。回り道にこそ、楽しみがある。回り道をするからこそ、得られるものがある。君なら理解できるだろう? だからこそ、色々お願いをしたのだよ」
「ええ、全く。あなたの言う通りですよ、権瑞さん」
態度とは真逆の言葉を返す。……どうせ、本人はこの場にいないのだ。見てもいない可能性だってある。いや、むしろその可能性の方が高い。したくもない笑顔など、サービスする必要もあるまい。
「それで? ――次はどう動くんです?」
「まぁ、そう急ぐな。……準備は整った。焦ることはない。もうすぐ、奴が動く。あとは、タイミングの問題さ」
……またか。相変わらず肝心な事は言わず、回りくどい言い方をする。
内心ため息を付く。そもそも、何故一ヵ月近くも待つ必要があったのか。最大の障害だったあちらのビーストは、権瑞の計画通りに同士討ちという最高の形で始末できたのだ。それに乗じて一気に片を付けるべきではなかったのか。
「不満かね?」
投げかけられた言葉に、ギクリとする。
「――まさか」
「いや、不満もあるだろう。結果として君の片割れは囚われの身になってしまったのだからね」
「それは、納得の上でやった事ですんで……」
「そう言って貰えると、非常に嬉しいよ」
権瑞の言葉が少し弾む。「安心したまえ。苦労しただけの、楽しみがあるのは保証するよ。生きてるからには楽しまないと。なぁ?」
表情が眼の前に浮かぶような弾んだ口調の言葉を残して、結界と権瑞の気配は消えた。
やれやれ、だ。今度は一体どんな事を無茶振りさせられるのやら。だが――。
アルの口元に、無意識の笑みが浮かぶ。
それが楽しいというのも、また事実なのだ。
◇ ◇ ◇
9月になったといっても蝉は鳴き続け、完全にぬるまってしまった空気が冷える様子も全く無い。そんな全身にまとわりつくような空気をかき分けて、修一は校門を出た。
以前ならば放課後は真っ直ぐ理科実験室の結界に向かうのが定番だったのだが、2学期になってからは足が遠のいていた。理由は色々ある。一つはサクラの存在。
いや、彼女は悪くない。記憶の一部を引き継いだといってもサキそのものを知っている訳ではないし、無邪気に寄ってくるのも修一への好意からだと分かっている。だがその外見から、どうしても比べてしまう。罪悪感を持ってしまう。
だが最大の理由は、訓練するのが――自分がこれ以上ビーストとして成長するのが――怖い。
そんな事を言っている場合でないのも、分かってはいるが。倫子はいい顔をしないだろうが、訓練も別に強制ではないのだ。
と――。曲がり角を曲がったところで、前を行く人影が目に入った。あれは……片桐翠? 珍しいな、こんな時間に。
そう思ってから、吹奏楽部の3年は夏休みの大会で引退した、と聞いた事を思い出した。優勝には届かなかったが、皆精一杯やりきったと。満足げに語る翠の姿が、とても眩しく見えた。
声を掛けようか、と口を開きかけて――修一は黙って、それを閉じた。
「彼女には、あまり近づかない方がいい」
以前、サキに言われた言葉を思い出す。学校の中であれば、問題無いと思う。クラスメート、という関係であるからだ。だが校外で話すというのは、どうなのか。自意識過剰? そうかもしれない。けど――。
「見つけた! お兄ちゃん!」
突然後ろから掛けられた声に、仰天する。次の瞬間、視界一杯にサクラの顔が飛び込んできた。
「どこいくのよ? 訓練しないと、ママが怒るよ? あたしもだけど!」
言いつつ、満面の笑みを浮かべる。
「い、いや、今日一日位はいいかなって……」
「ダメよ! 確かにお兄ちゃんは強いけど、あたしはもっと強い筈だもの。まだ、慣れてないだけなんだから。――だから慣れるために、もっと訓練しないといけないの! お兄ちゃん以外に、誰が相手してくれるっていうの?」
「ママに頼めばいいじゃないか――」
「イヤ! お兄ちゃんがいいのっ!」
サクラは片腕で修一の腕にしがみつき、もう片方で結界への扉を出そうとする。
「バ、バカ! こんな所で出すな!」
普通の人間に扉が見える事は無いが、扉に入った瞬間その場から姿が消える、という超常現象が発生する事になる。誰が見ているか分からない状況で出すものではない、と倫子が口酸っぱく言っているのだ。
「あー! サクラの事バカって言った! もう許さないからね! 絶対、来てもらうんだから!」
「分かった! 分かったから! 扉を出すなら別の所で――」
「うん! わかったよ! お兄ちゃん!」
サクラはそばの路地へと修一を引きずっていった。
その様子を、翠は見ていた。……あれだけ騒げば、気付かない方がおかしい。
あの子。二学期から転校してきたという2年生。修一の仲間だという。つまり――ビースト。全く、普通の人間にしか見えない。……少し、言動はヘンなところがあるけども。
けど――羨ましい。
「羨ましい? 何が?」
自分がそう思った事に驚いて、思わず声が出た。
……何となく、避けられている。
そう、感じていた。元々、個人的な話しをするような間柄だった訳でもない。ビーストの件が無かったら単なるクラスメートの一人として、必要な時だけ最低限の会話を交わす。そんな、それまでと同じ関係のまま、卒業を迎えていたのかもしれない。
でも――。
翠は頭を振り、止めていた歩みを再び進める。
気にしなければいい。……そう。そうなんだ。
電車に乗り、最寄り駅からは原付に跨る。そこから約10分。丘の上に建つ、一軒家。翠は真っ赤に錆びたガレージのシャッターの前に原付を止める。ヘルメットを脱ぐついでに、夕暮れの空を見上げた。視界に広がる空の半分を、庭から伸びた松の枝が覆っている。……また、伸びてきてしまった。隣から文句を言われる前に切らなければ。
古びたコンクリートの階段を上がり、音を立てながら門を開ける。色褪せた玄関扉に鍵を差込み、ゆっくりと鍵をあけてノブを掴む。……この瞬間が、一番気が重くなる。
「……ただいま」
中は静まり返っている。翠はホッとして、自分の部屋に向かう。着替えると、まず台所に向かった。ダイニングテーブルの上を見る。いつもと同じ、散らかり具合。菓子パンの空袋や空き缶をゴミ袋に入れる。膨らんだそれの口を閉めて、隅に放る。既に積まれたゴミ袋の上に乗ったそれは、バランスを崩して転げ落ちた。一度ため息をついて、改めて落ちないように乗せる。
翠は台所を出て、1階の奥の部屋へ向かう。埃の溜まった廊下を辿り、扉の前に立った。何となく、空気が冷えている。部屋の中のエアコンが、相当強くかけられているのかもしれない。翠はゆっくりと、冷えた扉をノックする。
「……お母さん」
返事は無い。
「――お母さん? 起きてる?」
中からわずかに物音がした、と思った次の瞬間、ドン、と内側からドアに何かが投げつけられたような音と衝撃が響いた。
「……起きてるなら、いいよ。ごめんね」
翠は小さく息を吐くと、「夕ご飯置いたらまた、ノックするから」
反応は無い。翠は台所に戻ると、冷蔵庫を開けて中を確認する。いくつか、置いてあったものが無くなっている。
「……買い出し、行かないとな」
翠はそう呟くと、リュックを背負って玄関を開けた。既に周りは暗くなりかけている。
……日が落ちるの、早くなったな。
気付くと、草が伸び放題になった庭から虫の声も聞こえる。
翠は鍵を閉めるとヘルメットを被り、階段を下りて行った。