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ZARUZAN  作者: 遥々岬
第二章 恵ノ國
34/34

分岐


 湧いて出る土の者(ラディナ)は、逃げ惑う人々の体を包み込もうとしていた。

 力のな子犬の口を塞ぎ、飛び立とうする鳥の羽に覆いかぶさる。そうやって相手の動きを止め、息を止め、自由を奪った。

 水の美しい國は、一瞬にして泥だらけの絶望の地となってしまった。


 建物の影が濃く沈んでいく中、レウィシアとパフィリカは黒いシャチに運ばれながら来た道を見つめていた。


「水泡鏡が使えない。急いでビャクヘキさまの元に……!」


 イグマはシャチの群れに指示を出し、震えそうな手を誤魔化すようにレウィシアを強く抱きしめていた。

 恐怖と不安から声を出せないレウィシアの内側でペロルの喉が震える。ようやく絞り出された音は「ミヨ」という一言だった。


 パフィリカはシャチの背びれから手を離す機会を伺っていた。

 しかし、それは狭い路地裏で実行するには無謀だった。

 シャチの群れがイグマたちを護るように周りを囲い、次々と現れる土の者(ラディナ)を、飛びながら水へと沈める。それを繰り返しながら運ばれるしかない今の状況に、パフィリカは焦りを募らせていた。


「傍にいたい時に逃がされたなんて……何のために國を出たんだ」


 悔しげに奥歯をかみしめながらも、人々の悲鳴が響く中で、突如「ドコからキたの?」という声がかかった。

 一瞬、空耳かと思ったが、その声は再び問いかけてきた。


「どんなバショからキたの?」


 シャチの群れから顔を出したのは、一人の青年であった。

 パフィリカはその姿に驚いた。なぜなら、その青年の肌や瞳は、どう見ても人間そのものであったからだ。


「い、イグマ」

「なんだ!」

「この子は、一体……」

「この子……? ――君は、なんだ?」


 イグマは前方に視線を送ったまま振り返り、パフィリカの視線を辿る。その先の存在に驚くと目を見開いた。


「ボクはファ・スプマン」


 ファ・スプマンと名乗る青年が繰り返したその名前に、イグマは眉をひそめてから、「君はファ・スプマ(・・・・・・)じゃない」と答える。

 しかし、青年はニッコリと笑ったまま、納得しようとしない。


「ファ・スプマンだよ。水鯨(ファ・スプマ)とはチガうよ。お、ぃ……おイシャさん」


 青年の屈託のない顔には、この混乱の中には似つかわしくない様子が漂っていた。

 パフィリカの乗ったシャチの横に並んで泳ぐファ・スプマンは、イグマの視線を避けるように、パフィリカを見つめながら語りかける。


「キたミチ、ツレていって、あげようか」

「……いいんですか?」

「いいよ、いいよ。ミズのナカ、ドロだらけ。みんな、イキグルしい。どーにかしなきゃ」

「変な気を起こすな!」


 イグマが必死に叫ぶ。その声は悲痛に響いたが、パフィリカはグッと口を噤む。少し考えたあと、ファ・スプマンを見つめる。「連れて行ってください」パフィリカがそう言うと、イグマはより一層強く名前を呼んだ。


