2.異変
気が付くと、何かに寄りかかって座り込んでいた。
――どうなったんだ? 俺。
体に異常は無いようだ。蒼い「何か」が飛びかかってきた――と修一は感じた――その瞬間までは憶えているが、その後どうなったのか、記憶が無い。寄りかかっていたのは、公園の門柱のようだった。自転車も近くにあるはずだが――。
「あれ?」
自転車が無い! 誰かに盗られた? こんな短時間に……って、そういえばどれくらい、気を失っていたのか。スマホで時間を確認しようとして、ポケットに何も入っていない事に気づく。さらに、背負っていた筈のリュックも無い。
そういえば、と男が倒れていた方に目をやる。が、その姿は無くなっていた。少しホッとして、念の為周囲を見回す。
そして修一は、異変に気付いた。
周りの建物が――樹木も含めて――色が、おかしい。シルエットのように黒くなっている。地面は蒼。あの男の眼と、同じ色だ。空を見上げると、それ以上に異様だった。蒼と白が斑になって、蛇がのたうつようにぐねぐねと蠢いている。それでいて、深夜だったはずなのに何故か明るく、この光景がかなり先迄広がっている事が分かった。
「何なんだよ、これ……」
ごくりと唾を飲み込んだ。どうしよう。何が起こっているのだろうか。とにかくスマホや、リュックを捜さないと。
常に動いている空を見ていると気分が悪くなりそうで、できるだけ下を見つつとりあえず歩き出した。
「空」と言ったが、本当に今見えているのは「空」なのか?
少し歩いて頭が冷静になったのか、立ち止まって改めて周囲を観察する。さっきまでは窓から光が漏れている家もあったし、街灯も付いていた。今は全てシルエットで、家々に窓があるのかすら判別できない。
光が無い。そして自分の他に人がいるのかどうか、それも分からない。もしかして、これは夢なのだろうか? そう考えるのが、一番合理的なのでは――。
大きな通りに出た。
「これって……」
バイト先に戻る時に、通ろうか迷った道だ。しかしそこにあったのは異様な光景だった。車が、走っていない。いや車自体は道路上にある。だが他の建造物同様にシルエットになって、エンジン音もせずにその場に止まっている。
ごくり、と唾を飲みこむ。――一体何なんだよ、異世界転生でもしちまったってのか?
車に駆け寄り中を覗き込もうとしたが、無駄だった。完全な漆黒で、中に人が居るのかも分からない。
「――誰か! いませんか!」
返答は無い。と、修一は足を止めた。
何かが、聞こえた。細かく震える、金属音のようなもの。そして――聞いた瞬間に『獰猛な獣』を想起させる、心臓を震わせるが如くに低く、空気を伝わって来る、声。
動かない方がいい。
本能的に、そう感じた。全神経を耳に集中する。改めて気が付いたが、異常な程に静かだ。風も無く、空気の動きを全く感じない。外に居る筈なのに、巨大なドームのような室内空間にいる、そんな感じだ。
唸り声は、聞こえてこない。勘違いだったのか? いや、何か、聞こえる。何かが地面を叩く、そんなゆっくりとした、鈍い連続音。これは――足音?
それも直ぐに途絶え、再び異常な程の静寂が耳を突く。しかし次の瞬間、
「――よう、待たせたなぁ」
聞こえた声の方に振り向く。通りの真ん中、センターラインの上に立つオレンジのダウン。ポケットに手を入れて猫背になり、顔も俯き加減なので目がどうなっているのかわからない。
「ま、待たせたって?」
「――酒って、いいよなぁ。気持ちよくなっちゃってさァ、自分でも思ったより広い結界を作っちまった。ちょっと、迷っちまったぜ」
男は修一の言葉に耳を貸さずに続ける。「それじゃ――始めようか」
「始めるって――何を?」
男が顔を上げた。そこには眼があった。蒼い眼が2つ、灰色の中に爛々と輝いている。
――灰色の?
男の体が膨らんだと思った次の瞬間、全身灰色の毛に覆われた巨大な4つ足の獣が、そこにいた。その鋭い眼光は修一を確実に捉え、身動きをする度にどこからかバキバキと音がする。鋭く伸びた固い毛が、触れ合う度に音を立てているのだ。獣は、荒く息をついている。頭に生えた2本の角が、威嚇するかのように細かく震える。
「……何だ」
牛? 巨大なオオカミ? こんな生き物、見た事がない。変身した? どうして? どうやって?
響き渡る咆哮。その音圧の凄まじさに反射的に耳を押さえる。
「さぁ、お前の番だ」
押さえた手の存在を無視して、声が振動として聞こえてくる。
「何なんだよ、一体! 俺の番って、意味わかんねぇよ!」
獣は笑ったかのように荒い鼻息を吹き出す。
「ま、俺はどっちでもいいがな。それじゃ――」
獣は、今にも飛びかからんとばかりに身を屈める。口元からは音を立てながら巨大な牙が剥き出しになり、前足の先からも、見るからに鋭い巨大な爪がせり出して来る。
「死ねやァ!」
溜めた筋力を一気に解放して獣は修一へ飛びかかった――筈が、その軌道は逸れて横を駆け抜け、風圧で彼を吹き飛ばしつつビルの壁面に突っ込んだ。大音響に空気が震え、砂埃が舞う。
「うん? 酒のせいか」
獣は首を振り、埃を払う。その勢いで横に倒れるが、瓦礫を掻きのけて立ち上がる。「まぁいいや。次は外さねぇ……あれ?」
獲物の姿が見当たらない。
「何なんだよ! 一体どうなってんだよ! どうして俺がこんな目に――」
修一は叫びながら通りを走っていた。叫ぶと見つかると分かっているが、叫んでいなければ体が動かないのだ。
爆発のような破壊音に振り向く。獣が、シルエットになっている車を吹き飛ばしながら突進してくる。交差点を90度ターンした直後、塊が通り抜ける。
と――、正面からの突然の衝撃に修一は倒れ込んだ。
「な、なんだ?」
壁にでもぶつかったようなこの感じ。目の前には何も無い、筈だ。恐る恐る手を伸ばしてみる――と、何かに触れた。
壁だ。見えない壁が、そこにあった。
あちこち触れ回る修一の姿は、傍から見ればまるでパントマイムでもしているように見える。
「ほう、そこが境目か」
追いついてきた獣が、笑ったように見えた。「――結局、変わらないのか? そんなに、自分に自信が無いのか。それとも俺を、この戦いを舐めているのか。もしそうなら――まぁいずれにしても――死んで償ってもらうしかないな」
口が徐々に開いていく。涎の滴る音がする。修一は腕で顔を覆った。
その時、獣は目を見張った。獲物の後ろで何かが光った。何だ? と思った瞬間、そこには扉が現れていた。
――扉?
シルエットの世界の中で、その扉は色を持っていた。金色の枠に、紫色の重厚な両開きの扉。例えこの世界でなくとも、空間に浮かぶ異様な存在。
バン、と扉が弾けるように開き修一を横に弾き飛ばした――と思った次の瞬間、獣は頭に凄まじい衝撃を感じて、後ろに吹き飛ばされていた。