三倍返し
女王が用意したドレスを着て、死ノ國のザルザンとスヤキは街の探索に出掛けた。
コウハタの首には、上等なスカーフが巻かれていた。
死ノ國のザルザンは、前を歩く背丈の低い二人を見下ろしながら、心の中で溜息を吐く。
まさか、自分の分までドレスを用意されているとは思ってもいなかったのだ。
ふわり、ふわりと歩くたびにスカートが揺れる。
ゆらり、ゆらりと足元で花が風に吹かれて揺れる。
死ノ國のザルザンの表情は暗かった。
「ザルザンは、どうして花を掘り起こさないの? こうやって咲いているのは、ダメだって思ってるんだよね」
「これは私の仕事じゃないから」
「じゃあぼくがやるって決めて、それで、手伝ってって言ったら手伝ってくれるの?」
「ああ、いいよ。手伝ってやる」
コウハタは、死ノ國のザルザンの返答を意外に思った。
それくらい自分でやれ。なんて言われると思っていたのだ。
コウハタが、へへへと笑って死ノ國のザルザンを見上げると、死ノ國のザルザンは呆れたように口元に笑みを浮かべ、片眉を上げて見せた。
「前を見て歩け。……あぁ、丁度よかったな。作業をしていたみたいだ。おじさん、こんにちは」
死ノ國のザルザンは、菜の花畑に辿り着くと、花畑の中で作業している男性に片手を上げて挨拶をした。
すると、死ノ國のザルザンの声に気が付いた男性は、曲げていた腰を伸ばすと「あぁ、こんにちは」と挨拶を返した。
「これ、花をくれたお礼に」
「花綵かぁ。懐かしいな。ありがとう」
「この前の菜の花のお礼に渡したんだから、お礼はいらないよ」
「いいやいいや、こういう時は礼を言わねばならんだろう」
「そう? じゃあ、どーいたしまして」
「はは! 大切にするよ」
「……うん、そうしてよ」
死ノ國のザルザンは、手に持っていた花綵を菜の花畑の主人に渡すと「それじゃあ」と言って、その場を後にした。
「ねえ、さっきのさ、花飾りさ」
「花綵か?」
「うん。それ。あれってもしかして……」
言い淀むコウハタの様子に、死ノ國のザルザンは怪訝そうに片眉を上げる。
「……ん? もしかして、お前、勘違いしてるのか? あぁ、そうか。なるほどな」
あの、さっきの花……と口をモゴモゴとしているコウハタの言いたいことが分かったのか、死ノ國のザルザンは「んはは!」と笑うと、片手で腹を押さえた。
豪快に笑い出した死ノ國のザルザンに、コウハタは驚き、目を丸める。
「あれは”普通”の花だよ。くくくっ……お前、さっきの花綵を見て、ここら辺に咲いている死にぞこないの花を抜いて作ったとでも思ったのか」
「し、死にぞこないって!」
「死にぞこないは、死にぞこないだろう。図星を突かれて怒るのは、みっともないぞ」
「そんなこと、ないもん!」
死ノ國のザルザンのあまりの言いように、コウハタはワナワナと体を震わせる。
しかし、死ノ國のザルザンは、そんなものどこ吹く風だと言わんばかりに笑い続けた。
「この世の終わりみたいな顔して……くく」
コウハタは笑い続ける死ノ國のザルザンを止めて欲しくて、チラリとスヤキに視線を向ける。
スヤキは、二人に顔を向けているだけであった。
死ノ國のザルザンを言い負かす事なんてできそうにないコウハタは、口をムッとさせると、足元に咲いている花に視線を落した。
歩くたびに、道に咲く花が足に触れる。
コウハタは、今になって花が悍ましく感じて、なんだか後ろめたい気持ちになった。
死ノ國のザルザンは、コウハタの右回りの旋毛を見下ろすと、その小さな頭の上に手を乗せた。
「あれは、買ったもので作ったんだよ」
「お金なんて持っていたの?」
「花が欲しいけどお金がない。手伝わせてくれって言えば、欲しい花の分だけ働かせてくれたんだよ」
「いつの間に……」
死ノ國のザルザンは、コウハタの柔らかな髪質を確かめるように、頭をなでなでと撫でた。
コウハタを見下ろす目は、優しげに細められている。
死ノ國のザルザンの柔らかな表情に気が付いている者は、チラリと振り向いたスヤキだけであった。