「俺は、ミヨがいなければ死んでいたかもしれないんです。だから、ミヨだけを危険に晒すなんてことは、どうしたってできないんです」

「ビャクヘキさまの元に行ってから策を練るべきだ!」

「それじゃあダメな気がするんです……!」


 レウィシアを抱きしめるイグマの手が、悔しげに強まる。

 腕の中でレウィシアは三人の会話を聞いていたが、伏せることもできない目に影を沈めて僅かに俯く。


『ミヨが……いなければ、わたしたちは……死んだも、同然」

「レウィシア、お前まで何を言い出すんだよ」

『他者の生死が、私たちの生死であること。貴方にも、身に覚えがあるのではないかしら。イグマ医師』

「お前たちが俺を医者だと呼ぶなら理解してくれ。俺は は見過ごすことはできない」


 三人が対立している間にも、シャチの群れは忙しなく土の者(ラディナ)を叩き沈めていた。

 パフィリカはファ・スプマンを力強く見つめると「連れて行って」と懇願した。覚悟した顔だった。

 イグマが止めることができないのを見届けると、ファ・スプマンは答えた。


「いいよ。このミチをデたら、トびおりて」

「分かりました」


 止めることができないと誘ったイグマは、ファ・スプマンに問い掛けた。「お前さんは、一体何者なんだ?」心底分からないと言った様子で。

 ファ・スプマンが何かを言おうとしたその時、それよりも先に甲高い声がその正体を明かす。


『彼は、水亀(ファ・ロ)に落ちた赤ん坊! ギョルド病を発症していた ――乳飲み子!』


 イグマは驚き、信じられないというように、息を漏らす。目を見開き、動揺の色を隠せなかった。


『肺呼吸が下手な赤ん坊は、選べる。エラを得たとき、どちらで生きるか……! 彼は、水鯨(ファ・スプマ)から空気を与えられ、生き延び、水に適応した人間!』


 腕の中で叫ぶレウィシアの内側の声に、イグマの体は震えはじめる。

 レウィシアはその中で暴れる小鳥に静かに諭し、イグマの背中に手を伸ばし優しく撫でた。


「ギョルド病は…治療可能だったのか? 本当に……?」


 その声は震えていたが、滲む涙が後悔や悲しみのものではないことは漠然と感じ取れた。

 なぜなら、見上げたレウィシアの視界から見えたイグマの口元が、安心するかのようにほんの少しだけ上がっていたからだ。



 路地裏から抜け出ると、パフィリカはシャチの背ビレから手を離した。

 体を庇うように縮め、転がりながらも、やっと止まると上体を起こした。遠くでイグマの叫び声が聞こえたが、既にパフィリカは彼らの姿を見失っていた。


「ファ・スプマ……ン?」


 イグマと分かれた数尾のシャチが、パフィリカの周りをじっとりとした圧力で取り囲んでいた。

 その中にファ・スプマンの姿はなく、パフィリカは視界を広げ、必死に周囲を見回すが、心の中に沈む重苦しい不安は拭えない。


 シャチたちの動きは冷徹で、水面から湧き出た土の者(ラディナ)を叩き込んでは沈めていった。その動きには一切の躊躇もなく、まるで海の荒れ狂う獣たちがひとつの意志で動いているかのようだった。

 その様子に圧倒され、パフィリカは思わず息を呑む。彼の周りの冷たい水面が一層不気味に輝いていた。


 パフィリカは、ワンテンポ遅れて地上を探しても無駄なことに気が付くと水面を覗き込んだ。不安に胸はどんどん高鳴り、目の前の静けさが不気味に響く。

 突然、何かが近づいてきた気配を感じて振り返ると ――不意に、パフィリカの顔は何かに掴まれた。

 驚きのあまり息を呑んだパフィリカは、思わず身を引こうとしたが、相手の手は鉄のように強く、身動きが取れない。その力に恐怖を覚え、冷や汗が背筋を伝った。

 パフィリカの目がその手の中に捕らわれたまま、ただただ周囲を見渡した。

 目に映るもの全てが不穏で、影がねっとりと絡みつくように感じる。


「ツレていってあげる、ツレていってあげる」

「あ、あぁ……うん」


 パフィリカの顔を掴んでいたのはファ・スプマンであった。

 僅かに白く濁った瞳で弧を描き、楽しげに笑った青年にパフィリカの額に冷汗が流れる。


「その、イシ、すこしわけてくれたら、ツレていってあげる」


 布を巻いて隠していた額を曝け出すと「これ?」とパフィリカは尋ねる。すると、ファ・スプマンは満面の笑みで頷いた。

 蛾の妖精の額には、虹色の水晶が収まっていた。宙を舞う翅のごとく、キラキラと光るその水晶を求められたのだった。


「ミズ、カオをだすとクルしい。ヤわらげて、ヨウセイさん。アナタのソバ、クルしくない」

「これは万能じゃないんですよ。君が苦しんでいることは、それ自体が大切なことです。鈍らせても体に酷だと知っているでしょう? それでも、痛みを取り除くこの水晶が欲しいのですか?」

「……ホしい」


ファ・スプマンがニコニコと笑っていたその顔が急に引き攣った。無理に笑顔を作っている様子が見えた。

 パフィリカは、その水晶の力をよく理解しているように見えたファ・スプマンの言葉を心に受け入れ、「分かった」と願いを聞き入れた。そして、付け加えるように言った。「俺が死んでしまったときのことを考えて、前払いにしましょう」と言って、ファ・スプマンの額に、自身の額から光る虹色の水晶を近づけた。

 蛾の妖精のモスアイが、忙しそうに瞳の中で動き回った。


「……これで、ママ。サガせる」


 強硬な水晶が、青年の安堵の声と共に ――トプン―― と葉の上の朝露のように零れ落ちた。

 ファ・スプマンの額に水晶の雫が落ちると、それが虹色に輝きながら、彼の体内を巡り、やがて体を満たしていった。


「一等の痛みに効きます。苦しくても、その間は我慢してくださいね」

「ミズにモドるの、ガマン」

「その通りです。……でもやっぱり、自分の体には素直に従ってください。この水晶は決して何も治す力を持っていません」


 パフィリカが心配そうに見つめると、ファ・スプマンは無邪気に笑みを返す。「イシ、小さくなっタ。我慢スる。イシ、無駄にしない」それは先ほどまでの無理に作った笑顔とは違い、本当に喜びに溢れていた。

 パフィリカは、その表情を見て痛ましく思いながらも、その笑顔を慈愛に満ちた目で見つめた。


「ネガい、キいてくれたヨウセイさん。あなたがシぬことはない」

「どうして、そう思うんですか?」

「『ボクら』が、きっとマモりぬくよ」


 ――ボクら。ファ・スプマンがそう言った時、パフィリカが座り込んでいる地面の更に向こうに、建物より大きな影がゆらりと揺れた。




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