3.取引
「取引? ……どういう事だ?」
気が付くと、銃口は下がっていた。
「私、強くなりたいの。……ならなきゃダメなの。今のままじゃ、ダメなの。ビーストが強くなるにはどうすればいいか、あなた知ってるでしょ?」
「……ビーストと戦って勝つ、だっけか」
「正確には相手の心臓を食べるってこと。けど――私、どう思う?」
アトは腰に手をあててポーズをとる。小学校低学年のような外観だが、制服のような姿のせいか、何となく様になっているように見えるのが不思議だ。
「どうっ、て……子供?」
「そうなのよ! 不公平だと思わない? 何で私だけ……という事で、取引よ。私を、助けて欲しいの」
「助ける? 一緒に戦えとでも?」
アトが眼を輝かせたのを見て、村田は慌てた。
「待て待て。俺は純粋な人間だぞ? 人間は、結界に入れねぇ。それでどうやって助けろってんだ? 結界の外で戦うってなら、むしろ敵に回るぞ俺は」
アトは満足そうに微笑むと、鼻穴を広げて胸を張った。
「それは心配ご無用! 私も、ただのビーストじゃ……っていやまぁ、とにかく助けてくれるって事でいいんだよね?」
「……出来るってのならな。けど取引ってなら、俺にも何か利益が無いとな。それは?」
「私を助けてくれれば、ビーストをその都度退治できるよ。これぞ一石二鳥! じゃない?」
言葉憶えたてにしては、語彙力ありすぎだろう……。
「最終的には、お前を退治する事になるかもしれんぞ?」
「だいじょぶじゃない? 私、人間なんかどうでもいいし。邪魔とかさえされなければ、別に何もする気無いよ? 人間に迷惑かけなきゃ、別に退治されないでしょ?」
……他のビーストだって、人間に迷惑をかけないものも居るだろうが。
常識的に考えれば、リスクがありすぎる提案だ。どこまでが本気でどこまでが冗談なのか。外見が子供で、言動も無邪気なだけにタチが悪い。上の判断を仰げば、即座に却下されるだろう。だが――。
村田は銃口を完全におろし、安全装置をかけた。
これは、チャンスかもしれない。敷島倫子以外のビーストを味方に付けるという。……どこまで期待して良いのかは、分からないが。
「取引成立、かな?」
「……ああ。だけど、あくまで俺個人とだ。それで良けりゃ、な」
「いいよいいよ! 私はあなたを見込んだんだし! じゃあ、何て呼べばいい?」
「俺か? ……俺は、村田だ」
「分かった! ムラタね! じゃあ、これから宜しくね!」
――分かってんのかな? コレ……。
クルクルと踊るように回りながら笑顔を浮かべるアトを見ながら、村田は何だか騙してしまったような複雑な気持ちだった。
……しかしまずは、もう一体のビーストだ。
頭を振って、気持ちを切り替える。確かアトは「知ってる」と言っていたが。
「――それで? もう一体の奴はどこへ行ったんだ」
「ああ、それ? 大丈夫だよ」
アトはそう言って、上を指した。「もう、来てるから」
見上げようとした瞬間、村田の体はアトに抱えられてその場から飛びのいていた。と、つい先程まで二人がいた場所に凄まじい勢いで黒い物体が落ちてきた――と思うと、音もたてずに地面に降り立った。
あの勢いで落ちてきて、一切の物音を立てないだと?
灰色の獣毛に覆われた体。異様に伸びた腕に、バネのようにしなる脚。
――巨大な、猿の化け物。
見た瞬間、そう思った。
「結界も展開せずに襲って来るなんて、相当混乱してるみたい」
ビーストが、こちらを見た。こちらというか、対象はアトだ。
「じゃあいくよ! 捕まっててね!」
「いくって――」
どこに、という前に反射的にアトの肩を掴んだ。次の瞬間、目の前が蒼転した。
「おいおい……何だよ、これ」
全てがシルエットになった、蒼い世界。……これが、結界か。
「っていうか、何で俺が結界に入れるんだよ?」
アトの力によるものだろうが。
顔を見ようとして、肩に振れていた筈の手の感触に違和感を覚えた。
「うおっ!」
触っていたのは、白銀の獣毛。獣は村田を見上げると、その蒼い眼を細めた。
「どう? これが私の本当の姿」
獰猛にしか見えない獣の姿に幼女の声、というのが違和感しかない。
自身の体を探り、拳銃がある事を確認して安心する。
「……落ち着いてるのね」
「まぁ、いい大人だからな。俺も」
いや、嘘だ。興奮――高揚している。未知に足を踏み入れた事への、喜び。
改めて、変身したアトを見る。
「……小さい、な?」
変身前より大きくはなっているが、それでも村田の肩位までしかない。
「だから言ったでしょ?」
獣は――アトは肩をすくめる。「大きい方が、絶対的に有利だもの。この姿じゃね」
「勝てば、大きくなるのか」
「さあ? やってみないと」
そういえば――あの大猿はどこへ行ったんだ?
