ラスト・サマー 3
翌日の昼に合宿を終えた凪は、自宅に戻ってシャワーを浴び、着替えるとすぐに出掛けた。待ち合わせ場所には一人の男。テニス部のコーチに来ている桜沢 英知だ。英知も一度自宅に戻って着替えてきている。
「じゃ、行こうか」
英知の後について凪は歩き出した。
「どこ行くの?」
「T大」
安藤 鈴果が通っていた大学だ。
「ねえ、本当に犯人探しする気? 私たち、探偵でもなんでもないのよ?」
「うん」
どちらに対する答えなのか、英知は頷いただけだった。英知は鈴果に犯人探しを頼まれた時、渋々ながらも引き受けたのだ。「見つけ出せるかわからないけど、努力してみるよ」と。
「こんなことして、あんたに何の得があるの?」
「何もないよ」
英知は即答した。
「じゃあ、何でこんなこと?」
「だって、呪われたら怖いじゃん」
「もう呪わないでしょ、あの人は。あんたならそんなことわかるでしょ」
凪の問いに英知はすぐには答えなかった。そして思わぬ質問を凪に投げ掛けた。
「一人であそこにいるのってさぁ、どんな気持ちだったんだろうね?」
「え?」
英知が言っているのは安藤鈴果のことらしい。
「6年も同じ場所にいた人を知ってるけど、いつも少し寂しそうだった」
彼女がいたのは1年だけとはいえ、いつも一人で、殺されてしまった自分の人生を嘆き、あんなに暗く深い想いを残したままでいたのだ。彼女の想いを推し量るのは困難だ。けれど、怨念のような暗い想いの底には寂しさがあるように思えた。
「嫌なら佐原さんは降りていいよ」
「やるわよ。クイズの答えが判らないままだと嫌なタイプなの」
今まで見てきた人たちの多くは凪には声が聞こえない。だから彼らの主張を知ることはなかった。しかし彼らの誰もがいつも少し寂しそうだったのを覚えている。
安藤 鈴果が生前通っていたT大に着いた英知は、堂々と正門から入っていった。他大学の学生のくせに平然としている。部外者が入って大丈夫かと心配する凪に、英知は「大学生なんて、どこの大学でも見分けがつかないよ」と説明した。インカレサークルなども多く、共学であるT大は女子大の姫大よりは警備が厳しくなかった。堂々としていればバレないだろう。高校生である凪も制服でなければわからないだろう。
英知たちは鈴果から聞いた研究室へと足を向けた。夏休み中ということもあり、人気の少ない校内は、あまり人に会わずに歩けた。研究室のドアをノックすると、返事があって中からドアが開けられた。ドアを開けた女性は大学生のようだ。英知は会釈した。
「突然すみません、W大ミステリー研究会の桜沢といいます」
もちろん嘘である。W大にミステリー研究会はあるかもしれないが、英知はそんなサークルには所属していない。凪も同じサークルのメンバーだと紹介した。
「伊藤さんか木部さんはいらっしゃいますか?」
鈴果から聞いていたゼミ仲間の女性の名前だ。
「私、伊藤だけど…」
ドアを開けた女性が言った。
「実はミステリー研究会で安藤さんの事故死について調べていまして、その日一緒にいらしたゼミの方にお会いしたいのですが」
鈴果の名前を出すと少し困惑したような表情を浮かべたが、部屋の中に入れてくれた。
「ちょうど、今いるわよ」
夏休み中ではあるが、課題研究のために皆出てきているとのことだった。
研究室にいたのは、あの日、鈴果と一緒に飲んでいたゼミ仲間のうち、吉田、中村の男子学生二人と伊藤だった。あの日は同じくゼミ生の木部という女子学生と準教授の松沢が一緒だったはずだ。その飲み会の帰り道、彼女は何者かに殺された。
木部はまだ来ていないが、いつももう少ししたら来るので、今日も来るだろうとのことだった。松沢は留守だった。
「松沢先生は、学会で広島に行ってるわよ」
ほら、と示された壁のプレートには、松沢の名前のプレートの下に「出張」というプレートが掛けられていた。
「松沢先生、今は教授なんですね」
