春日狂想
春のせいだろうか。
彼は、ふと仕事を辞めた。まるで、つまらないテレビ番組をリモコンで消すように、あっさりと会社に行くことをやめた。
中規模の広告会社でコピーライターとして働いていた春樹には特にこれといったやめる理由もなかったように、少なくとも彼の同僚である石塚にはそう思えた。
石塚は、春樹と同じ東京の大学で、同じ文学部を卒業して、同じ会社に就職した女である。しかし二人の関係は大学の4年間を通しても、就職してからも深まることはなかった。石塚は春樹を好いていた。
石塚直美は、その名前からはほど遠いほど、陰鬱で醜い、アバタ面をしていた。春樹は初めて石塚を見たとき、かつてフランケンシュタインのモノマネで人気を博したお笑い芸人にそっくりの顔だなと思った。一方で石塚はちょうどその時、春樹に一目惚れしたのだから人生とは残酷なものである。残念ながら彼女と仲良くしたがるものは少なかった。そんな石塚から見れば春樹は誰から見ても真面目な青年といった印象で、仕事もそつなくこなし好感が持てるように思えた。顔立ちも整っており、学生時代から女子の間でひっそりと噂されるような、例えるならクラスで4、5番目に男前という感じの悪くないルックスだ。(しかし春樹自身はそのことに気づかず、自分は女には生涯モテることはないだろうと半ば本気で考えているのであるが)それはさて置き、彼はしかし、仕事を続ける理由も、どこにも見いだせなかった。「おれはただ飯はちゃんと食って人並みに生活し、週末に映画を観られたらそれでいい。仕事に夢や情熱なんてこれっぽっちもない」、と考えていた。そうするとアルバイトで生計を立てても構わないという結論に至り、彼は、まるで友達に遊びの誘いを断るように
「辞めますね」と上司に電話でいって、辞めた。
なぜ語尾に「ね」をつけたのか、月日がだいぶ過ぎた今でも、春樹自身その理由がわからなかった。「春のせいだ」と春樹はいい加減な理由をつけてこのことは全部早く忘れちまおうと思った。外は強い風で桜吹雪が舞っている。春樹は、アパートの部屋でごろんと横になり、窓の外の景色を眺めた。それから午睡した。
彼は眠りの中で懐かしい思い出の夢を見た。ちょうど今日のように穏やかな春だった。上京して間もない頃、春樹はどこにでもある街中の横断歩道で、ある女とすれ違い、一目惚れした。長い黒髪をなびかせて歩く彼女はどこかのファッションモデルかと思えるくらい輝いて見える。色白で整った顔立ち。しかしその横顔はどことなく寂しげで、儚かった。
「そう、ちょうどこのありきたりな横断歩道でおれは信号が変わるのを待ていた。そしたら反対側に彼女を見つけて」――
「ハルカ!」と彼は叫んだ。
しかし彼女は応えなかった。夢の中で、春樹がいくら声をかけても、彼女は決して振り向かない。追いかけてもどんどん離れていく。一方で、彼がまったく支離滅裂な夢を見ている時や、そもそも夢も見ないほど疲れて寝ている時に、ハルカは気まぐれな猫みたいにふと現れた。モヤモヤとした夢の世界は一気に霧が晴れて明瞭な景色に変わる。それは、草原であったり、公園であったり、映画館や、ファミレス、電車やバスの中など、様々な場面になった。その時の彼女はとても優しい笑顔で、明るく美しかった。ハルカはいつも春樹の身体に、彼女の細くて白い腕をぎゅっと巻きつけた。彼女は、藍色のワンピースを好んでよく着ていた。
春樹はハルカを追いかけた。それが不可能であると分かっていても追いかけずにはいられなかった。しかし彼女は捕まらない。人混みの中へ消えていった。春樹は立ち尽くした。「ハルカ」と小さく呟いた。しかしそれが彼女の本当の名前なのか、彼は急に怖くなった。おれはなぜ彼女の名前を知っているんだ? だって、一度すれ違っただけなのに、――
*
