4.成長
……迷っている場合じゃあない、か。
サキが言ったように、結界はどちらかが死ぬまで解除される事は無い。もしこの結界が特殊なものであったなら、尚更だ。どちらかが。サキでなければ――自分が。
「……それは、勘弁だな」
野獣はピクリと反応する。相手の銃を持たない左腕が、変身したのだ。
「やっと、その気になった?」
「ああ」
修一は変身した拳を握りしめる。「まずは、この結界から出る。君を倒して」
「私を? 倒して?」
「そうさ。結界から出れれば、先生が君を生まれ変わらせてくれる。記憶の件は、俺が何とかしてみせる」
「……優しいのね」
野獣は笑ったようだった。「けど無意味よ。倒されるのは、あなただから」
野獣は飛び掛かり、腕を振った――が、それは相手の腕に止められる。次の瞬間、下からの衝撃に顎が天を向いた。
――このっ!
両の拳を力任せに叩きつけるがそこに相手はおらず、衝撃に耐えられなかった天井が崩れて野獣ごと下の階へ落ちる。上から来るかと思った瞬間、正面からの打撃に吹き飛ばされてビルの壁を突き破り、体が宙を舞った。
ビルの7階程度の高さなら、落ちても問題は無い。が、
「今度こそ上!」
頭上に見えた影を両手で捕らえ、地面に向けて放り投げた。その勢いを利用してビーストは回転し、キックによる必殺の一撃を叩きこむ。
――違う?
土煙の中に見えたのは、へしゃげた貯水タンク。と、そこから伸びたワイヤー。弾かれるように上を向くと、すぐそこに鋭い爪があった。
修一は目をつむり、思い切り腕を振った。感じる手応え。次の瞬間野獣の体に激突し、弾かれて地面に転がる。
やった! ――やった筈だ!
訓練では、一度もサキに勝てた事が無い。同じ事をしていては、勝てない。何か違う事をしなければ、勝てない。ならば、と思いついたのが、周りの物を使う事。逆に言えばその程度しか思いつかなかったのだが――。
「……何度言えば、分かるの」
首が無くなったままの野獣が、こちらを振り返った。「ビーストは心臓を潰さなくては死なないって」
一体その声はどこから出ているんだ――と思った時には首が元に戻っており、要らぬ心配だった事を思い知らされる。が、
「分かってるさ」
野獣が一歩踏み出した瞬間、その背中で何か弾ける音がした。
「スタングレネード、2連発だ」
拳銃の時とは比較にならない衝撃が2つ、背中から全身に広がった。たまらず膝を付く。
修一は電磁拳銃を構えた。交換した弾倉の弾。村田から新たに渡されたものだ。
「試作品なんだけどな、通電時間が1.5倍になってる。これまでのは通電時間が短すぎて連続で着弾してもあまり効果がなかったけど、これはいわば、《重ね掛け》ができるって事だな。……言ったとおり試作品だから、実践ではまだ試せてないが、ま、お守りって事で」
スタングレネードが効いている今なら、さらに効果があるかもしれない。構えた右腕を変身した左腕で支え、数回引き金を引く。着弾すると、一際大きなスパークが上がる。野獣は大きな悲鳴を上げて、うつ伏せに倒れた。薄い煙が立ち、焦げた匂いが広がる。
しばらく周囲をチリチリとスパークが舞っていたが、それが収まるのを見計らって修一は近づく。銃口は向けたままだ。
――背中から、左手を心臓へ打ち込む。それだけ。……それだけだ。
ゆっくりと左腕を引き上げたその時、ヒュン、と何かが飛ぶ音がした。一瞬、何が起きたか分からなかった。
銃を持っていた筈の修一の右手が、無くなっていた。
「……躊躇いは、邪魔でしかない。以前、そう言ったと思う」
野獣は針のように尖った自身の体毛を戻し、ゆっくりと立ち上がる。尖っているだけではない、その一本一本が研ぎ澄まされた刃物のような鋭さを持っていた。それが、修一の腕を切断したのだ。
唖然とした表情で右腕の先を見ている修一に向けて、野獣は腕を振る。が、体に届く寸前のところで修一の左腕に防がれる。しかし次の瞬間野獣の体は回転し、勢いを増した蹴りが修一を吹き飛ばした。
「少し、吃驚した。――けど所詮、人間が作ったもの」
野獣の目に、うつ伏せに倒れた修一の姿が映った。切断された右手からは、真っ赤な血が噴き出している。赤い、血。蒼ではない。
「蒼に、してあげる」
ビーストは修一の方へ向かう。
……血の味がする。
横腹を蹴られた。内臓が、傷ついているのだろう。喉の奥から、じわりと熱いものが逆流してくるのが分かる。骨も粉々になっているのかもしれない。それは時間があれば回復できる。しかし、無くなった腕はどうなるだろう。
……さすがに、元通りってのは無理かな。
血が流れているのが見える。赤黒い血だ。蒼でない事に、何となく安心している。そんな事を考えている場合じゃあ、無いのに――。
と、次の瞬間、目の前が蒼くなった。血の色も、周囲の景色も、何もかも。
これは――。
流れ出た血が、霧状になって戻ってくるのが見える。それは形を成し、失った部分を形成し、そして――変身した。
野獣は足を止め、笑ったようだった。
「……そうなると思ってた」
命の危機に見舞われた時に、変身する。まさに今が、その時だ。
修一がゆっくりと立ち上がる。既に変身は右腕にとどまらず、上半身全体に及んでいた。巨大化して服が破れ、白銀の体毛が伸びる。腕が重いのか前屈みになり、両の拳を地面についている。頭部は、人間のままだ。意識はあるのだろうか。
修一がブルっと体を震わせると、上半身の体毛が一斉に逆立つ。そして次の瞬間、それらが一斉に野獣に向けて発射された。
――私と同じ?