「私はね、あのおっさんの幸せを願って花を編んだんだよ。水気が飛んで色が失せたとしても、大切に飾ってくれるなら、花は家族を守ってくれる。カラカラに乾いて、小さな衝撃で壊れて散ってしまったとしても、小さな願いが叶うように。そう祈って編んだんだ」
「でも、どうして元が人間だった花じゃないって分かるの?」
「根っこを抜いてみろ。一目瞭然だぞ。……殆どの人は、死に際に死にたくないと考えるらしい。だからかな、骨を種として咲く花は、根が異常に長くて、頑丈なんだよ。生きたがっている奴は”普通”の花よりも長生きをするんだ」
「この花たちも、生きたいって思っているのかな」
「だから、気になるなら抜いてみりゃあいい。それで、根が長いものは土に返してやれ。もし、お前がこの花の一生を不幸としないのなら、このままにしてりゃいい。結局のところ、他國の私が勝手をするには限りがある。どうせ、私たちはそこにどんな花が咲いたか忘れる。この花が人々の傍にいたいと願いながら必死に生き延びようとしても、誰もが、花が誰の心を持っているのか分からなくなってしまっていることだろう。それなら、花がこの地に縋って生きようが、枯れてしまおうが、人の暮らしは変わらない」
生きたいと願いながら、花を咲かせた人。
放置された挙句に、枯れて全てを失えば忘れ去られる身。
果たして、富ノ國の民は、事の重大さに気が付いているのだろうか。
道に溢れる花を見下ろす死ノ國のザルザンの瞳は、悲しげに沈む。
コウハタは、頭から死ノ國のザルザンの手が離れると、振り返りながら顔を覗いた。
死ノ國のザルザンと視線が交わると、コウハタはサッと顔を前方に向ける。気まずいと思ったのだ。
街の探索を終え、三人は本日の目的の場所に向かう。
穏やかな水辺に辿り着くと、見知った人物がこちらを振り向いた。
老猫ノノの飼い主、チミィだ。
チミィは三人に気が付くと、嬉しそうに手を振りながら走り寄った。
ドン! と勢いよく抱き着いてきたチミィを死ノ國のザルザンは容易く受け止める。
「アレは誰だ?」
「お兄ちゃんたちだよ! ザルザンたちの話をしたら一緒に来たいって」
「ふーん」
チミィが兄だと言った三人は、死ノ國のザルザンを険しい顔で見つめていた。
どうにも、仲良くしたいと考えている奴らの顔ではないな。
死ノ國のザルザンは、面倒ごとは御免なんだがな、とこっそり溜息を吐く。
「アンタがザルザンか」
「なんだか穏やかじゃなさそうだなあ」
「ああ、アンタに話がある」
「聞いてやってもいいが、ケンカ腰だけは止してくれよな」
死ノ國のザルザンたちに会って嬉しそうにしていたいチミィだったが、兄たちの険しい顔に気が付くと、悲しげに眉を八の字にした。
可愛らしいチミィの表情が曇ったのを見て、死ノ國のザルザンは顔を怪訝そうに顰める。
死ノ國のザルザンは、チィと繋いでいた手をやんわり解くと、視線を合わせるように腰を曲げた。
「チミィ、スヤキと手を繋いでいてくれるかい? 貴女にもスヤキを守って貰いたい。スヤキは硝子のコップをテーブルから落とした時みたいに、簡単に壊れてしまうんだ。だから、お願いできるかな。その代わり、スヤキが傍にいることは、きっと心強いはずだ」
「うん! いいよ! スヤキちゃんは、わたしが守ってあげる」
チミィは、死ノ國のザルザンに頷いて見せると、スヤキと手を繋いで少し離れた所に移動した。
二人の背中を見つめながら、死ノ國のザルザンはチミィの兄たちの方を振り向く。
「おい」
「チミィに変なことを吹き込むな」
「ザルザンの癖に」
チミィの兄たちは、チミィに言いつける死ノ國のザルザンを睨みつけていた。
そして、三人の中で特に図体がデカい一人が、死ノ國のザルザンの肩を強く握る。
肩を掴まれた死ノ國のザルザンの瞳は、凍えるように冷たいものであった。
「黙れ。言動には気を付けろよ。チミィの前でお前のことを罵りたくない」
「はあ?」
「それに、お前たちと話す前に、私は大臣の腕を流さなくてはいけない」
死ノ國のザルザンは、己の肩を掴んでいる手をバシッと跳ね除けると、手に持っていた布から人の腕の骨を取り出す。