春樹は四六時中何もせず、強いて言えば、ビデオ屋で映画を大量にレンタルして、ひたすらそれらを観賞し、日々を過ごした。ゴダールの政治的な映画を観た次は、香港のカンフー映画を観て、バスターキートンのサイレント映画を観るといった具合に、気の向くままなんでも観た。食料は、買いだめしているスパゲティと、親がカップ麺を大量に仕送りしてくれているから、外出して買う必要も殆どなかった。なんなら必要なものはインターネットで注文できる時代だ。彼は徹底的に怠惰を決め込んで、家に引きこもった。ニート生活を続けると、まず曜日の区別がつかなくなり、やがて昼と夜の区別もつかなくなる。目覚めて時計を見た時、それが夕方の4時か、夜中の4時なのか、彼はすぐに判断出来なかった。
収入の減少に合わせてライフスタイルも縮小しようと考えた。当分は外食を自粛して、三食食べていた飯も、朝と夜の二食に減らした。シャンプーやティッシュなど生活用品は全て困らない程度に安さを重視しようと決めた。
仕事を辞めてすぐの頃、会社の人間からは、鬼のように電話がきた。メールもきた。ラインもきた。ツイッターで彼のアカウントを見つけた石塚はダイレクトメッセージも送ってきた。「どうしたの?」「大丈夫か?」「何か嫌なことでもあったのか?」何人かの同僚は彼のことを心配したが、それも3日間放ったらかしにしたら、やがて誰からも電話やメールは来なくなった。石塚をのぞいて。
一ヶ月で110本の映画を観た。もともと映画鑑賞は彼の一番の趣味であったが、さすがにもう腹一杯という状態。美味い飯を鱈腹食った後の充実感と気持ち悪さといった感があった。映画鑑賞をやめてからは、その代わりに何をするでもなく、ただ床に寝転がって、天井をぼーっと眺め続けた。何も考えずにのらりくらり過ごす日々には殆ど満足しているが、ふと、激烈な虚無感に襲われることがある。「おれは何をしているのか」「おれは何をしたいんだ?」と彼は自問自答するがその答えは見つからない。最近よく夢を見るようになった。夢と現実の区別がつかなくなることもよくある。音楽を聴きながら街を歩いていると、目の前の景色がミュージックビデオに見えてしまうような感じだ。映画を観まくったせいだろうなと、彼は考えた。それにしても、つくづく「死にたい」と思うようになった。その考えはちょうど子供が風船を口に含み膨らませるみたいに、少しずつに膨らんでいった。東京は自殺するには簡単な街だ。毎日誰かが死んでいくし、死ぬ為の舞台も探せばどこにでもある。この日から、この男の「虚無病」はひどくなってきた。(要するに鬱であると思うが、彼に病院に行くという考えは毛頭なかった)――
まず、朝起きたくない。起きたとしても顔も洗いたくないし髭も剃りたくないと思うようになった。トイレに行くのも面倒くさいし、オナニーする気も起こらない。腹は嫌でも減るから仕方なしに食べるが、スパゲティを茹でるのも面倒くさいからカップ麺をひたすら食った。鬱か知らん? と春樹は思った。ナチュラルに死にたいと思った。
ちょうど1週間後におれは24歳になる。24になる時に、24時に、自殺しよう。
そう思うと、春樹の気持ちは不思議と以前より穏やかになった。
*
春樹は布団の中でうなされていた。普段なら遅くとも夕方には目覚めるのだが23時になっても目覚めない彼は、現在、夢を見ている。
とても不快な怖い夢、――悪夢ってやつだ。
ハルカの夢と同じく、彼のよく見る、何かから逃げて怯える夢、――
人気のまったくない浜辺、月夜の明かりだけが地上に微かに照らされた闇の中を彼は走っている。その後ろから何者かが彼を追いかける。波の音が恐ろしく不気味に、耳に張り付いてくるのを不快に感じる。早くここから抜け出したいと彼は思った。と、その時、彼は石につまづいてコケた。直ぐに立ち上がろうとするが、身体が言うこと効かない。春樹の脚は恐怖でガタガタと震える……。