野獣も体毛を逆立て、応射する。周囲に響き渡る金属音。弾かれた体毛同士が激しい火花を撒き散らし、辺りを明滅させる。その間隙から、凄まじい勢いで黒い影が飛んでくる。野獣はそれを躱しつつ掴むと、その勢いまま反対方向に放り投げる。ビルに突っ込むかと思ったその瞬間、修一は両手の爪を地面に立て、直前で踏みとどまった。
その眼を見た野獣は、目を見張った。――蒼くなった瞳。野獣の眼だ。もう、人間としての意識は無いのかもしれない。
「だったら――」
心置きなく、やれる。
野獣は腕を振り上げると、自らの胸を突いた。深く――もっと深く。心臓に届くまで。手が心臓に届くと、野獣はそれを鷲掴みしてゆっくりと揉みしだく。
「本来、私は『成長』できない。けど――できるように、してもらった」
心臓の鼓動が、聞こえたような気がした。
野獣の眼から蒼い「何か」が溢れ出し、広がっていく。ビーストは、戦いの中で『成長』する事ができる。長く生きたビーストだけが使える、言わば切り札だ。体が巨大化し、身体能力も飛躍的に向上する。
当然、その反動も大きい。元に戻った際の能力は普通の人間と同程度になり、寿命も短くなる。それでも、使う。戦って、相手を倒すこと。それが、ビーストの本能なのだから。
『成長』が完了すると、傷口がスッと埋まる。
4月。修一が初めてビーストという存在を認識した、あの時のビーストが『成長』した。
……まさか、自分が『成長』する事になるなんて。
修一が立ち上がり、こちらに向かってくる。それに向けて、野獣は咆哮する。風圧と音圧で周囲の瓦礫が震え、修一へ向かって飛ぶ。それを弾きながら、修一は地を這うような低姿勢で、ジグザグにこちらに向かって来る。
速い。――なら!
野獣は脚を振り、地面をすくい上げて蹴り飛ばし、さらに大量の瓦礫を修一へ向ける。大きなアスファルトの欠片が命中し、勢いが弱まったとみるやそこに向けて拳を叩き込んだ。直前で防がれはしたが、修一の体はゴムボールのように弾き飛ばされてビルを破壊し、派手な土煙を上げる。
――まだ!
野獣は止めとばかりに渾身の力を込めて、蹴りを入れた。脚に伝わる、相手の肉体が砕ける感覚。防ごうとした修一の両腕は凄まじい衝撃を受けて破裂し、再度飛ばされた体はビルを2本貫通して、ようやく止まった。
変身したといっても、全身ではない。訓練でも、一度も自分に勝った事はない。さらにこちらは『成長』も使った。
「……分るでしょう? どうやっても、私には勝てないって。だから――」
修一に近づこうとした野獣は足を止めた。
仰向けに倒れた修一の胸に、何かが落ちている。あれは……拳銃? 切り飛ばした右手に握られていたものか。いつの間にか、拾っていた? だがそんなものが今更何の役に立つ?
「そもそも、その手じゃ引金も引けないでしょう」
が、次の瞬間野獣は目を見張った。拳銃が修一の胸の中に沈んでいったのだ。いやあれは――吸収された?
その時、閉じていた修一の両眼が開いた。