フクちゃんの涙
第一章 昭和二十年七月
連夜の空襲に怯える帝都東京。
一台の車が高松宮邸への道を急ぐ。しかし交通整理をしている巡査がしきりに声を荒らげているのは通りをゆく大八車にではなく、邪魔にならない道端にいた歩行者に対してであった。
「こらっ、拾うんじゃない」
「敵のビラは持ち帰らないように!」
「もし子供が拾ったら、後で交番に届けなさい!」
十五分後、高松宮邸の庭。
宮様の支度が整うまで、お庭をご覧くださいと言われた作家の大佛次郎は手入れの行き届いた庭を歩いていた。一部では芝生が掘り返されて豆が植えられているとはいっても、さすがに見事な庭だと国民的作家は感心しながら歩いていた。
ふと見ると、まるでとってつけたように庭に一枚のビラが落ちている。そこには大佛にとってなじみぶかいものが描かれていた。
同じ日、信州神科村。
鎌倉からこの村へ疎開していた漫画家の横山隆一は、わざわざ訪ねてきた村長と会っていた。妻は病で床に伏せっている。
「奥さんが倒れているのに押し掛けてきてすまないが、この話は横山さんの耳にも入れておいたほうがいいと思ってね」
「いえいえ、こちらは大丈夫です。何のお構いもできませんが。で、何かあったんですか?」
「実は、東京の方でこんなものが撒かれているらしい」
村長が黒い鞄から取り出したのは、折りたたまれた新聞のような紙片だった。隆一が広げると「落下傘ニュース」と大きく書かれている。たしかに新聞のようだが、どこかおかしい。
「米軍が空から撒いてるんだ。裏をちょっと見てほしい」
裏返すと「フクちゃん」が掲載されている。
いつ書いたのか定かではないが、紛れもなく隆一自身が書いた「フクちゃん」だった。驚いて声も出せない。
「東京の親類から送られてきて、驚いて村長である私の家に届けてきた人がいてね――『横山さんは米軍と通じているんじゃないか』なんて言うから、馬鹿なこと言うもんじゃないと叱っておきました」
「私は米軍のスパイなんかじゃ、ありません」
「もちろんわかってます。みんな戦争で楽しいことがなくなって、家族が英霊になった人もいて――やり場のない思いを抱えているんです。だから、おかしなこと言う人も出てくる――」
村長は明日駐在所に届けますと言って「落下傘ニュース」を鞄にしまうと、居ずまいを正した。
「横山さんが書いた『スパイに注意』というポスター、あれ、子供たちにすごい人気でしてな。みんな、フクちゃんの横山先生が東京から来てくれたって大喜びしたもんです。村民はみな、横山さん一家を歓迎しています。変なことを言う人がいても気にしないでください」
奥さんお大事にと言い残し村長は帰っていった。隆一はどこにぶつけたらいいか分からない怒りを抑えながら、英語も話せない俺が米軍に通じてるわけがないだろと独り言をつぶやいた。そして、か細い声で病床の妻が隆一を呼んでいることに気づき客間を後にした。
第二章 昭和二十一年秋、東京
東京浜松町の新聞社「新夕刊」の本社社屋。
社屋といってもほとんどバラックに毛が生えた程度の建物である。
「隆さん、これは完璧な著作権侵害だね。原稿料をもらわなくちゃいけないよ!」
ボロボロの服を着た吉田健一は手に取った「落下傘ニュース」を見ながら息巻いていた。フロアの全員に筒抜けで聞こえている。建物が穴だらけなのである。吉田は時の宰相吉田茂の長男だが、ボロボロの服を着ているので、外ではそのことに気付く人は誰もいない。逆に、警官から職務質問まで受けているような有様である。
「とはいっても健ちゃん、米軍に原稿料払えって言うのかい?」
近所の友人である大佛が終戦間際に高松宮邸で拾った「落下傘ニュース」は、横山のもとに渡っていた。
「俺がGHQと話すから、今から一緒に行こう」ソファーから身を乗り出すと、吉田は受付のほうに向かって社用車を出してくれと声をかけた。
受付兼配車係の女性が「これから小林局長が使う予定です」と応えた。
「え、小林さんがお出かけ? 誰かと会うの?」
「はい、これから銀座で白洲様とお会いになる予定です」
そこへ、上の階から軽やかに小林秀雄が「やぁ」と降りてきた。既に評論家として名をなしている小林はこの会社で局長待遇になっている。小林と永井龍男が旧知の横山をこの新聞社の「漫画部」に呼び寄せたのであった。「渉外部」の――といっても所属は一名だけだが――吉田健一は英語が話せるので、新聞の検閲をするGHQとの折衝役として呼ばれていた。これは長く文藝春秋に籍を置き、検閲への対策をよく知っていた永井の発案だった。
「小林さんは、白洲次郎さんと親しかったんですか?」吉田が尋ねた。
「次郎さんじゃなくて、奥さんの正子さんの方だよ、君たちも途中まで一緒に乗ってくかい?」
二時間後、二人は新橋のガード下で飲んでいた。この二人が飲んでいるのはよくあることだったが、この日はいつもと違い、気落ちして寂しくやっていた。
「戦争中は著作権は停止ですって言われてもなぁー」
「あの将校さん、日本語が上手で驚いたな。戦前に日本に来た時、朝日新聞のフクちゃんで日本語で勉強したって言ってたね」
「作者にお会いできて嬉しいと言われて、ちょっと気分が良かったよ」
「隆さん、そこで喜んじゃだめだよ。外人はお世辞は言うんだ。言うけど、絶対にビタ一文払おうとしない」
「みんな、そうなのかい?」
「あー、ケンブリッジでも、ロンドンでも、みんなそうだったよ」
第三章 昭和二十二年秋、鎌倉
