私は世界が憎いのだ
憎かった。
変わらない世界が。
どんなに足掻いても変えられないこの世界が。
足りないのは自分の力か好機かもわからない。
救われるともわからないこの見えない未来に、
一体何を望めばいいというのだろうか。
誰かが言った。
諦めてはならないと。
ならば、諦めることすら許されないとするならば、
一体何ならこの身は許されるというのであろうか。
苦しみ続けるこの体で、一体何を望めというのだ。
私は世界が憎いのだ。
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―――雪だ。
空から延々降ってくる白い塊。
思わず掌を差し出した。
いつもより大粒のそれはひやりと感じさせると、
僅かに残って溶けていく。
「さいき様?」
子供たちが駆け寄って話しかけてきた。
「風邪をひいてしまうわね?早く家に帰りましょう。」
“斎姫”と呼ばれた者は黒い外套を頭まで被った。
その赤い唇がにこりと笑った。
子供たちは元気な声で「はーい」と返事をし、
それぞれが抱えた籠を持って歩いていく。
中には僅かばかりに採れた山菜が入っていた。
深い森の中は薄暗い。
空は雲に覆われて尚の事暗い。
斎姫は今一度空を確認して、帰路を急ぐ。
「あっ!!」
1人の幼子が来る途中でこけた。
斎姫は小走りで駆け寄り、籠を背に背負うと、
その子を優しく抱き上げる。
その時だった、
―――バサッ
大きな影が頭上に現れる。
顔を上げた先は木が少し開けていた。
その隙間に子供よりも遥かに大きな翼。
一見、鳥のような姿にも似ているが、
足には赤黒く鋭い爪、銀の瞳。
硬そうな顎には強靭な牙が見えた。
体の表面には分厚い黒々とした鱗が並んでいる。
異形の生き物。
「早く走って!!」
急いで走り出す子供たち。
斎姫も子供を抱えて走ろうとしたが、
異形の生き物は真っ直ぐに彼女の元へ、
彼女の腕の中の子供目掛けて一直線で向かってくる。
涎を垂らした汚らしいその口が大きく開かれた。
「さいき様!!」
咄嗟に、斎姫は子供を右腕に抱え、
代わりに左腕を生き物に食らわせた。
食らいついた部分から血が流れだす。
だが、斎姫は子供を離すまいと力を込めた。
「さいき様!!!!」
「あなたたちは逃げなさい!!!!」
心配ながらも子供たちの年長が小さい子たちの手を引いて走り出す。
右腕の子供は泣き叫んだ。
生き物が咥えた腕を離そうとした。
『他の子が狙われる!!』
斎姫は左腕ごと生き物を近くの木に押し付けた。
生き物は逃れようと暴れるが、
右腕から子供を下ろした斎姫は右手で己の左腕を抑える。
「皆のところへ走って!!」
泣きわめいていた幼児も彼女の怒声に走り出す。
途中で年長の子が気が付き迎えに走り合流を果たす。
「逃しません!!このままお前は朽ち果てるのです!!」
抑える力をもっと込める。
生き物から気持ちの悪い鳴き声のようなものが聞こえるが、
斎姫は痛みなど関わらずに精いっぱい押しつぶそうとした。
「離れていろ。」
低い、けれど透き通るような声がそう聞こえた。
途端。
斎姫の体は何かの力によって生き物から引き剥がされた。
同時に飛び立とうとする異形の生き物。
だが、生き物は音も無く、その身が二つに分かれ、
どろりとした真っ黒な液体と共に、地面に落ちる。
代わりに現れたのは一人の男。
見るからに逞しい体つき。
片手で振るうは逞しさに相反し、
真っ直ぐで美しい真っ白な剣身。
男は剣についた液体を振り払い、鞘へと納める。
「見たことのない生き物だな……。」
切り捨てた異形を屈みこんでまじまじと眺める。
だが、それはやがてぶすぶすと音を立て灰になって消えた。
男は目を丸くしてその様子を見ていたが、
子供たちの声にはっと気が付く。
「さいき様!!大丈夫ですか!?」
「さいきさま!!」
逃げたはずの子供たちが駆け寄ってくる。
「逃げなさいと言ったでしょう!?」
「すみません!でもっ、さいき様が!」
小さな子たちが体に飛びついてくる。
仕方ないとため息をついて右手で撫でてあげる。
だが、左腕は出血をしたままだ。
「左腕を出せ。」
男が声をかける。
はっと顔を上げると男は少しだけ目を丸くした。
『まだ、少し幼いのか……?』
男は少しだけ驚いていた。
斎姫の顔は左半分以上を黒革で覆われていた。
色白の肌に漆黒の髪。
だが、浮き上がるような唇は真っ赤に血色がいい。
少女と呼ぶにはどこか大人びた風貌だが、
線の細い体つきはまだ幼さが見て取れた。
小さな子供の一人が彼女の左腕を引っ張った。
男は屈みこんで、止血するように布を腕にしっかり巻き付ける。