それを見たチミィの三人の兄は「うわ!」と言って後ろに飛び退いた。
死ノ國のザルザンは、チミィの三人の兄など気にも留めず、水辺の傍らに膝を付き、丁寧な動作で腕を水辺に浮かべる。
コウハタは慌てて死ノ國のザルザンの隣に膝をつくと、その手元を覗き込んだ。
水面には、幾つもの波紋が生まれた。
そして、骨の周りの水が盛り上がり、みるみるうちに水は小さな船の形となった。
コウハタは、見たこともない光景を目の当たりにし、息を飲んだ。
死ノ國のザルザンは、船の形となった水の塊に顔を近づけると、囁くように言葉を紡ぐ。
「不完全であるが、芯をお流しする。舵を取る精霊が失われた今、腕ひとつで舵を取らねばならないが、実に僥倖であった。今ばかりは、凪。恐れず大谷に向かうがいい。底には我らの同胞が待っている。安心してゆけ。……真っ直ぐと、真っ直ぐと、進むんだ」
死ノ國のザルザンが語り終えると、船はゆっくりと沖に向かって進み始めた。
死ノ國のザルザンたちがいる場所からは、大谷は見えない。
しかし、死ノ國のザルザンは声を掛け続けた。
「真っ直ぐ、真っ直ぐ。迷わずにゆけ、ゆけ」
ゆっくりと進み続ける水の小舟。
最終的に、水の小舟は水光が煌めく光の中に消えていった。
暫くすると、水の小船が立てた小波は失せ、水面は静けさを取り戻した。
死ノ國のザルザンは船が消えていった遠くを見つめていた。
この場にいる誰もが、死ノ國のザルザンに声を掛けられる雰囲気ではなかった。
それほどまでに、船を見送る死ノ國のザルザンは真剣であった。
そんな張り詰めた空気を裂いたのは、死ノ國のザルザンであった。
「それで、チミィの兄ちゃんたちは私に何の用だ?」
死ノ國のザルザンが呆れたように溜息を吐くと、コウハタも無意識に止めていた息を吐き出す。
「……俺、船送りなんて初めて見た」
「ばか。あんなのやったって……」
チミィの三人の兄は、初めてみる船送りに動揺した。コソコソと耳打ちし合っては、首を横に振る。
コウハタは、死ノ國のザルザンがベルトループにぶら下げている革製のポーチを撫でたことに気が付くと、思わず立ち上がった。
「お前、他國のザルザンなんだろう? それなのに女王さまを騙して、街の人間の骨を船送りにしようとしているんだってな」
「チミィが言っていたぞ、ノノを船送りにして貰うって」
「そうだ。余計なことをすんじゃねえよ」
「花だって、流されることなんか望んでない」
チミィの三人の兄は、臆することもなく死ノ國のザルザンを責めた。
コウハタの顔は青ざめていた。死ノ國のザルザンは、富ノ國にやって来たその日に、他者の腕を容易く切り離したのだ。相手が年寄りだろうが、子供だろうが、死ノ國のザルザンの前では、命は等しいものであるのだ。
「花が再びこの地に戻って来たいと思っているかなんて、花の根を見ればすぐに分かる」
「そうやって喋ることもできない花の代弁をして、正論を言った気になるのか」
「そりゃあ、正論だからな」
「骨を取り出して水に流すなんて、普通じゃないだろう! 骨を流されたら、俺たちは何を弔えば良いんだよ!」
声を荒げるはチミィの三人の兄ばかり。一方、淡々と答える死ノ國のザルザンの表情は変わらない。
コウハタは、死ノ國のザルザンが手斧が入っているポーチのボタンをパチリと外すのを見て、慌てて死ノ國のザルザンの前に飛び出た。
「や、やめて! ザルザンは間違えたことを言っていないよ! ぼくが、ぼくがちゃんと説明をしてこなかったからいけないんだ」
「うるさいぞ、お前!」
庇うようにして両手を広げて間に入るも、興奮していたチミィの兄の一人がコウハタの頬を打った。
体格差のある相手に打たれたコウハタが尻もちをつと、背中に死ノ國のザルザンの足が当たった。
コウハタは、反射的に死ノ國のザルザンを見上げる。そして、血の気が引いた。
「なにしてるの!?」
チミィは、コウハタを叩いた兄に驚き、駆け出そうとした。手を解かれたスヤキは、離れて行こうとするチミィの背中に砂を掬って投げつける。すると、チミィは死ノ國のザルザンの言葉を思い出し、後ろを振り向いた。