翻って、月夜だけが照らされた草むらの中。自分の胸くらいまで生えた草をかき分けながら春樹は怯えた顔で必死に走っている。声を出して、「わーわー」と叫びたいが夢の中では思うように声が出ない。しかし現実に寝ている春樹は彼の住む二階建てのアパート全体に響かんばかりの大声で叫んでいた。
「助けてくれ…誰か、助けてくれ! 頼むから助けてくれえ!」
ひどく怯えた顔で逃げ走る春樹を、遠くで見る若い女の姿が。ハルカだ。彼女は藍色のワンピースを着てポツンと立っている。懸命に追いかけるが、彼女の姿はどんどん遠ざかっていく。
「ハルカ!」と彼は叫んだ。今度はうまく声を出せたと思った。しかし、彼女は応えない。
やがて映画的なフェイドアウトで夢は不条理な世界を残したまま幕を下ろし、春樹は目覚めた。目覚め方もまた映画的に、いかにも悪夢にうなされていましたという感じのベタな起き上がり方だったが、しかし当の本人は必死であった。やっと、悪夢から解放されたのだから。彼はじっと、手のひらを見つめた。いつか握ったハルカの手の感触を思い出そうとした。
とはいえ彼にはまだ別の試練が待ち受けているのであるが、ここで少しばかり石塚と春樹の二人について話をしたいと思う。
*
桜が散り、新緑の葉に生まれ変わる頃。その日、石塚は有頂天であった。大学の入学式で一目見て惚れた春樹と話すことができたからだ。石塚は入学してから一ヶ月近く春樹の行動を監視していた。あらゆる手段で、時には法の一つや二つを犯すことも恐れずに春樹に関わるあらゆる情報を入手した。
だから彼と同じ授業を選択することができたし、彼の好む映画や小説、音楽も知ることができた。彼女は今や春樹の下着のレパートリーやそれらのルーティンまで把握している。しかし春樹が街中で、他の女に見惚れているのを見た時はさすがにショックであった。
「カッコいい春樹君には私なんかよりあんな綺麗な人の方が良いわ」と強がってはみたものの、やはり彼女も青春を謳歌する年頃の純情乙女。三日三晩、飲まず食わずで、ひたすら咽び泣いた。
さて、彼女がなぜ有頂天なのかという話に戻ろう。石塚は実は、春樹と映画館で隣同士になったのだ。もちろんここでは記せない非常識な手段と、寝る間を惜しんだ努力により勝ち取った隣の席であるが、当の本人はそんなことはつゆ知らず。
「あれ、もしかして同じ学部の…」
春樹は何やら隣から、もの凄い視線を感じて、しぶしぶ声をかけた。
「石塚です」と、石塚的最大級のスマイル。
「ああ、石塚さん。初めまして」
「イーストウッド、良いですよね」
春樹の顔に笑みがこぼれるのをみて、それだけで石塚は喜びのあまり叫び泣きそうになった。彼女の心の中は決勝戦でゴールを決めたサッカー選手みたいに狂い騒いでいた。
「イーストウッドは現在のアメリカが、いや世界が誇る、最高の監督であり俳優だ。おれはこの日をずっと待ちわびていたんだ。歳を重ねるごとに表情に力強さを感じる。ストーリーテリングも神がかっているしね」
石塚はすでにイーストウッドの作品は殆ど網羅していたから春樹の言うことはよくわかった。しかしそれきり二人の会話はなかった。
春樹は、上映が終了すると直ぐに席を離れた。この次にハシゴして、是枝監督の最新作を観るつもりであることは彼女は知っていたが、今日は後を追いかけるのはやめた。一緒に並んで映画を観れたという、この喜びだけで、死んでもいいと彼女は思った。
*
春樹は台所に立ち、コップに水道水を汲んで、グイッと飲んだ。
テーブルに置かれたスマホを手に取り、眺めて、ゴミ箱に棄てた。
日に日に彼の中に積もる「死にたい」と思う気持ちは膨れ上がり破裂寸前だった。
得体の知れない虚無感の中で正気を欠いた、麻薬中毒者みたいな顔が洗面台の鏡に映る。春樹は、なぜか歯を磨いた。それは著者にも皆目分からないし、あるいはフロイトやドストエフスキーがいれば分析できたのかも知れないが、未だ謎である。なぜ彼はこれから死ぬという時に、歯を磨いたのか。文学界か、あるいは心理学者には早急にこの時の彼の心理状況を分析してほしいと切実に祈る。とはいえ、ここでは次に進もう。
