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BWV846 枯葉送り

 故人のたっての希望により、遺体は葉葬ようそうによって送られることと相成った。いわゆる枯葉送りである。

 百や二百ではきかない枚数の枯葉に、いちまいいちまい誠実な涙を染み込ませるのは、ちょっとした大仕事である。必然的に、感情の真贋は問われなくなる。あくびによって流された涙でも、涙は涙だ。故人もきっと許してくれることだろう。

 さて、正体不明の感情を含んだ枯葉が、然るべき山の然るべき場所で、遺体の横たわる棺に敷き詰められる。あふれんばかりに積み重ねられ、あふれた後も積み重ねられ、すでにして墓であるような枯葉の小山が、たちまちにして出来上がる。秋の風物詩のひとつといってもいい、寂れた死の情景である。もちろん、人が死ぬのは四季を問わずであるが、枯葉送りは秋の季語となるほど、その一抹の侘しさが浸透している。

 枯葉に埋もれた棺と遺体は、その場に三日間、放置される。棚ざらしのまま、運命の一撫でを待つわけである。三日ののち、その場に見届け人たちが赴くと、雨風の仕業か、わらべのいたずらか、積み重ねられていた枯葉たちは、影もかたちもなくなっている。その跡に見出だされるのは、相も変わらず横たわる遺体、もしくは空っぽの棺である。

 前者の場合、遺体は丁重に荼毘だびに付される。枯葉が連れていくことのなかった、いわゆる送りそこねであるが、嘲弄することは固く禁じられている。葬る道行きが変わったというだけだ。

 後者の場合は、問題ない。棺を片付け、故人の安寧を祈るばかり。あとくされのない、さっぱりとした葬送である。骨すらも後に残らない。死の行き先もわからない。

 なにが枯葉送りの成否を分かつかは、もちろんさまざまな説がある。生前の人徳、敬虔であったかどうか、死んだ日時、遺体の頭が向けられた方角。すべて世迷言であるが、もっとも人口に膾炙かいしゃする説は、枯葉に含まれた涙の純度によるというものだ。いわく、一枚でも本物の哀しみが込められていたならば、故人は枯葉と無事に旅立てる。

 だが、枯葉はそんなことを斟酌しんしゃくしない。枯葉送りの成否は、時の運、の一事に尽きる。風の吹くまま、死の向くまま。それだけのことだ。

 口さがない人々によれば、ここには恥ずべきからくりがあり、すべてはぺてんだということになる。要は、どれだけ金を注ぎ込んだか、どれだけ富を貯えたかであって、遺体が消えるのは、三日のあいだにこっそりだれかが連れ去って、別の場所に葬るだけ、つまり葉葬、枯葉送りなどと称しても、実態はおためごかしをまぶした火葬にすぎない、だれもが送りそこねであり、枯葉と旅立った人間などひとりもいない。うんぬん。

 とはいえ、住む家にさえ不自由していた貧しい者が、枯葉送りを希望し、願いが叶えられるということは多々ある。それもぺてんだというのであろうが、ここではその真偽には立ち入らない。

 死から帰ってきた者がいない以上、火葬であれ土葬であれ枯葉送りであれ、それが葬られる死者にとってどのような心地であるかは、推測の域を出ない。しかし、古来から人は死後を夢み、死者を代弁してきた。時に切実に、時に厚かましく。人が死を受け入れられないかぎり、憧憬まじりの夢が消えることもないだろう。この地方に残る歌の一節にも、枯葉送りのそんな心情が語られている。


 枯葉に埋もれた暗闇は

 死出を祝した黄金色こがねいろ

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