表情の変わることがないスヤキの顔を見て、チミィは泣きそうな顔をしながらも、スヤキの手を握り、隣に座り直した。
死ノ國のザルザンは、転んだコウハタを横切ると、コウハタの頬を打ったチミィの兄の一人の胸倉を掴む。相手の頬は、赤く腫れあがっていた。
他の二人は、死ノ國のザルザンの手を離そうと掴むも、兄弟をつかむ手はビクともしなかった。
コウハタは、ゆっくりと手斧を握ろうとする死ノ國のザルザンの手を見て、慌てて立ち上がろうとした。
しかし、腰が抜けてしまい、なかなか立ち上がることができない。
「優しさというのは、受け入れることばかりをいうんじゃない。優しさとは、正しい道筋を示してやることをいうんだ」
「は、あ?」
「いいから離せよ!」
「本当に、残念だよ」
死ノ國のザルザンは、ベルトループに取り付けたポーチの中の物を握ると、それをゆっくりと引き抜いた。
死ノ國のザルザンの手に握られているのは、大臣の腕を切り落とした手斧であった。
「お、おい」
「ザルザンは、人の死を悼むじゃないのか?」
「冗談だよな」
「冗談なものか」
チミィの三人の兄は、狼狽えながら死ノ國のザルザンを見つめる。
死ノ國のザルザンの瞳の奥は、凍えるように冷たいものだった。
死ノ國のザルザンに胸倉を掴まれている一人は、その手を振り解こうと藻掻いた。しかし、やはり死ノ國のザルザンの手が離れることはない。
「私たちは、慈善活動をしている訳じゃあないんだよ」
死ノ國のザルザンが手斧を握り締めると、持ち手に巻き付けられている革から窮屈そうにギリィと音が鳴った。
手斧を握る手に力が入ったことに気が付くと、チミィの三人の兄とコウハタの血の気が引いた。
「残念なことに、お前たちはザルザンに対する理解がないようだな。……反抗心を抱くのは大いに結構。しかし、それを吹聴されることは困るんだ。思想というのはな、他者を誘うものではないんだよ。お前が自分の生き方を豊かにするものであり、お前が自分を戒めるものなんだ。ノノは、自分の死期を私に知らせに来た。そして、チミィはノノの気持ちを汲んだ。……彼女たちの気持ちを踏みにじろうとしているのは、誰だ? この地に戻ってくることは、この星の理だぞ。獣は賢い。ザルザンを使って、この地に帰って来ることの意味を充分に理解しているんだからな」
「……な、何言って」
「骨にして流してしまえば、我らを否定する者はいなくなる。心配には及ばん。お前は六年後、再びこの國に戻って来る。私はなにも対話をして相手と自分の落としどころを付けたいわけじゃあない。ザルザンに与えられた使命は、骨を大谷に流し続けること。我らの邪魔をするというなら、”お前”はいらないんだよ」
いらない。
吐き捨てられるように言われた言葉が、死ノ國のザルザンの本音であることは誰もが分かっただろう。
死ノ國のザルザンの手斧を掴む手の力は緩まない。
コウハタは、死ノ國のザルザンの手がゆらりと持ち上がり始めたのを見て、玉座の間に血飛沫が散ったことを思い出す。
殺伐とした空気の中、死ノ國のザルザンの名前を呼んだのは、少し離れた場所にいたチミィであった。
チミィが必死に叫ぶ。
「ザルザン! あの、あの、やめて」
死ノ國のザルザンは、チミィの震える声を聞くと、張りつめていた空気を少しだけ緩め、チミィに視線を向ける。
チミィはスヤキの横に立ちあがると、両手で拳を握り、必死に叫んだ。
「わたしがお兄ちゃんたちにいっちゃったから、だから怒ってるんだよね? チミィは本当にね、おじいちゃんが言ってたみたいに、おばあちゃんみたいに船に乗りたいの。それはね、チミィだけのお話なの! ノノと、また、大好きな……家族や友達のところに……っひ……おばあちゃんみたいに、帰って来たいって、言ったのぉ!」
ボロボロと涙を零して訴えるチミィの声が心に響いたのか、死ノ國のザルザンは掴んでいた胸倉を乱暴に押して離した。
押されるようにして手を離されたチミィの兄の一人は、地面に尻もちをついた。
