青
水の体を得た者は、底の見えない大地を見下ろしても恐怖を感じることはない。
透明に輝く水中では、肺を汚す存在など、ひとつとしていないのだから。
水の國――それは知識の國でもある。
恵ノ國は、知を探求する者たちにとっての宝庫であり、その知識が糧となるのだ。
通りに響いていた歌声が途切れ、静寂が街を包み込んだ。その空気に飲まれるようにして、広場の方から徐々に人々の喧騒が戻り始める。
レウィシアと並んで歩いていたイグマは、広場のベンチに座っていたミヨとパフィリカを見つけると「おぉーい」と手を振った。
「どこが曲の終わりか分かりづらいな」
「分かりにくかったな、すまん」
イグマはあっけらかんと返すが、ミヨは眉をひそめながら「謝ることでもない」と言って軽くため息をつく。そして横目でレウィシアを見やりながら、そっと手を差し出した。
レウィシアは、その手に向かって静かに腕を伸ばした。その瞬間、ミヨの表情がわずかに緩む。
二人の手は重なり、一方の手が優しく片方の手を握った。
「良いことは知れたの? レウィシア」
「”えぇ。とても”」
「そう。それなら良かった」
陶器でできた人間――レウィシアをイグマに預けるほどの信頼を受けているのは光栄なことだろう。しかし、ミヨのレウィシアに対する過保護ぶりを見るたび、どこか異様に思えるのも事実。
二人のやりとりを眺めながら、イグマは口元に苦笑いを浮かべた。
「それで、お前さんたちはこれからどうするんだ。他に何を知りたい?」
「何を知りたいかなんて、私には分からんよ。まだ精霊とも話せていない。得た情報といえば死の精霊の花の綿毛などではなくて、青い星を指す精霊のことだけ。次の旅路を決める為の情報だってありゃしなかった」
「分かった。不貞腐れているんだな。しかし、そうは言っても仕方ないだろう? 死した精霊の綿毛など誰も見たことがなければ、そのようなものを見た者も名乗りでないんだから」
「元より、手探りしかない旅だ。イグマに当たるものではない事は百も承知。しかし、例の件についても収穫がないんじゃ、途方に暮れるか貴方に八つ当たりするしかないんだよ」
例の件――それは死ノ國の襲撃と、富ノ國崩壊未遂の件についてである。
ミヨの苛立ちは、この場の誰もが理解していた。
「……サンロッタを見るに、國の一大事には気づけるとは思うけど」
ミヨは視線を地面に逸らすと、ポツリと呟いた。
それはパフィリカに配慮をするかのような態度であった。
富ノ國の事情など知らないイグマは、自信ありげに「あぁ! アイツは頼りがいのあるよ」と笑った。
イグマの言葉にフッと軽く頬を緩みかけたミヨだったが、足元の水が地面の奥が嫌に轟いているのを見て顔を顰め、低い声で「おい」と呟いた。
「あれはなんだ。まるで、何かがこっちに向かっているような……」
深い水の奥から、影のような靄がブクブクと大きな泡となって足元に近づいていた。
ミヨが足元の奥に気を取られていると、パフィリカが「うわ!」と声を上げた。
その声につられて足元を凝視していたミヨが顔を上げると、異様な光景が広がっていた。
街中に浮かんでいた水泡鏡が酷く濁っていたのだ。
「どうなっているんだ、これは」
「……初めて見るのか?」
「あぁ。こんなことは、今まで一度も……」
――ない。イグマがそう言おうとした時、濁った水泡鏡が弾け、足元の水のレンガから泥水が湧き出てきた。
周囲にいた人々は一様に悲鳴を上げ、建物に駆け込む。だが、その先からもまた不安を掻き立てるような叫びが聞こえてくる。
ミヨが険しい表情で辺りを見回すと、水路、噴水、装飾、街を構成する全ての水が、泥のように濁り、水の中で蠢いていた。
「何か、形作っているぞ……」
「何を作ってるって言うんだよ」
「そんなことは知らん」
水辺に並ぶ花壇のあたりで、湧き上がる泥が凝縮し、徐々に人の形を取っていくのが見えた。その光景にミヨたちは身を引く。
「土もなければ、最後の慈悲さえ与えられない――」
不意に聞こえた、どこか気だるげで冷たい声。
見上げると、空には宙に浮かぶ人影がひとつ。
まるでこの異変を司るもののようであった。
「……人が空を飛んでいるのか?」
イグマの呟きに、空の人物はクツクツと喉を低く鳴らして笑った。
