3.少女
――蹴られた? 獣は何とか踏みとどまり、一度頭を振ると正面を睨みつける。
そこには一人の少女が立っていた。セーラー服に蒼いピーコートを羽織った少女は、今しがた獣を蹴り飛ばした脚を収める。
「――何モンだ? 貴様」
獣の言葉には答えず、少女が一歩踏み出すと後ろの扉がスッと消えた。
「本来なら、戦いに介入すべきじゃないのは分かってる。けど、今彼を殺させる訳にはいかない」
そう言うと、少女は軽く身構えた。「だから、ここからは私が相手をする」
一瞬の静寂があったように思った。しかし次の瞬間、獣は咆哮と共に少女に向かって猛然と飛びかかる。しかし既に少女の姿は無く、境目の壁にぶち当たって跳ね返された。
「怪我は無い? 立てる?」
呆気に取られていた修一は、いつの間にか傍らに立ち、そして自分を片手で持ち上げているのが先程の少女である事実に気付き、さらに仰天した。慌てて地面に両足を付き、埃を払う。
「だ、大丈夫。怪我はしてない」
「そう、良かった」
少女は襟から手を放し、無感情に続けた。「――なら、ここから離れた方がいい」
そう言うや否や、身体を回転させる。少女の背後には、体勢を整えて再度飛びかかって来た獣の姿があった。が、目前で突如真横に吹っ飛び、地面に1度バウンドしてビルの壁に叩き付けられる。
少女が、獣に回転蹴りを喰らわせたのだ。さらにその勢いのまま修一の胸ぐらを掴むと、もう1回転して勢いを増し、獣とは反対方向のビルに向かって放り投げた。
「おい! マジか――」
叫ぶ間もなく、背中に伝わる衝撃とガラスの破壊音。さらに床に叩き付けられて壁にぶつかり、ようやく止まる。
少女はそれを確認すると、獣に向き直った。
身体の半分をビルの壁にめり込ませたまま、動かない。1歩踏み出した時、少女の左手首に巻かれている端末が甲高い電子音を立てた。
「何? こっちは取り込み中――ええ、問題無い。保護対象は確保した。――分かってる。目標を速やかに処分して――」
少女は足を止めた。
獣が首をもたげ、咆哮を上げた。凄まじい音圧が突風を起こし、少女の体を押し戻す。獣の眼から蒼い「何か」が溢れ出し、広がっていく。
「あれは……」
それを見た修一はここに来る前の出来事を思い出していた。確か、ここに来る前も男の眼から同じものが――。
「――まずい。目標が成長を始めた。一旦退避する。変身の許可を」
端末に答えるが早いか少女は後方に跳び、ビルの窓から覗いていた修一の胸ぐらを掴んで引きずり出した。
「移動する。掴まって」
改めて正面から少女の顔を見て、修一は気が付いた。
「君、さっき店に来た――」
「行くわ」
「え? どこに?」
修一の問いに答えず、少女は軽く身を屈める。――まさか、跳ぶってのか!
修一が少女の肩を掴んだ瞬間、少女は直上に跳んだ。しかし、屋上までは届かない。だが少女が腕の端末をいじったかと思うと、そこから飛び出したワイヤーが屋上の手すりを掴み、さらに勢いを増して二人の体を引き上げた。
全身にかかるG。必死に少女の肩にしがみつく。と――、突然力が抜けて、体が浮いた。何が起こっているのか、理解できない。さっきから、分からないことばかりだ! 愚痴る間もなく、落下が始まる。
悲鳴を上げながら落ちて来る修一の位置を、先に屋上に着地していた少女は冷静に見定め再び跳び上がる。位置、落下速度、全てが完璧な状態で修一をキャッチし、予め伸ばしていたワイヤーで振り子のように空を飛んだ。そのまま、別のビルの屋上に着地する。
フワッと、重力が無いかのような着地をした現実が信じられず、修一は動けずにいた。
「大丈夫?」
少女に話しかけられてようやく、自分が今所謂「お姫様抱っこ」をされている状態であることを認識し、慌てて少女から距離をとった。
「だ、大丈夫。ええと、君は――」
「サキ、でいい」
「あ、ああ。ありがとう。助けてくれて」
「別に。――言われたから、やっているだけ」
サキの言葉や表情には、感情が乏しい。だが少なくとも、自分よりは今の状況について何か情報を持っているようだ。しかし、何から訊いたものか。訊きたい事が多すぎて、頭が付いていかない。
その時、咆哮と共にビルが揺れた。
「来た。――下がって」
と、サキは側にある出入口を指す。修一は駆け寄って、シルエットになったドアノブを回すがビクともしない。