その間も彼女の視線は警戒心であろうか、どこか険しかった。
「ありがとうございます………。」
縛り終えると、さっと腕を引いて礼を言う。
子供たちを己の体の後ろ側へと、男から遠ざけようとした。
「お兄さんはこんなとこで何をしているの?」
幼い子供が無邪気に尋ねる。
「街に向かっていてな、どうも、迷子になってしまったらしい。
道という道が見つからなくて彷徨っていたんだ。」
「ここらへんは慣れてないとすぐに迷子になるよ?」
「そうか、街に行くにはどう行けばいい?」
「そこの道、見える?」
1人が指を指す。
目を凝らしてじっと見つめると、
かろうじて薄っすらとした道とも取れないような線を見つけた。
「………確かに、あれはわかりづらい。」
「途中までなら一緒に行けばいいよ!ね?さいき様!」
その言葉に、苦悶の表情をした斎姫だが、
ため息をつくと「そうね」とどこか諦めを見せた。
「助けていただいたお礼にもなりませんが……。」
「かまわない。ただ、通りすがりなだけだ。」
彼女の両端に子供がそれぞれくっついて歩いていく。
一番小さな子供がこけかけたが、
男はすっと支えて、肩に軽々と乗せる。
「お兄ちゃんは何ていうの?」
「俺の名前は“柳森”だ。」
「りゅうしんは兵士なの?」
「しいて言うなら傭兵だな。」
「ようへい?」
「金で雇われて剣を振るう人間の事だ。」
「お金?」
「こら、漿。こっちにおいで!」
年長の子が柳森の肩から幼児をおろして背負う。
柳森は物分かりのよさそうなその子に聞いてみた。
「先ほどのあの生き物は一体何なんだ?」
「あれは…憎塊と呼ばれる生き物です。」
「憎塊?」
「“龍の呪い”にかかって、人間を餌にする恐ろしい生き物なんです。
柳森様はご存じないのですか?」
「あぁ、初めて見聞きするな。
いろんな国を回ってきたが、あんな生き物に出くわしたことは無い。
龍の呪いというのも初めて聞く。
他の国では龍は神として崇め奉られているしな。」
「そうなんですか?」
「龍はわるいやつだよ!!」
わらわらと子供が柳森のまわりに集まってくる。
「昔ね!天が空から降ってきた時に龍も落ちてきたの!」
「金と銀の龍が二頭がいてね!人間を襲って困らせていたんだよ!」
「そこで、填清様がね!」
「てんせい?」
「この地に古くから伝わる“龍狩士”のことです。」
斎姫は静かに答えた。
彼女の柔らかくも凛とした声が続く。
「かつてこの地に金色の龍よ白銀の龍が住み着いていました。
ですが、その龍は人を襲い食い物にして恐怖をまき散らしていたのです。
そこで填清という名の一人の若者が立ち上がり、
まず、比較的大人しい金龍を殺め、その骨から一振りの剣を作り、
それを使い、銀龍をも倒すに至りました。
それが、この地に古くからある言い伝え“双龍伝”です。」
「双龍伝…。」
「そして、その龍の憎しみだけが残り、呪いとなって、
あの“憎塊”がどこからともなく生まれていると言われているのです。」
未だに残る伝説の後遺症と言うべきか。
今まで龍は高貴なものとしてしか知らない柳森にとって、
憎むべき存在であることに、どうも居た堪れなくなる。
不思議な感覚だと感じている。
ふと、斎姫達の足が止まった。
「そちらの左の道を行けば街にたどり着けます。」
その方向を確認すると、ようやく道らしい道が見えた。
「街中は英雄として奉られている填清様のご加護のためか、
憎塊は入ってこれないのでご安心ください。」
「お前たちは行かないのか?」
柳森の言葉に年長の子が困ったような笑顔を見せて答える。
「僕たちは“はぐれ者”と呼ばれる存在で、街には入れないのです。」
「はぐれ者?」
「柳森様、本来は街の者とは僕たちは関わることが許されていません。
街に入ったら僕たちのことは決して口にされませんように。」
斎姫も心配そうな険しいような目で見ていた。
何か訳ありなのであろうか。
「わかった。色々教えてもらった礼もある。
街の人間に何も話す事はするまい。」
「ありがとうございます!」
「その代わり、お前たちの名前を聞いても?」
「僕は胆、この背中の子が漿。そして、」
「俺が門!」
「私が麹で、」
「…引です………。」
そして、黒革の少女に視線を向ける。
「斎姫殿だったか?」
「………その名も決して口にしませぬように。」
光の入らぬその片目が威圧感を出す。
『まだ幼そうではあるのにこの威圧か……何者だ?』
斎姫が「行きますよ」というと子供たちはついていった。
あっという間に森の奥深くにその姿は消えていく。
柳森も言われた道の方へと足を進めたのだった。