他の二人は、尻もちをついた兄弟の背中を支える。そして、唇を強く噛むと、悲しげな顔をして視線を落とした。
「…………ばあちゃん、帰って来ても俺たちのこと知らなかっただろ」
「そうだよ、チミィ。……ばあちゃん、俺たちのこと忘れてたじゃん」
「なのに、戻って来ることに何の意味があんだよ……」
ぽつり、ぽつりと話す三人の兄の声は、酷く寂しげであった。
死ノ國のザルザンの緊迫した空気に耐えていたチミィだったが、兄たちの言葉がショックだったのか、遂に「うぇ~~ん」と泣き出してしまった。
スヤキは、声を上げてなくチミィはの背中を優しく撫でた。
コウハタは、大きな声で泣くチミィを見つめたあと、チミィの三人の兄に視線を移す。俯いている三人の表情は、背の低いコウハタからは見えた。
三人とも、チミィに似た顔をして泣きそうになっていた。
「ばあさんは、何も覚えていなかったのか?」
「覚えてねーよ」
尻もちを付いていたチミィの兄は、ゆっくりと立ち上がると、手に着いた砂を払った。
「ばあさんと話したことは?」
「話しかけたことなら、ある」
「でも、俺たちを覚えていなかった」
死ノ國のザルザンは、握っていた手斧をポーチに仕舞い、腕を組む。
手斧が仕舞われたことに、コウハタは心の底から安堵した。
「好きな食べ物や花は聞いたか?」
「……いいや」
「何色が好きかとか、どんな景色が好きか聞いたのか?」
「…………聞いていないよ」
「三人も揃って、馬鹿だな」
「は?」
会話の流れからして、まさか馬鹿と言われるなんて思っていなかったチミィの三人の兄は、ムッとして死ノ國のザルザンを睨む。
しかし、それは一瞬のことで、死ノ國のザルザンの顔を見ると、驚いたように目を丸めた。
手斧を振り上げた時の冷たい表情とは変わり、死ノ國のザルザンは少しだけ困ったような顔をしていた。
「聞いてみろよ。……きっと、じいさんと一緒に見た景色が好きだと言うぞ。好きな動物は……きっと、猫だ」
「……なんで分かるんだよ」
「大谷の底には記憶を持っていけないが、愛したことは絶対に忘れないからだ。骨という体の芯に、愛は沁みつき、幾ら洗おうが落ちやしない。芯はいつまでも愛されていたことを覚えている。芯はいつまでも愛したことを忘れない。お前たちの骨というのはな、そういうもんなんだよ。そして、使い古された骨は愛に満たされ、漸く生を与えられるんだ」
「この地に帰って来るってこと?」
「違う。愛に満たされたお前たちは、漸く向かうべき場所に行けるんだよ。この地に限っては、愛で満たされずとも骨に乗ったなら帰って来ることができる」
死ノ國のザルザンは、チミィの三人の兄から視線を逸らすと、軽く溜息を吐いた。
水陽炎が水面で踊り、揺れる水面は気持ちよさそうにチャプチャプと小さな音を立てていた。
「でも、花となって枯れてしまえば、それで終わりだ。受けた愛情も、抱いていた愛情も、全てが失われてしまう。骨にするのは我らザルザンだが、お前たちは拒むことができる。感情というものが、繰り返すことの幸福に水を差す。死者は、船に乗らねば全てを失ってしまうというのに。……改めて聞かせて貰うが、お前たちは大切な人の愛を全て無かったことにしたいのか?」
「……は、あ?」
「そんなの、だって……知らなかったし」
「女王さまは、花として死ぬことは美しいって言っていた」
コウハタは、チミィの兄から女王の名前が出てくると、眉を寄せる。何か言おうとして口を開くも、息を吸い込むだけで言葉は見つからない。噛みしめた奥歯が音を立てた。
「正しい知識を身に付けろ。知らなかったでは、消えていった者は報われないぞ。心臓を止めれば人殺しになるか? 嗚呼、そうだな。しかし、他者を巡る輪から逸らそうとする者も、人殺しだ」
死ノ國のザルザンが着ているドレスのフリルが、スカートの下で揺れる。
腕を組んで仁王立ちしている死ノ國のザルザンには、その恰好があまりにも似合っていなかった。
「ま、こうして話してみると対話ってのは、大切なのかもしれんな」
