凶兆
土で形づくられた者を見つめ、イグマは静かに「土の者――ラディナ」と口にした。それは本来の、正確な呼び名だった。
だが、ミヨが使う「土人間」という言葉には、イグマにとって不快な印象や誤りはなかった。なぜなら、「土人間」という言葉は、その正体を知らない者が使う呼び方に過ぎないからだ。
恵ノ國では、ラディナの存在を知り、その特性を理解している者たちが多い。
ゆえに、その言葉があまり使われることはない。
しかし、ミヨの「土人間」という呼び方にも悪意は感じられず、それがむしろ彼女にとっては最も身近な理解であり、違和感なく受け入れられていた。
イグマはそのようなミヨに合わせて、その言葉を特に修正することはなかった。
それでも、彼の心の中では、正確な名称――ラディナが用いられることが、最も自然だという認識があった。
そして、うっかり口に出してしまうほど、イグマは動揺していた。目の前で繰り広げられる光景に一瞬、思考が止まる。気がつけば、無意識のうちに「ラディナ」と口にしていたその言葉には、何の意図もなかった。
「猫、犬……サイか?」
土の者に視線を巡らせるイグマに、ミヨは手斧の尾端に鎖を取りつけながら「あり得ない」と呟く。
次々と湧き出す数に、四人は動揺しつつ打開策を探った。
「ここは私に任せてお前たちは逃げろ」
「ふざけないでください。置いて行けるわけないでしょう!」
「相手はザルザンだ。私以外に太刀打ちできる奴がいるか?」
「だからって、あなた一人でどうにかできるとも限らないでしょう。バカですか!」
「バカはお前だ。また体を傷付けることになるぞ」
「そうなったとしても……俺は」
パフィリカは、肩を並べていた場所から一歩前に出るミヨの腕を強く掴む。
ミヨはそれを煩わしそうに振りほどく。
「喧嘩している暇はないぞ、バカタレども」
小さな言い争いを繰り広げる二人を無視して、イグマはレウィシアをしっかりと抱きしめる。ミヨが一向に手を差し出そうとしない様子を見て、イグマは自分がレウィシアの面倒を見なければならないと感じ始めた。
その時、レウィシアの内側にいるペロルが、あまりにも深く怯えているのか、いつものように音を発することができないでいた。
沈黙が漂う中、様々な姿を取った土の者が、じりじりと、まるで何かを見透かすかのように、四人に迫りつつあった。
「八朔、蹴散らせ!」
鋭い怒声が響く。
次の瞬間、床からシャチが飛び出し、土の者を叩きつけるように水中へ沈めた。
視線を建物の出入り口へ向けると、サンロッタが銛を手に立っていた。
「急げ! 建物の中に隠れるなんて愚策だ」
サンロッタの言葉に、四人は一瞬でその場を離れ、外へ向かって疾走した。
足音が響く中、突然、足元に黒い影が現れ、わずかに水面から浮かび上がった。視界を奪うほどの巨大な存在、それはシャチの群れだった。
サンロッタは悠然とその背に乗り立っているが、ミヨたちは慣れぬ足取りで必死に乗ろうとし、体が揺れた。転びそうになる瞬間、必死で踏みとどまり、ようやく安定した形で跨ることができた。突然の出来事にミヨは驚きつつも、その動揺を感じさせないよう必死で手を冷静に保つ。シャチの体に傷をつけないよう、手斧の刃を腕に挟みながら。
サンロッタはその様子を冷静に見守りながら、鋭い声で言った。「状況!」
イグマは即座に答える。「ザルザンらしき男。土の者が湧いてすぐ現れた」
簡潔に説明されたその言葉を聞くとサンロッタの表情が険しくなり、瞬時にミヨを睨みつけた。
「ザルザン? ……どこの國のだ」
「知らない」
「面識は」
「ない」
「本当にザルザンなのか? それとも、他の……」
「奴は私に討たれる理由があると言った。……私が探っていたザルザンかもしれない」