「これは船送りにされなかった鳥の花の根で編んだ服を着ているのさ。鳥とは空を飛びたい生き物だろう? 体を失くし、羽を失くそうとも、飛ぶ意志さえあれば飛べるのだと教えてやったんだ。そうしたら、ほら。見事に空飛ぶ洋服の出来上がり」
「……花になりたがる鳥なんているもんか」
「なりたいとか、なりたくないとか。そんな意思はいらない。ザルザンが船送りにしなけりゃ、花になるしかないんだから」
「ザルザンは如何なる者の骨も船送りにする義務がある」
「そう思い込まされているだけだ。俺のように便利な使い方を知ったなら、この便利な物を作らずにはいられないはず」
ミヨは男の言葉に青筋を浮かべながら怒りを募らせる。
「お前、誰だ。この國の者じゃないよな」
「見て分かることを尋ねるとはバカな奴」
「随分な言葉をどーも。それで、お前は何者なんだ? ――まさか、ザルザンなんて言わないよな」
謎の人物はミヨの言葉に目を見開くと、一瞬押し黙ったが、やがて声を上げて笑い始めた。
――笑いは次第に歪み、耳障りな音となって響いた。やがてその声が途切れると、彼は疲れたように俯き、低く乾いた息を吐く。顔を上げた彼の表情には、笑みの残滓すらなかった。
ただ冷たく、感情の読めない瞳がミヨを捉える。
ミヨはレウィシアと繋いでいた手を離し、「イグマかパフィリカの傍にいて」と短く耳打ちをした。
レウィシアはゆっくりとミヨから離れると、イグマに寄り添った。
「そのまさかだと言ったら?」
「だったら、さっさとご自慢の武器を構えるこった」
ミヨはベルトループに取り付けている革のポーチのボタンを外すと、二挺の手斧を取り出す。
「ザルザンを討つことができるのは、それもまたザルザンである。それで、お前は俺を討とうというのか?」
「どうやら、我が國の長――死の精霊を殺した者を見つけることができたからしいからな。敵討ちするには、これ以上の正当な理由はない」
「確かに、俺はお前に討たれるだけの理由があるのかもしれない。しかし、お前に俺は討てない。なんせ、他力本願にしか炎を灯せやしない――貧弱者なんだから」
男は背に背負っていた弓を引き抜き、矢筒から三本の矢を取り出した。
ボッ、ボッ、ボッ――。次の瞬間、弓にかけた矢の先端に、青白い火が音を立てて灯る。
矢先に灯った青白い炎が、まるで周囲の闇を嘲笑うかのように揺らめいた。それは不自然なまでに鮮明で、見る者の背筋を冷たく撫でた。
ミヨたちは目を見開き、そのありえない光景に言葉を失う。
「突っ立っているな! こっちにこい!」
凍りついた空気を切り裂いたのはイグマの叫び声。彼の目には、ただならぬ焦燥が浮かんでいた。
イグマはレウィシアを素早く抱き上げると、一目散に建物へ向かって駆け出した。
その瞬間、矢が放たれる。
頭上から音もなく滑るように飛来する三本の矢。青白い火が揺れ、標的を照らしながら迫る。
「水の中でも……燃えてる……」
矢はパフィリカの足元すぐ近くに突き刺さった。濁水の中でも、火はゆらゆらと揺れていた。
イグマは迷うことなく建物と建物の中を駆け抜けることを選ぶ。「立ち止まるな! 走れ!」何度も声を荒げながら、イグマは先導した。
その姿を追うように、ミヨとパフィリカも必死に走るしかなかった。
途中、建物に身を潜めていた住民たちが慌てた声を上げる。
「一体どうなってるんだ!」
イグマは足を止めずに返した。
「分からねえ! 用心してくれ!」
濁水に満たされたうす暗い建物の内部を進むと、不吉な静寂が耳を塞ぐように広がる。だが、その中でイグマが足を止めた。
彼の背中に気を取られていたパフィリカは、そのまま勢いよく突っ込む。
「いてて……イグマ、どうしたんですか」
パフィリカは鼻を抑えながらも不思議そうに問いかけるが、イグマの凝視する先に目を向けて息を飲んだ。
「こりゃあ、どうなってるんだ……」
イグマの困惑したような呟きは、薄暗い建物の中で小さく響いた。
暗闇に滲み出るように現れる黒く粘つく物体。それは建物の隙間から湧き出し、形を持ち始めていた。
人の形、動物、そして虫……。ぶつぶつと泡立つ泥が、触れるたびにねちっこい音を立てている。その音は次第に耳障りになり、神経を逆撫でするかのようだった。
「土の者が、どうして湧いて出るんだ……?」
イグマの低い呟きに、ミヨとパフィリカは言葉を失う。土の体を得た者たちは、未完成な体を這いずりながら近づいてくる。
空気が重く沈み込む中、ミヨのこめかみに冷汗が流れた。