松沢のプレートの肩書きを見て英知は訊いた。鈴果の話では松沢は準教授だったのだ。
「そう、ちょっと前に教授になったのよ」
伊藤はそう答えて不思議そうに英知と凪を見遣っていた吉田と中村に英知を紹介した。英知は改めて自己紹介をした。ミステリー研究会が何故今頃になって事故のことを調べるのかと三人は不審がった。
「あの事故のあった廃ビルに、幽霊が出るって噂があるのをご存知ですか?」
学生たちは小さく頷いた。この手の噂は学生を中心に広まるものだ。
「ミス研では、そういう噂、いわゆる都市伝説というものを調べているんですが、あの廃ビルについても調べようということになって、あの事故のことを調査しているんです」
「でも、事故だったなら、調べるも何も…」
吉田が首を傾げた。
「いえ、僕たちは、あれは事故ではなかったと考えています」
「それって…?」
「例えば、殺された、とか」
ごくりと唾を飲み下す音がした。三人とも英知の言葉に凍りついている。
「あれは事故だったんだろ? 警察がそう言ってるじゃないか。なのに何で今さらそんなこと言い出すんだよ?」
「そうよ、鈴果が死んで悲しいのがようやく1年して少し落ち着いたのに」
中村の抗議に伊藤も続けた。突然の話に皆戸惑いを隠せない様子だ。
「すみません。でも、どうしてもただの事故には思えなくて」
英知は謝ったが、主張を変えはしなかった。警察は酔って階段に昇った彼女が誤って転落したとしたが、高所恐怖症である彼女が、酔ったからといって階段を昇るはずはない、と説明した。
「まさか、俺たちを疑っているのか?」
中村が英知を睨みつけた。
「そういう訳ではないんです。ただ、あの日最後まで一緒にいたのが皆さんだったので、お話を伺えればと思って」
英知は丁重に協力を求めた。重要参考人たちにへそを曲げられては困る。
「別に何もなかったよ。普通だった」
吉田が断言した。
「いつもの飲み会よりも安藤は飲み過ぎてた気もするけど」
思い出したように付け加える。それに中村が頷いて続けた。
「確かに、いつもあんまり飲まないのに、あの日は結構飲んでたな。帰り、俺と松沢先生が送ってったんだけど、途中で一人で大丈夫だって行っちゃって。それで、俺もその後すぐ松沢先生と別れて帰ったよ」
アリバイを主張する中村に英知は頷いて、吉田に水を向けた。
「吉田さんは?」
「アリバイってこと? 俺は伊藤と木部を送って帰ったよ。なあ?」
「うん。確かに送ってもらったわ」
同意を求められた伊藤は証言した。これでこの三人には、一応ではあるがアリバイがあることになる。とはいえ、中村の主張はアリバイというには少し足りない。
「あの日、実は鈴果、ヤケ酒してたのよ」
少し言いにくそうに伊藤は切り出した。
「カレシにフラれて、それで、いつもお酒弱くて飲まないのに無理して飲んでたの。だからフラフラしてて、それで事故に遭ったんだと私思ってたんだけど、今思えば、自殺だったってことも考えられない?」
彼氏にフラれたショックでヤケ酒をした彼女が、勢いで自殺をしたのではないかと伊藤は言った。
「いや、もしかしたら、その元彼が犯人てこともあるかも」
中村が新たな視点を持ち出した。何も、犯人があの日一緒に飲んでいた仲間とは限らないのだ。確かに容疑者ではあるが、一緒にいたというだけでは証拠にならない。
「そうだよな。俺たちよりも動機はあるだろうし」
吉田が頷く。中村も吉田も、鈴果とはゼミ仲間以上の関係はなく、殺すような動機もないと主張した。伊藤も友達だから殺す動機などない、と言った。
「その元彼にも話聞いてみろよ」
中村が英知に勧めた。自分たちばかりが疑われるのは納得できないのだろう。英知は「そうですね」と答え、元彼の名前と学部を訊いた。それについては伊藤が教えてくれた。
そこへ、ドアが開いて女性が入ってきた。
「あ、ちょうど木部さんが来たわ」
伊藤が木部を手招きした。
