5.戦闘
次の瞬間翠の視界の端に、何かが映った。振り上げられた、細い鞭のようなもの。
「伏せろ!」
と、叫んだのは修一ではなかった。誰が、と考える間もなく翠は床に引き倒される。その後に聞こえて来たのは決して人間のものではない、獣のような咆哮。
修一も、一瞬何が起きたのか分からなかった。翠の背後に突然沸き上がった、ビーストの気配。その背中から何かが飛んだ、と思った瞬間、翠を引っ張り床に伏せた。その直後に、ビーストの悲鳴。
ビーストはよろめき、衝撃を受けた方を振り返る。修一は見た。ビーストの背中から生える、昆虫の脚のような細長いモノ。それが4本。さっき飛んできたモノは、これか!
そしてビーストの視線の先に居たのは――。
「……店長?」
そこに立っていたのは、拳銃のようなものを構えた店長――村田だった。修一と目が合った瞬間口元だけ笑みを浮かべたが、直ぐに別人のように真剣な表情に戻った。
「こっちへ来い! 嬢ちゃんも一緒に!」
村田は叫ぶと、引き金を引く。プシュッという鋭い発射音と同時に、ビーストの体から青白いスパークが上がる。
「こっち!」
修一は翠の手を引き、棚の間を駆ける。村田が片手で壁を触った――と思った瞬間、店の窓全てに一斉にシャッターが降りる。次いで電気が消え、代わりに赤い照明が灯った。
「裏から出ろ!」
村田の言葉に弾かれるように修一は翠を抱えてカウンターを飛び越え、従業員用の出入口を目指す。その背後ではさらに何発かの発射音と、ビーストの悲鳴。
足や体に引っかかる物を弾き飛ばしながら、2人が外に出たその直後に村田も飛び出して来て、扉を閉じ、鍵をかける。
「よし、これで、しばらくは持つ筈だ」
村田は、いつの間にか片耳に装着していたヘッドセットに触れる。
「ああ、俺だ。そう。襲撃を受けた。敵さんの隔離には成功して、今外にいる。ただ、実際どこまで持つかはわからん。うん、そう、大至急な。それと――」
村田は修一を一瞥し、「アチラさんの方にも、連絡を入れといてくれ。非常ボタンは押したから通報は行くと思うが、念の為な」
通信を終えた村田は改めて修一の方を向き、肩をすくめた。
「まぁ色々と、訊きたい事とか言いたい事とかあると思うが――」
話しながら、手にした銃のようなものを腰の後ろにしまう。「とりあえずお二人、離れたら?」
その言葉で、翠は自分が修一にお姫様抱っこをされている事に気付き、慌てて立ち上がって離れた。
「何してんのよ! ――って、でもよく抱っこなんて……」
できたわね、と言おうとして思わず口をつぐむ。ただ実際、男子とはいえ同級生に軽々と抱えられるような体重では無い筈だ。
「ああ――ごめん。ちょっと、必死だった」
「まぁ……とりあえず、ありがとう」
何だかよく分からないが、とりあえずここは、礼を言うべきなのだろう。必死だった、なんて言っているから、所謂火事場の馬鹿力みたいなものだったのかもしれない。
修一は両腕に残った翠の温もりを意識して、慌てて気持ちを切り替える。そうだ、店長に事情を訊きたくとも、翠がいては駄目なのだ。しかしこの状況、どう説明したらいいのだろう?
「あの――」
やはり口を開いたのは、翠だった。「一体何が、あったんですか? いきなり逃げろって」
その視線は村田に向いている。困った様に顎を掻いたりしていたが、
「お嬢ちゃん。何か、見た?」
「見たっていうか――よく、分からないですけど……。すぐに、引き倒されちゃったんで」
翠の言葉に村田は少し考えているようだったが、
「まぁ、後から入って来たお客さんがいただろう? 常連さんなんだけどあれがちょっと、問題がある人でね。時々発作を起こして、店内で暴れたりするんだ」
……ちょっと、無理がないか?
修一の不審の眼差しを無視して、村田は
「そうだよな?」
と同意を求める。――ここは、乗るしかない。
「そ、そうなんだよ。時々、訓練もやっていてさ。他のお客さんに、迷惑をかけないようにって」
「怪我とか、大丈夫だよね? こいつ、見た目によらず優秀だからさ、大丈夫だと思うけど」
翠も村田に言われて気付いたが、結構な勢いで倒されたにも関わらず、どこにも痛みは無い。庇ってくれた、という事だろうか。
「お前、とりあえず連絡をつけとけ」
翠が体の確認をしている隙に、村田が修一に囁いた。
「え?」
「さっき来てた、制服のネェちゃんだよ。相棒なんだろ?」
「そ、そうですね」
一体どこまで知っているというのだ、この人は。
村田の後ろに隠れて、端末のコールボタンを押す。呼び出し音が1回、2回、3回。反応は、無い。
「あれ?」
掛け直してみたが、結果は変わらない。
――嫌な、予感がした。
◇ ◇ ◇
時間は少し、遡る。
修一と別れたサキは、とりあえず徒歩で移動を開始する。修一がいる時は電車等を使うが、1人、それも人目に付きづらい夜ならば特に使う理由は無い。徒歩の方が、余程早いのだから。暗闇に紛れて、風の如く足を速める。
いつも通り、ある程度の距離まで近付き、足を止めて端末で反応を確認する。
「……ここか」
反応があったのは自然公園の中だ。かなり広大な敷地に自然の森や池等が残されている。動く様子は無い。休んでいるのか、眠っているのか。とりあえずは、行ってみるしかない。サキは最後のシュークリームを口に入れると、歩き出す。
夜の公園は、不気味な程に静まりかえっていた。メインの入口は頑丈に門が閉じられ街灯もそれなりにあるのだが、サキが選んだのは幾つかある裏口の一つ。立ち入り禁止にはなっていないが、道は細く、街灯も奥に1つ見えているだけ。入ったら危険である、という雰囲気をあからさまに感じる佇まいだった。
だが、暗闇だろうがビーストには関係無い。人間の眼とは違うのだ。サキはビーストの反応に向け、歩を進める。
この様子なら、人間を襲う為にここに来た訳ではなさそうだ。獲物が少なすぎる。もっとも、暗闇を好むカップル等がいないとも限らないが。
「……!」
サキは足を止めた。端末から眼を離していたのは一瞬だ。その一瞬の間に、あった筈の反応が消えている。移動した? しかし地図を広範囲にしても変わらない。サキは気配を感じようと、眼を閉じて感覚を研ぎすます。……これは、結界?