先程の冷ややかな瞳は成りを潜め、死ノ國のザルザンがニコりと笑う。
コウハタとチミィの三人の兄は、緊張して硬直していた体の力が僅かに抜けた。
「お前たちの心の言葉を聞かねば、あのまま切り殺していたところだ。早まらず、良かった。後でチミィに手厚くお礼でも言っておけ。――クソガキが」
死ノ國のザルザンのあまりの酷い言葉に、スヤキはチミィの耳を塞ぐ。
一方、コウハタとチミィの三人の兄は、顔色を真っ青にした。
どうやら、死ノ國のザルザンの怒りは収まってはいないらしい。
「どうして私が街の者に気を使い、さっさと花を抜いて船送りにしないのか、お前たちには分かるか?」
「わ、分からない」
「少しは考えろ」
「……ど、どうしてですか」
すっかり死ノ國のザルザンに怯えてしまっているチミィの三人の兄は、なんとか死ノ國のザルザンと会話を続ける。
「大義を掲げた奴らに襲われでもしたら、私はそいつらを殺さねばならないだろう? 私も死ぬわけにはいかないからな。しかし、他國のザルザンである私が他國民を殺すなんて、死ノ國に泥を塗ることになる。他國に干渉するというのは、大きなリスクがあるんだ。それに、お前たちが私を傷つければ、お前たちは同じように傷をつくる。きっと、悪意がある筈だからな」
死ノ國のザルザンは、コウハタを打った一人に視線を向ける。
「コウハタを打った部分、痛いだろう? な、ザルザンに因縁つけると碌な事にならないんだ」
「……だからなんだって言うんだよ」
「大袈裟な、もしもの話をしようか」
「もしもの話?」
「もし、お前たちの考えが街の人々に広がったとしよう。花を流す必要はない。船送りも意味がないってな。そうなれば、私はお前たちを殺してやらねばいけなくなる。ザルザンは換えがあるが、私たちだって痛い思いをしたのちに殺されるのはイヤだからな。ザルザンが悪だという考えは取り除かなければならないし、それなら、体も、考えも、リセットしてやるのが手っ取り早い。いいか。もし、私が富ノ國の民をリセットした方がよいと考えに至ったら、私を止められるのは、そこの腑抜けなチビのザルザンしかいないんだからな。――なんせ、我らは同士討ちが可能だ」
「ぼくは、そんなこと……」
「あ、女王のことは気にするな。くだらないことをお前たちに教えたんだろう? もし、この國が荒廃していくなら、その時こそ精霊として責任を取って貰うさ」
「女王さまに何をするの?」
「今は何もしない。ただ、このまま富ノ國を放置するというのなら、始末せねばならない。所詮、虫は火に勝てはしない」
コウハタは驚きに目を見開いた後、悲しげに目を伏せる。じわりと涙が滲むと同時に、目の奥で火が揺らめいた。
死ノ國のザルザンは、うっすらと涙を浮かべるコウハタの瞳の奥に小さな火を見つけると、残念そうな顔をして目を背けた。
「お前が打った小さきザルザンは、私よりもうんと優しい。大切にした方がいいぞ」
「ざ、ザルザン……俺、」
「私は死ノ國のザルザンだ。お前たちが言ったように、他國の者だ。ならば、お前たちのような民を思いやる気持ちなど、持ち合わせていやしないよ。何故なら、私はお前たちをよく知らないからだ。大臣のじいさんは骨を流して良いと言った。少しだが、過去の話もしてくれた。その過去は、きっと口に出すことは耐え難いほど悲しいものだっただろう。時間なんて、解決してくれやしない。でも、話してくれたんだよ。だから、私は大臣の意向には耳を傾けることにした。勿論、腕を流すなと言われたなら、それに従った」
「なら、もっと富ノ國のことを知ってくれたら、ザルザンはみんなを思い遣ってくれるの?」
まるで縋るような声が出たことに、コウハタは驚き、戸惑った。
「そりゃあ、勿論だ。この國が他人ではなくなったなら、私はこの國の人たちを大切に思うよ」
「……そっか。そうなんだね。もっと、知って貰ったらいいんだね」
コウハタは一縷の希望を見出すと同時に、視線を下げる。
城の中で過ごしてばかりいる自分は、富ノ國の素晴らさを幾つ知っていて、死ノ國のザルザンに伝えることができるのか。途方もない気持ちになった。