「死ノ國を襲撃した奴だっていうのか? ……厄介なことになったな」
サンロッタは深い溜息を吐くと指笛でシャチに指示を出す。
するとイグマとレウィシア、パフィリカを乗せたシャチが別の道に曲がった。
パフィリカは慌てた様子でサンロッタの名前を呼ぶ。
「相手がザルザンだというなら、お前たちは邪魔だ。シャチに城の方に逃げるように指示を出した。事が収まるまで姿を隠していろ」
「待ってください、俺は一緒に行きます!」
ミヨが口を開くよりも先に、パフィリカを乗せたシャチは遠くまで泳いで行ってしまった。
「蛾が傍にいないと不安か?」
「いいや。着いて来るなと言おうとしただけだよ」
「……懸命な判断だな。それより、お前こっちに移れるか? シャチを連れて行くのは荷が重い。こっちの水鯱に乗り移ってくれ」
ミヨがサンロッタの足元を見ると、黒いシャチとは異なり、透明な水でできたシャチがいた。指示に従いたいが、ミヨにはシャチの上に立つことなど到底無理だ。「どうやって……」と尻すぼむ。
「お前ができないなら、ソイツに任せりゃいい」
「任せるって言ったって……って、うわ! あ、あ!」
ミヨが思わず弾き飛ばされ、ボールのように空中で放られると、無意識にサンロッタの腰にしがみついた。
その瞬間、サンロッタはほんの少しからかうような口調で、「変なところ触んなよ」と冷ややかな声を投げかけた。
ミヨはその言葉にわずかな不快感を覚えつつも、必死にサンロッタにしがみつく。
ミヨを背に乗せていた黒いシャチは、来た道を素早く引き返していった。
周囲からは、逃げ惑う人々の絶え間ない悲鳴が聞こえ、ひとしきりの混乱が続いていた。その音がサンロッタの耳にも届き、眉間に鋭い皺が刻まれる。
「殺せるか?」
「奴は青い火を灯していた。この時間に、太陽が昇ることも沈むこともしないこの時間に。未知すぎる」
「青となると、俺たちが灯す火よりも熱が高いわけか。……俺たちには倒景の火が目に宿る気配もない。良い案はないのか?」
冷めきったサンロッタの声に、ミヨは顔を顰める。
「お前はこの現状の要因の一つに、私を疑っているのかもしれないが、そうとは限らん」
「理由は?」
「死ノ國だけじゃない。富ノ國にも混沌をもたらした人物がいる。その他の國も、奴の脅威に晒される可能性があった。それが今、現実のものになっているだけだ」
「全く……俺がザルザンになってから、こんなことは怒ったことがないぞ。一体、何が起こっているっていうんだ」
水鯱が上げる激しい水しぶきがミヨの顔面を叩いたが、必死にサンロッタに声をかけようとした。
その時、視界が一気に広がり、明るさが差し込んできた。どうやら、通りを抜けたようだ。
サンロッタが突然、鋭い視線を向けると、低い声で呟いた。
「奴か」
その瞬間、ミヨは不意に体を浮かせられた。驚きのあまり、一瞬体が止まったが、すぐに方向転換して、無事着地することができた。
顔を上げると、サンロッタが鋭い目で空を睨みつけていた。
その視線を辿ると、ついに例の男が現れた。
「お仲間を連れてきたのかい?」
「仲間じゃねぇよ」
ミヨは思わず、心の中で「そこは否定しなくてもいいだろ」と呟いたが、この状況では不適切だとすぐに黙り込んだ。
「お前もザルザンなんだってな」
「そうだな。俺もザルザンだ」
男の冷徹な表情が、サンロッタとミヨに重くのしかかる。男自身の言葉でザルザンと名乗ったからだ。
その表情の裏に隠された意図を探るように、サンロッタはじっと男を見据えた。
サンロッタの声には警戒が滲んでいた。
例のザルザンは嗤いながら手の甲で顔を覆う。その仕草が、滑稽さを示すものか、それとも残酷な本性を覗かせる前触れか――サンロッタは急いで判断を迫られていた。
