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BWV856 夢に逃げる

 ひとりの人間が死のうとしていて。それはベッドの上かもしれないし、路上のどこかであるかもしれない。境遇も年齢も性別も、空欄ではないのかもしれない。さしあたって、忘れよう。とにかくひとりの人間がいて、その人間が死のうとしていて、最後に夢を見たとして。その夢はどんなものだろう。

 さあ、夢に逃げよう。死を宙吊りにする旅に出よう。まぶたを閉じるのは死ぬためではなく、夢を見るため。さあ、逃げよう。生まれたときから追ってくるその影から。

 アスファルトの道路から、人のかたちをした影が生えてくる。街灯に照らされたその揺りかごに、影の子どもが生えて、影ののっぽに成長する。街灯は夜の隅々まで立っており、影はそこかしこから生えてくる。地から生える植物のように、アスファルトから影が生えてくる。

 生まれた影は、左手を背に当てて、右手を前に差し出し、握手を求めるような姿勢のまま、こちらに向かって走ってくる。そこかしこから、わらわらと。真っ黒な姿で、真っ黒な無表情で。

 逃げる人は、逃げるだけ。舞うように、跳ねるように、握手を求める影の群衆から、すれ違うように逃げまわる。子どもの頃の鬼ごっこのように。死を懸けて、時に優雅に、時に呑気に。夢に特有の、滑るような軽やかさで。

 影の生えてくるアスファルトの道路を、街灯の照らす罪深い路上を、逃げる逃げる、逃げまわる。たどり着いたのは、夜の駅舎だ。停車していた、恰幅のいい電車に乗り込む。扉が閉まり、電車は走り出す。ほっと息をつく暇もなく、車内のそこかしこにも影、影、影だ。椅子に座った疲れた影が、こちらに気づいて立ち上がる。吊革にぶら下がっていた幼稚な影が、こちらに気づいて床に降りる。見まわっていた車掌の影が、こちらに気づいて帽子を脱ぐ。

 あっという間に囲まれた。右手を差し出した顔のない影が、ぎゅうぎゅうとこちらに握手を押しつけようとする。逃げる人は、断固として握手を拒む。両手を両脇の下に差し入れて、ぎゅっと力を込めて、だれからの求めにも応じない。だれとも手をつなごうとしない。

 影たちはみんな左手を背に当てて、右手を前に差し出して、ぎゅうぎゅうと逃げる人の頬を押しつづけたり、逃げる人の腕を捻じ上げようとしたりする。影で満員の車内の四面楚歌で、逃げる人はそれでもぎゅっと力を込めて、黒い他人の群衆を拒む。ハリネズミのように孤独を保つ。

 電車が止まり、扉が開く。両手を両脇の下に差し入れたまま、影たちを押しのけるようにして、逃げる人は電車から降りる。

 駅舎の外に出てみると、そこは閑散とした遊園地だった。夜の遊び場は、楽器だけ残されたオーケストラのよう。奏でる人もなく、艶やかに寂れている。それでも街灯は隅々まで立ち、影は黒々と生えてくる。眠りこけていた遊園地が、夢に気づいて震えだす。逃げる人は逃げまわり、ローラーコースターのレールを走り、メリーゴーラウンドの隙間をかいくぐり、無尽蔵の影たちを相手に、報われることのない逃走の喜劇。最後は観覧車に逃げ込んだ。

 個室トイレに駆け込んだように、束の間の孤独にほっと一息。逃げる人は腰を下ろして、だんだん高くなる視点に胸を躍らせる。遠く眼下には、地を埋め尽くす蟻のような影たちの群れ。観覧車から降りたらどうしよう。どこに向かおう。どこまで逃げよう。そんなことは考えたくなかった。いまはただ、夜を見下ろす夢に浸っていたかった。

 観覧車が頂上に達したとき、ふと気づくと、向かいの席に、ひとりの影が座っていた。左手を背に当てて、右手をこちらに差し出している。真正面から、ふたりきりの空間で、黒いのっぺらぼうがこちらを見つめたまま、真摯に誠実に握手を求めている。

 結局、逃げられないのだろうか。どこまで行っても、影からは。いつまで待っても、夜だろうか。その手を取るしかないのだろうか。

 逃げる人は、それでも笑った。逃げ場もなく、目と鼻の先に死があっても、影の手を取らず、夢のなかで弱々しく笑った。

 今夜、ひとりの人間が死のうとしていて。夢に逃げて、影に追いつめられて、それでも笑って、死とふたりきりの観覧車のなかで、夜が終わるまで死を拒んでいた。

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