「さて、一先ず、話しは終わりとしよう。まずは仕返しをしておこうか」
「え?」
クッと下手くそに笑った死ノ國のザルザンは、コウハタを打ったチミィの兄に一歩、近づく。
死ノ國のザルザンから唯ならぬ空気を感じて、チミィの三人の兄は一歩下がる。本能が逃げろと言っていた。
しかし、チミィの三人の兄が逃げるよりも先に、死ノ國のザルザンは、コウハタを殴った一人を渾身の力を込めて殴った。
あまりの衝撃に、殴られたチミィの兄は尻もちをつく。
チミィの兄は目に涙を浮かべながら、死ノ國のザルザンを見上げる。
反抗する気も失せた様子のチミィの兄であったが、死ノ國のザルザンは一発では済まさなかった。
尻もちをついたチミィの兄の肩を掴んで押さえつけると、もう片方の手を硬く握りしめる。
「こういう時は、三倍返しするのが常だったか?」
再び殴ろうとしている相手に聞くのは、性格が悪い。その場にいる誰もが思ったことだろう。
固唾を飲んで様子を見ている者の空気など気にもせず、死ノ國のザルザンは、もう一発、もう一発と、チミィの兄を渾身の力で殴った。合計、三発殴ったことになる。
殴られた兄は鼻血を垂らし、目をチカチカとさせた。
「お前たちは、ザルザンは殴り返さないって思っていただろう? どうして、そんな風に思ってしまうのかは分からないが、これで、その考えが間違いだったと改めることができたな」
良かったな! なんて言って死ノ國のザルザンは笑っていたが、コウハタとチミィの三人の兄は体を硬直させていた。
「富ノ國のザルザンは私を止めようとした。心根の優しいザルザンがいて、お前たちは幸せ者だ。……しかし、私は違う。その痛みを覚えておけよ。私はやられたら返す。良かったなあ、世の中の決まりが三倍で! 六倍だったらお前、頬の骨折れていたぞ。なんていったって、これでも私は鍛えているからな」
死ノ國のザルザンは、尻もちをついたまま頬を抑えているチミィの兄の肩をポンポンと撫でると、数歩下がって離れた。
殴られたチミィの兄は、他の二人の兄弟に支えられるようにして、ぐったりとしながら立ち上がる。打たれた頬はすっかり青紫色に腫れあがっていた。
「これで綺麗に収まったということにしといてやる。……船送りについて聞きたいことがあるなら気軽に声をかけろ。また文句でも愚痴でもいいぞ。私は真実しか教えてやれんが、お前たちよりもこの地については詳しいだろう。だから、お前たちはお前たちについて、もう一度、よく考えてごらん」
コウハタは、途端に恐ろしくなった。
己に役割を与えたのは、この地であり、この星であるはずなのに、自らザルザンとしての役割を見せしめなくてはいけない。そんな、無責任な話があってよいものだろうか。
富ノ國の中ですら、ザルザンとしての役割を全うしていない自分。
コウハタは、自分が生きられる場所が、城の中しかないように思えた。
スヤキは、話のひと段落が終わったのを理解すると、チミィを連れて死ノ國のザルザンの元に向かった。
「どうして、たたくの!」
チミィは、顔を腫らした兄の姿を見つけると、小さな拳でポカポカと死ノ國のザルザンを叩いた。
「チミィ! 大丈夫だから」
末の子の行動に、チミィの三人の兄は慌ててチミィを止める。
チミィの三人の兄の心配をよそに、死ノ國のザルザンはチミィの抗議を受容するように、小さな頭を優しく撫でた。
チミィが輪の中に入ったことで、緊迫していた空気が和らいだ。
六人の姿を眺めながら、コウハタは死ノ國のザルザンの言葉を思い返す。
このままでは、いけない。
このままでは、手遅れになる。
コウハタは、指の先から凍えていくのを感じた。
冷たくなってゆく指を折り曲げて拳を握ると、ひどい焦燥感に襲われた。
気まずげに逸らした視線の先には、煌めく水面があった。
ザルザンとは何を望まれ、精霊が統治する國はどんなことを望まれているのか。
枯れぬ水は、沈黙を貫くばかりであった。
いつも評価やコメントに励まされております。
楽しんでいただけましたら、ぜひ応援お願いします!