ふらふらと風呂場に向かい、お湯を張った春樹は、台所から包丁を持ってきて、ついでに部屋からCDプレイヤーも持ってきた。この理由については容易にわかる。春樹はジョンレノンが好きで、最後に彼が好きなイマジンを流そうと思ったのだ。風呂場で浴槽に向かい合うようにしゃがんだ。上着を脱いで裸になった。そしてお湯に手を突っ込んで、包丁を手首に近づけた。
想像してごらん
天国も地獄もないんだよ
俺たちの上にあるのは
空だけなのさ
春樹は覚悟を決めた。ギュッと眉間にシワがよる。額からは汗が滴る。ジョンレノンの優しい歌声が風呂場に響いている。走馬灯のように思い出が春樹の頭をめぐる。彼はなぜか石塚の不器量な顔を思い出した。しかし、すぐにそれはハルカに変わる。彼女の白い小さな顔。笑うとクシャッとなる顔。寂しげな横顔。二人で交わした他愛のない会話。夢で逢えたら。
「死んでもきっとまた夢で会えるよな」
彼が生涯唯一愛した女、ハルカ――
バイクの音が聞こえる。だんだんこっちに近づいてくる。自分の手首が切れたのか切れてないのか、彼には分からなかった。目をそっと開いた。「ああ、まだ掠っただけだ」水の中で、赤い血がまるで一つの生命体みたいにゆらゆら揺れて、溶けていった。今度は本気で切ろうとした。と、
玄関からチャイムの音が、――
拍子抜けた感じで、春樹はぐでっと腰を下ろした。
「なんでこうなるんだよう……」
彼は包丁を脇に置きやった。
喫煙者はこうゆう時に、タバコを吸いたくなるのかなあと彼はぼんやり思った。
*
玄関の扉を開けたら、すこぶる笑顔のピザの配達人が、両手にピザを持って待ち構えていた。同い年くらい見えた。
「あの、頼んでないですけど」春樹はボソッと言った。
「え、小池さんのうちとちゃいますん?」
「違います」と言って、春樹はピザ屋の男に小池さんの家を教えた。「あー、あのサザエさんの家みたいなところか」とピザ屋の男は言って、去っていった。春樹はふと、ピザ配達が間違えられたのは、結局回り回っておれのせいじゃないかと思った。全ての悪いことは自分に関係があると思った。生きているだけで申し訳ない。生き苦しい世の中には腹が立つけど、同じくらい自分自身も憎い。だからさっさと死んでしまおうと、改めて自殺の意思を固めた。
再び風呂場に戻ったが、包丁を手に持ったところでまたチャイムが鳴った。男は包丁を持ったまま玄関にでた。
「なんですか」
「そんな、包丁持って、どないしたんですか?」
「要件は」
「小池さんのところ行ったんですけど、注文ミスやったみたいで。よかたらこれ」
「あ、結構です」
「いいから、受け取ってくださいよ」
「いや、いいから早く帰れよ」と春樹はキツく言った。瞬間、言いすぎたかとビビってピザ配達の男の顔を覗き見たが、思った以上に剣幕な表情をしている。「あんた、死ぬつもりやな?」とピザ配達の男は春樹の顔に近づき、ドスの効いた声で睨みつけて言った。
「やめときや」
「なんで、おれが…」
「俺の友達が自殺した前の日、そいつも同じような目してたわ」
と話してピザ屋の男は靴を脱ぎだした。
「まあ、ええわ。俺も腹減ったし、一緒に食おか。タダやで」なんて理不尽な事を当たり前のように話して、親戚の家に上がる感じで彼は春樹の部屋に侵入した。
春樹は何も言えないまま、ただ、ズカズカと部屋に上り込む男をなすがままに受け入れざるを得なかった。現場の空気は完全にこの男に支配された。もはや、春樹の頭には自殺はなかった。むしろどうでもよかった。今はただ、このカオスな状況をどう潜り抜けるべきか。それを考えるべきだと思った。
*