「畜生! 鍵が――」
「ちょっと待って」
次の瞬間、ドアが轟音を立てて奥に吹っ飛ぶ。「――ここに隠れて」
サキは蹴りを入れた足を軽く振る。
修一が身を隠した瞬間、ズズン、ズズン、という連続音と共に再びビルが揺れた。次いで、ビルの影から何かが飛び出してきたかと思うと、巨大な塊が屋上に落下する。
「あれって――」
「成長した。タイミングが悪かった」
一見、姿形は変わっていない。しかしその大きさが、先程迄とは全く異なっている。2倍? それ以上? 立ち上がったら、5mはあるだろうか。圧倒的に巨大化した野獣が、そこに居た。
「コロしてやる!」
野獣は血飛沫の交じった鼻息を荒く吹き出して、絶叫した。「殺してやるぞ! お前ら!」
「ここで待ってて」
サキはへしゃげたドアを軽く引き伸ばすと、バリケード代わりに修一の前に置いた。「すぐ、終わるから」
サキの口元が僅かに微笑んでいる様に見えたのは、気のせいだったのだろうか。何の気負いも無さそうに獣に向かって歩いていく。と、その左腕の端末が、電子音と共に光った。
サキは軽く拳を握り、端末を胸の位置に置いて言った。
「――変身」
その瞬間、端末から白い光が溢れ出た。眩しい輝きに修一は目を覆う。前面から放たれた光はサキの全身を包む。――それが消えた時、立っていたのはサキでは無いものだった。
全身が白銀の毛に覆われた、大きな獣。前屈気味になっているが、大きさは3m近くはあるだろう。頭部から背中にかけて鬣のように長く伸び、そのまま太い尻尾へと繋がっている。
両足で立つその姿は辛うじて人間を感じさせるが、鋭い爪が生え、節くれ立った巨大な掌。異様に伸びた前腕。大きく裂けた口蓋からは、鋭い牙が覗いている。その眼は完全な深紅。
これが――あの子なのか?
その変わり様に気圧されていた野獣は、意を決したように咆哮と共に突貫する。サイズの差は圧倒的に野獣の方が上なのだ。巨大な爪が、白い獣の上半身を削り取る――かと思った瞬間、野獣の頭部が上に弾き飛ぶ。白い獣が素早く身をかわし、野獣の顎を蹴り上げたのだ。次いで頭部の角に手をやると、一本背負いをするように軽々と抱え上げ、そのまま隣のビルに向けて放り投げた。
轟く衝撃音と、野獣の悲鳴。間をおかず、白い獣は勢いを付けて屋上から跳び出す。ビルに埋まった野獣は、苦しげな息をつきながら動かない。白い獣はその頭部に向かって、脚を先にして飛び込んで行った。
ドコン、と何かが破裂したような大音響が響き渡った。周囲のビルに反響して増幅し、修一は思わず耳を塞ぐ。
――そして、静寂。
修一はドアの陰から出る。何が起こったのかと手すりに駆け寄り、下を覗いた。
そこには、頭が無くなった野獣の体だけがあった。断面には蒼い「何か」が蠢いているのが見えたが、以前のような勢いは無く、空中に霧散してゆく。やがてそれは野獣の体全体に広がり、消えた。野獣の姿そのものが、消えてしまった。
「行きましょう」
突然の背後からの声に仰天して、振り向く。そこには、サキが立っていた。獣ではない、サキが。その顔には、血がついている。いや、果たして血なのだろうか。あの野獣のものと思われる蒼い液体のようなもので、全身が染まっていた。
「え、ええと、あの――」
「説明は後。早くしないと、戻れなくなる」
サキは顔の液体を拭いながら言う。
「戻る? 戻るって――」
「元の、あなたが居た場所」
サキはそう言って、自分の背中を指す。また掴まれって事か……。覚悟を決めて修一が掴まると同時にサキは飛び出し、地面へ降り立った。
「入ってきた場所でないと、扉を開けないから」
その時、地鳴りのような音が響いた。空を見ると、蒼い色が薄まっているように感じる。
「――急いで!」
二人は脱兎の如くに駆け出した――が、気が付くと修一の体はサキの脇に抱えられていた。まるでジェットコースターに乗っているかのように、周囲の光景が後ろに流れていく。ビルの壁等を利用して何度かターンをすると、正面に何かが見えた。
――扉?
修一は初めて見たが、一度消えた筈の扉が再び現れていた。サキは躊躇無くその扉を蹴り開け、飛び込んだ。
眩しい光が溢れた――と思った次の瞬間、扉の先は、闇。
え? と思う間もなく2人の体は落下を始める。叫び声を上げながら、修一の意識は遠のいていった。