ハッとして、振り返った。
「――お久し振り、という程でもないかな」
そこには、権瑞が立っていた。
陽動? それなら逆の筈だ。いや、権瑞の能力ならばこの場に居ないという事も考えられる。
「ああ、今はちゃあんと、ここにいるよ。生身では初めまして、かな。いや、何となくだが、かなり昔に全く同じ容姿のできそこないと会った記憶はあるがね」
サキの逡巡を見透かしたように、権瑞は笑う。
「……目的は何?」
「君だよ」
ステッキの先が向けられた次の瞬間、サキは地面を蹴って飛びかかる。しかし、心臓を抉らんと突き出した腕は、ゼリーのような感触の蒼いモノに包まれて勢いを失い、サキの体を弾き飛ばした。全身に響く衝撃。辛うじて体勢を維持出来たが、少しでも気を抜くと、膝をついてしまいそうだ。
端末に触れる。
「――聞こえてる? 権瑞に遭遇した。変身の許可を」
しかし、いつもならば聞こえて来る筈の軽口が無い。「……もしもし?」
画面が映らず、反応が無い。今の衝撃で壊れた? そんなバカな――。
「その端末は、特別なんだって?」
権瑞は笑みを絶やさない。「あの女が作ったんだろう? モノが持ち込めない結界内でも使える機械。だが、それが分かっていれば対処のしようもあるさ。……まぁ、落ち着き給え」
サキの姿が消えた。
「……やれやれ」
後方から振り下ろされた脚が再び弾かれる。それでもサキは、無意識に叫び声を上げながら吶喊を続ける。
「無駄だよ」
ステッキの先が少し回転した瞬間サキの体も回転し、地面に叩きつけられた。同時に凄まじい重さが、サキの全身を押し潰そうとする。
「この結界の中は、全て私の思い通りになる。このまま、押し潰してやってもいいのだよ?」
「――殺すなら、殺しなさい」
サキは必死に、言葉を絞り出す。
「その潔さや良し。しかし、君はまだ闘う意志を失ってはいない」
フッ、と重さが消えた。
「そう猛るな。そもそも君を殺したところで、あの女はまた新しい君を生み出すだけ。……多少の嫌がらせにはなるかもしれんが、所詮それだけだ。何の意味も無い。分かるか。お前には、殺すほどの価値もないんだよ」
サキは唇を噛みつつ、よろよろと立ち上がる。――何か所か骨が折れている。が、これ位ならば、少し経てば回復できる。だが、勝てるだろうか。変身もできない、この結界内で。
その時、端末が短い電子音を立てた。驚いて見ると、変身可能というシグナル。
「言ったろう? ここでは全て私の思い通り、と。――さあ、変身してみたまえ。もしかしたら、勝てる可能性が生まれるかもしれない」
「――変身!!」
絶叫と共に白銀の獣が現れ、権瑞に向かって突進する。だがやはり蒼の膜に阻まれて、その体へは届かない。獣は上空へ飛び上がり、その頂点で回転を始めた。
「ほう、かなりの勢いがつきそうだな」
目を細めて上を見上げた権瑞の顔面に向けて、踵を叩きこむ。凄まじい衝撃と、土埃。
「だが、無意味だ」
ステッキが横に振られた瞬間、獣の両脚の膝関節から下が吹き飛んだ。蒼い血が権瑞の手前で弾かれる。獣は苦痛に顔を歪めながらも、左腕を振り上げた。が、次の瞬間、その腕が爆散した。
「分からん奴だな、全く」
権瑞は地面で呻くそれを見ながら、ため息をつく。「……実に、醜い姿だ。全く、あの女とそっくりだ」
傍に近づき、獣の顔を見下ろす。
「自分の無力さが、理解できたかね。できない? だから君は人形なんだ。自分の意志を持たず、あの女に言われるがままに動く肉人形。ビーストとも呼べん。そんなものに、何の価値がある。――だが」
権瑞はステッキを獣の顔の真横に突き立てた。「私には、君を価値あるものに変える力がある。そう言ったら、信じるかね?」
そう言って、権瑞は獣――サキの心臓に向けて、ゆっくりと腕を伸ばしていった。