24の誕生日をこんな形で迎えるとは思わなんだ。と春樹は海老マヨ明太シーフードのピザを咥えて思った。目の前に座るピザ屋の男は、安藤という名の男で、彼は春樹と同い年、二十歳の時に大阪から引っ越してきたという。ひょうきんな人間かと思えば、シリアスになったり、急に沈み込んだり、情緒不安定な男というのが春樹の抱いた印象だった。安藤が部屋に上がり込んできた小一時間の間に、春樹は急に、なぜ自殺しようとしたのかと首を絞められながら問い詰められ死にかけた。ヤバいやつだな、と思えば今度はバイト先の同僚について愚痴を笑いながらこぼし始めた。――
「こないだ一緒に働いているインド人がな」と安藤は話を切り出した。「仕事中にトイレでババしたまま全然出てこーへんねん。ほいで、あいつ中でカレーでも食うとんのか言うとったら、25分後に出てきてさ。あいつ、ほんまにトイレでカレー食うとってん。皿持ってトイレから出てきて。なぜか照れ臭そうに笑ってたわ。ほいでトイレ入ったら、ごっつウンコ臭い! カレーの匂いもするし。あれは地獄やで。新手のテロ。ウンコカレーテロですわ」彼は饒舌に語りまくった。春樹は普通に笑った。やはり大阪人は面白いなと思った。少なくとも今この瞬間、自殺するなんて、アホらしいと彼は真面目に思った。それにしても、目の前に座るこの安藤とか言う男、つい10分前に馬乗りで首を絞めながら「おれの親父も首吊っって死んだんじゃ! お前も死ぬかあ!?」と怒鳴り散らした同じ人間とは思えなかった。
「ドライブいこか」と最後に一切れ残ったマルゲリータピザを食べて、安藤は言った。春樹の住む高円寺のアパートから、春樹の自転車で二人乗りした。
「バイクはどうするの?」と春樹は運転する安藤の肩に手を置いて話した。
「あれは明日取りに行くわ! とりあえず新宿に行くぞ!」と自転車は軽快に走った。春の生暖かい風がやけに心地よい。
終電が過ぎた時間でも都会では多くの人間が出歩いている。そんな当たり前の光景も、ずっと家に引きこもっていた春樹の目には新鮮に、映った。なぜか春樹は涙した。涙が溢れて止まらなかった。ずっと先の方に、新宿のビル群がプラネタリウムの星みたいに輝いている。生きようと思った。
石塚は、高円寺の春樹の住むアパートの隅でしゃがみ込み、泣いていた。実は春樹の部屋に仕掛けた盗聴器から全てを聴いていたのだった。ピザを注文したのも彼女だ。彼女は安藤が春樹のアパートに来た時に、春樹の事情を全て話した。無謀なことだと自分でもわかっていたが石塚にはこうするより方法がなかった。彼女は春樹のことが心配でたまらなかった。春樹は、街で見かけた名も知らない女を忘れられずにいた。街中で彼女を見失ってから、何度も彼女を探したが見つからなかった。実は石塚はその女の素性を突き止めていた。石井遥。彼女は、春樹が街で見かけた一ヶ月後の夜、酔っ払い運転の車に跳ねられて死んだ。それは新聞やテレビでも流れたので、恐らく春樹も知っていたはずだ。しかし彼は余りにもショックで、彼女が死んだという事実を受け入れられずにいたのだ。
今、春樹は全てを受け入れた。自分自身を、この街、この国を、これから起こる理不尽なことも、不幸も、幸福も全て受け入れよう。中央線の満員電車、新宿の人混み、貸したまま返ってこないお金、抗えない運命、「辞めますね」と言ったクソの自分、生乾きの靴下、腐った牛乳、毎月の家賃、高すぎる携帯代、母親の仕送り、どん兵衛、裏切った友達、返事がこないライン、やりたくない仕事、退屈な日々、つまらない映画、つまらない小説、くだらない音楽、アホなバラエティ番組、払えない年金、喫煙者、禁煙者、麻薬中毒、アル中、雑居ビルのチャイナエステ、何もなかった大学生活、孤独の昼飯、機嫌切れの免許証、噂話、陰口、妬み、嫉妬、詐欺、違法就労者、外国人移民、殺人、ひき逃げ、引きこもり、ニート、インスタグラム、ツイッター、眠れない午前3時、冬の寒さ、夏の暑さ、秋の侘しさ、春の切なさ、忘れられない恋。全て受け入れよう。そう思った。そして何か嫌なことや理不尽な状況に遭遇したらその時はこう思うことにしよう。
春のせいだ。きっと、なんとかなる。