「……いるよ。こっちを見てる。あなたがいるから、戸惑ってるのかも」
そうだよな。本来結界に入れる筈の無い、異物が紛れているのだ。とはいえ、村田の存在が相手の野獣にとって脅威な訳では無い。むしろ取るに足らない、無視されて当然と言うべき存在だ。観察が済めば、相手は真っすぐアトに襲い掛かってくるに違いない。
「つまり、相手の気を引く事。お前から気を逸らす事が、俺の役目って事だな」
「できれば、だけどね」
アトはそう言って、片目をつむる。「その為の道具、持ってるでしょ?」
……簡単に言ってくれる。
いずれにしても、アトがやられたらそれこそ文字通り後が無い。――この状況、想像以上にヤバいのかもしれない。
そう気が付いた村田は、無意識に笑みを浮かべていた。拳銃を取り出し、弾丸を確認する。装填されているのは、試作品の改良弾丸。欲を言えば、スタングレネードが欲しかったが。
「――聞こえるか、猿野郎!」
アトが指した方向に向かって叫んだ。「俺が相手になってやる! 人間だからって舐めてんじゃねぇぞ! かかってきやがれ?」
最後が疑問形で締まらなくなったのは、アトが指で肩を叩いたからだ。
「あいつ、人の言葉分からないかもよ? 来たばかりだし」
「はァっ? お前そういう事は先に――」
振り向くと、そこにアトはいなかった。見ると、反対方向に向かって一目散に駆けていくではないか。
――逃げた? いや、違う!
アトの後を追うように木々のシルエットが揺れる。木の上を飛び移っているのか! 猿のような姿だけの事はある。四つ足で走るアトも十分早いが、それ以上の勢いだ。
そしてあれは、おそらく意図的に追わせている。
子供のような野獣とただの人間が1人。どちらも脅威でなければ、そりゃあ野獣を優先するだろう。挑発しようにも、言葉も通じないのでは尚更だ。ならば――今、俺がする事は。
村田は周囲を見回す。今いる場所は少し開けた空間。一度唾を飲み込み、拳銃を握り直す。そして、安全装置を外した。
◇ ◇ ◇
アトは全力で地上を駆ける。その白銀の体は、シルエットに囲まれた蒼い世界の中に一筋の光が走っているようで非常に美しく、そして目立っていた。その後を追い木々が揺れ、徐々に近付いていく。
……おそらく、誘い込まれたのだ。
林の中は、あの野獣にとってのテリトリー。木の上からじっくりと観察されているに違いない。スピードも違う。こちらは全力といえども林の中では全速は出せない。対して相手は木の間を飛び移り、最短距離を詰めてくる。
――来る!
木を避ける為スピードを緩めた瞬間、上から砲弾のような黒い塊が降ってきた。咄嗟に木の幹を蹴り、ターンする。地響きを轟かせたそれは、バスケットボールのようにバウンドするとそのまま上空へ戻る。気配を感じただけだ。姿は見えない。
間髪入れず、アトは駆け出す。止まってしまうと、的になるだけだ。時折急な方向転換を加えながら駆け続ける。後方で何度も地面を叩く衝撃音が響く。徐々に近付くそれは、まるでカウントダウンのようだ。
3……2……1……、
「今っ!」
地面を蹴り、急速ターン! 今の今までアトがいたその場所に、黒い塊が襲い掛かる。その塊はターンの勢いに負けて地面を転がるアトに向かい、次の瞬間地面を蹴って横に飛んだ。と――。
野獣の頭部を激しい衝撃が襲った。脳天を雷で貫かれたかのような、鋭いのか平たいのか分からない切っ先のもので、横から殴りつけられたかのような衝撃。
本当に、来やがった。
村田は正直、半信半疑だった。何も打ち合わせをした訳でもない。だが誘い込むなら少し開けたこの場所だろう、と思った。相手は身軽さを活かし、木の上から攻めてくる。上下に動く的を狙うのは難しい。だが木の無いこの場所ならば、相手は横から襲い掛かってくる筈だ。そこを狙って、撃った。
「――やるじゃん!」
アトはほくそ笑むと体を縮め、脚に力を込める。
村田の眼には、白銀の矢が一直線に野獣に向けて飛んだように見えた。それは野獣の体を貫き、ついでにシルエットの木々を何本かなぎ倒してようやく止まった。
「……大丈夫か?」
村田が駆けつけると、アトは野獣の姿のまま地面にひっくり返り、頭を掻いていた。
「イテテ……ちょっと着地、失敗しちゃった」
そういう口が、もごもごと動いている。……相手の心臓、か。振り返ると、相手の霧散を始めていた体は既に殆ど消えかかっていた。
口の中のものを咀嚼し終えると、アトは人間の姿に戻った。
「……変わらない、な?」
呟きに反応して、アトは村田の脛を蹴り上げる。無論手加減はしているのだろうが。
「まだ分かんないでしょ! 一つだけじゃさ」
かもしれないが……何となくコイツは、このままのような気がする。村田の勝手な予感ではあるが。だが身体的な成長はともかく、相手の心臓を喰らった事によりアトは強くなったのだろう。……そうでなければ、困る。
気が付くと、周囲の景色が変わっていた。シルエットのような木々は変わらないが、蒼以外の色がある。結界が解除されたのか。
「お前、どこか隠れられるか」
ずっと握りしめていた拳銃に気づき、しまいながら訊ねる。
応援を呼んでしまった以上、おっつけ駆けつけてくるだろう。既に来ているかもしれない。ビーストの2つの反応の内1つは片付けたが、もう一つは残ったままなのだ、ここに。
「えー、メンドクサイ。このままいちゃダメ?」
「お前なぁ……。俺の立場ってヤツも考えてくれよ」
「ハイハイ、分かったわよ。隠れてればいいのね?」
そう言うが早いか、アトはジャンプして木の上に身を隠した。……とてもではないが他人には見せられない、人間離れした身のこなしだ。猿型野獣の能力を得た、という事なのだろうか。
敷島倫子が、人間側にもスマートウォッチ型の端末を支給していないことが幸いだった。人間側は今のところ、持ち歩きには向かないPC型の端末でしかビーストの存在の有無を確認できない。何とか誤魔化せるとは思うが……。
――さて、何と言えばいいかなぁ。
村田は一つため息をついて、林の外へと歩き始めた。