英知たちを不思議そうに見て近付いてきた木部に、英知は先程と同じように自己紹介をして今日ここに来た理由を告げた。それを聞いて木部は眉をひそめた。
「じゃあ、あなたは、私たちの中に犯人がいるって言うの?」
明らかに憤慨した様子で木部は言った。
「そういう訳ではないんですが、あの日最後まで彼女と一緒にいたのがあなたたちだったので。他に辿る方法もありませんし」
英知が鈴果の知り合いであったなら、親しい人間関係などから探っていけるかもしれないが、ついこの間知り合ったばかりで、事件についても概要しか聞かされていない。だからその日最後まで鈴果と一緒にいた人物に当たって遡っていくしか方法がなかった。
「あれは事故だったはずよ。警察の発表もそうだったじゃない。この中に犯人がいるなんて──考えられないわ」
「その日、あなたは飲み会の後、どうされましたか?」
アリバイ?と木部に露骨に嫌そうな顔をされて、一応念のために、とテレビドラマの刑事のように英知は断りを入れた。
「吉田くんに送ってもらったわ。伊藤さんと一緒に。伊藤さんより先に家に着いたから、二人にも訊いてみればわかるわ」
それについては既に確認済みだった。三人の言うことに矛盾はない。
「ところで、あなたは安藤さんに彼がいたのをご存知ですか?」
「ええ。でも、あの飲み会の日、フラれたって聞いたけど」
「そうですか」
英知は頷いて、立ち上がった。
「お時間いただいて、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて協力に礼を言った。研究室を出る前に英知は振り向いた。
「松沢先生は、明日はいらっしゃいますか?」
「学会で東広島市に行ってるけど、明日には戻ると思うわ」
木部が答えた。
「わかりました。では、また明日伺います」
英知と凪は礼をして研究室を出て行った。
それから、鈴果の元彼のもとに向かう。教えてもらった研究室へ行くと、大学生らしき男性が応対した。元彼の名前を出して会いたいと伝えると、今日はもう帰ってしまったとのことだった。明日もまた来るはずだと言うので、応対してくれた学生に礼を言って、明日来ることにした。
「ま、鈴果さんに訊きたいこともあるし、今日のところは帰ろう」
英知に促されて凪はT大学をあとにした。
二人はその足で鈴果に会いに行き、今日のことを話した。今のところ、動機がわからず、犯人の見当がつかない。別れた彼との間にトラブルがなかったかと訊いたが、鈴果の答えはNOだった。何か心当たりがないかと訊く英知に、鈴果は人の恨みを買った覚えなどないと断言した。
「動機って、恨みだけじゃないよね」
凪が考え込んだように言う。
「例えば、誰かの秘密を知ってしまった、とか」
ミステリードラマなどでは時々お目見えする犯行動機だ。
「秘密? うーん…吉田くんと伊藤さんが付き合ってることとか? あと、松沢先生が宝くじで10万当てたとか。でも吉田くんと伊藤さんのは、秘密ってほどでもないし、松沢先生のは、偶然当たりくじを持ってるのを見ただけだし」
学生同士の付き合いなど、秘密ということではない。松沢が宝くじを買っていたというのは、本人も話していなかったから秘密かもしれないが、それを自分が知っているとは松沢は知らないだろうと鈴果は言った。偶然松沢の手帳に挟まっていたのを見つけ、松沢と宝くじがミスマッチで、面白いから番号を控えていたら、それが10万円当たっていたというのだ。だから、飲み会の時に奢ってもらおうと思って、えーと、確か木部さんには、松沢先生の秘密を知ってるからタカろうみたいなことを言った気がするけど。と鈴果は記憶を辿るように言った。
「でも、どっちも人を殺す動機にはならないよね」
凪の言葉に、英知も鈴果も頷いた。そんなことで人殺しなどされてはたまらない。
「それと、もう一つ確認したいことがあるんだけど」
英知は鈴果に切り出した。
2009年初稿、2019年改稿。