鎌倉駅にほど近い横山邸の玄関に学生帽をかぶった若い男が訪ねてきた。
東京大学と名を改めたばかりの東京帝国大学の学生であるその男は、横山先生と話がしたいと言う。
家にまでサインを求めに来る人は珍しいなと隆一がペンを休めて応対に出ると、男は自己紹介もそこそこに話を切り出した。
「ご自身の戦争責任について、先生はどうお考えですか?」
「戦争責任? なにそれ?」
「文化人としての先生の戦争責任です」と言うと、学生帽の男は折りたたまれた紙切れを取り出した。
そこにはドクロの顔をした不気味な男たちと、それを遠巻きに怪訝そうに睨んでいるフクちゃんたちが描かれていた。大きく「スパイに注意」の標語。戦時中に依頼されたポスターだった。
「戦時中、軍部に協力して国民を煽り立てていましたね!」男はやや興奮していた。
「あぁ、国民の一人として、漫画家として務めを果たしていたよ」
「戦争に協力した文化人としての責任はどう考えなのですか?」
隆一が黙って聞いていると、男は「軍国主義は打倒され、GHQによって民主的な日本が建設されたのです!」とますます熱く持論を語りだした。
「そうか、GHQか」と呟くと、隆一はタンスにしまってあった落下傘ニュースを取り出して男の前で広げて見せた。
「俺は知らないうちに米軍にも協力してたよ。村長からはスパイじゃないかとまで言われてね」
「いま総理大臣をやっている吉田茂さんも敵と通じていると言われて、戦争中は捕まってたよね。私はさいわい捕まらなかったが」
男は少し混乱した様子で「落下傘ニュース」を凝視していたが、ぶつぶつ何かを言いながら、やがて帰っていった。
「やれやれ、勝てば官軍、負ければ賊軍か……」
その日の夜、隆一は、鎌倉駅を挟んだ大佛邸で大佛次郎・酉子夫人、作家の今日出海らと仲良く酒盛りをしていた。猫もちょろちょろと姿を見せている。
昼間の客のことを隆一が話すと、「文化人の戦争責任ねぇ…東京音楽学校の井口君も、美術学校の藤田嗣治さんもそうやって追い出されたんだよね」とため息まじりに大佛が嘆いた。「あれは、権力闘争の一種だな」
「お気の毒に……」と酉子夫人が続けた。
思い出したように今日出海が「井口君は、今度子供のための音楽教室をやるそうだね。私のとこにいた吉田君が一緒にやるらしくって――」「吉田君が役所を辞める時はずいぶん引き止めたんだけどなぁ。どうしても音楽のことを書きたいんですって、東京からわざわざ電車に乗って、うちまで言いに来て、辞めてったんだ」と続けた。
「その人、確かシューマンの本とか訳してるよね――吉田秀和と言ったっけ。河上徹太郎さんから聞いたよ。書棚に目をやりながら大佛が答えた
「漫画家は辞めさせられないだけ、幸せです」隆一がそう答えると、一同は笑いに包まれた。
第4章 平成7年春、帝国ホテル
戦後、毎日新聞で「フクちゃん」の連載が五千回を超え、TVアニメも放送され、平成6年、横山は漫画家として初の文化功労者の栄誉に浴した。その次の年、戦後五十年になる年の春に帝国ホテルで横山隆一の文化功労者受章を祝うパーティーが開かれていた。横山の受賞は漫画家として初のもので大いに話題となっていた。
控えの間。隆一が支度をしているとノックの音がした。入ってきたのは後輩の漫画家鈴木義司だった。
「先生、今日は司会を務めさせていただきます。よろしくお願いします」
「昨日のお笑いマンガ道場、すごかったね。よく富永くんと即興であそこまで描けるもんだっていつも感心しながら見てるよ」
「先生に褒めていただけると嬉しいです。富永一朗さんとのバトルがあそこまで受けるとは私も思いませんでした」「でも最近では、テレビ局のほうに二人を仲良くさせてくださいって小さな子供から手紙がくるらしいんです。本当は仲がいいからあそこまで出来るのに」
二人は大笑いしながら大広間へ向かった。
祝賀パーティーは数多くの余興で盛り上がった。その中の一つが後輩漫画家たちの発案による米国大使館への招待状と「請求書」の送付であった。米軍の「フクちゃん」無断転載の件をジョークで解決しようと、戦時中の原稿料は十円だったので、十八回分の転載を調べて「金180円」をパーティー会場に届けるよう港区の米国大使館あてに手紙を出していたのだ。
その「ジョーク」は、当時知的財産権の交渉で日本に厳しい要求をしていた米国へ、知的財産権の大切さを証明してもらおうというブラック・ユーモアだった。米側は無視することも出来たと思うが、わざわざ大使館員が出席し、現金180円を入れた封筒と、お祝いの席にふさわしい横幅五十センチもある漫画のような領収書を用意して、横山の受け取りサインを求めた。
「鈴木くん、ちょっと背中を貸してもらうよ」
長身痩躯の鈴木義司に回れ右をさせると、その大きな背中に領収書を立てかけ、隆一はサインをした。
「これで私の戦後は終わりました。ありがとう」
会場は、大爆笑に包まれた。
このとき隆一の顔には安堵の表情が浮かんでいた。
戦後半世紀が経ち、日米友好が揺るぎないものになっていたからこそ生まれた、笑いに包まれた一瞬であり、戦時中、たった三ヶ月の疎開中に妻を病で亡くし、鎌倉に戻り大佛に再会した際、無言で涙を流した 横山にとって、本当の意味で戦争が終わった瞬間であった。
大佛は自身の『終戦日記』の中で、その日のことをこう綴っている。
「フクちゃん台所より入り来たり酉子の顔を見るなり無言で落涙す。良き人なり」