「どこの國のザルザンだっていうんだ? 人様の國をこんなに泥で汚しやがって。無礼にも程があんじゃねーのか」
「俺がどこから来たかだって? それは、お前たちと同じ場所だよ」
その一言に、ミヨの脳裏に鮮烈な不安が走る。「同じ場所」とは何を意味するのか、その意味が分かる間もなく、ザルザンの次の言葉は冷たい刃のように続けられた。
「大谷なんて野暮な名で呼ばないでくれよ。まさか、我らの故郷、『彼黎郷』を忘れたわけじゃないだろう?」
「……彼黎郷?」 ミヨは顔を顰め、言葉を探す。
男はその沈黙を無視するかのように続けた。
「元より、後悔の果てに生まれたフィン・グ・ラリアープルの申し子と相反する存在。絶望さえも希望とする。それこそが、彼黎郷のザルザンだろう?」
男の言葉がひとつひとつ、ミヨの胸を重くする。彼がどれほどの意味を込めて語るのか、その奥底の危険を感じる。
「俺たちは『地球』 ――ライセに還ることができずとも、絶望を知らずに輝き、そして死んでいけたはず。それを一匹の山猫がこの希望の星の仕組みを書き換えてしまった。……同郷の友よ、残酷な仕打ちに堪えながらも愚かな子らに生をやり直す機会を与えることに、なんの不満もないのかい?」
初めて耳にするその言葉に、ミヨは一瞬、何も言えずにいた。それがどんな意味を持つのか掴めず、ただその空気の冷たさを感じ取るだけで精一杯だ。
だが、何かを掴みたい気持ちがふつふつと湧き上がり、ようやく口を開く。
「不満はない」
ミヨの言葉が響いた瞬間、男はじっと彼を見据え、目を鋭く眯めた。
「何故?」
「私がザルザンだからだ」
少しの間をおいて、ミヨは相手をしっかり見据えながら続けた。「お前もザルザンというのなら、この意味を理解する事ができるんじゃないのか?」
その言葉は、真っすぐ男に向かって放たれた。まるで自信に満ちているかのような印象を与えるほどである。それは、本心から出た言葉だったからだ。
その返答に、男は体をくの字に曲げ、心底愉快そうに大声で笑った。
「そうだった。お前も、お前も…… ――俺と同じ、ザルザンだ」
その一言が、ミヨの胸に重く響いた。それは確かな意味を持ち、これからのすべてを変える予兆だった。
男はにんまりと目を三日月のように細め、まるでステージへ招くように、優雅に手を仰いだ。
すると、再び土の者が地面から湧き出てきた。
「俺たちは絶望しない。寂しく思いはしても、悲しむことがあっても、絶望することだけは ――ない」
男が素早く背中に背負っていた矢に手を伸ばすと同時に、サンロッタは水鯱と共に空高く跳躍した。銛がその手にきっちりと構えられ、鋭く舞い上がる。
――ザシュ!
鋭い音が響き、サンロッタの銛が男の頬を掠めた。
血がわずかに飛び散り、宙に浮かぶ二人の間に重い静寂が広がる。
男は微笑んだまま、のけ反ることなく、瞬時に三本の矢を弓に構えた。弦が鋭く引き絞られ、迷いなく放たれる。――矢じりには青い火が猛々しく燃え上がっていた。
「八朔……!」
サンロッタが呼びかけると、反応するように水鯱の八朔が空を駆け抜け、二人の間へ飛び込んだ。急激な水流が巻き起こり、土の者を叩き沈めた時と同様、矢を叩き落そうと猛進する。しかし、矢の勢いは途切れることなく、八朔の力では止められなかった。
ジュウゥゥ! という轟音が響き、湯気が立ち上る。煮えたぎる体の痛みに耐えながらも、八朔は矢がサンロッタに届く前にさらに加速し、水中へと体を沈めた。
ミヨとサンロッタは咄嗟に手を伸ばしたが、指先が八朔の体に掠ることはなかった。
サンロッタは目を見開いたまま、沈みゆく八朔から視線を逸らすこともできないまま、その名前を呟く。
八朔の姿が見えなくなると、暗黒のような静けさが広がり、深い絶望が水面に漂い始めた。




