黄昏のミラージュ 4
翌日、広瀬はいつものように放課後の補講の準備をしていた。教室に残る生徒たちに声を掛ける。
「五分後には始めるからね」
すると、生徒の一人が言った。
「先生、行かなくていいの?」
「え?」
突然の質問に広瀬は聞き返した。
「昨日来た人、待ってるって言ってたじゃん」
他の生徒が言った。
「あ…あなた達!」
「ごめーん、聞いちゃった」
「話はよく聞こえなかったけど、最後の台詞はバッチリ聞こえたよー」
数人の生徒たちが半ば広瀬をからかうように昨日の話をし出した。
「告白しに来たんじゃないの?」
「違うわよ、彼はそんなんじゃ…」
生徒たちの冷やかしに抗議する広瀬に、それまで黙っていた生徒が言った。
「先生、さっきから時間気にして時計チラチラ見てる」
「えっ!?」
本当のことを言われて広瀬はどきりとした。
「行ったほうがいいんじゃないですか? 補講は明日も出来るんだし」
彼女の言わんとすることはこうだった。補講は今日やらなくても困らない。だけど、今日行かなければ後悔するかもしれない。
広瀬は少し考え込んだようだったが、やがて、意を決したように顔を上げた。
「ごめん、今日は補講休みっ!」
言うや否や、広瀬は教室を飛び出した。
数年前まで見慣れた正門を入り、そのまま第二校舎へ向かう。かつて使っていた下駄箱。人気のない廊下。懐かしい校舎を広瀬は駆け抜けた。そして、毎日のように放課後通っていた生物室のドアが見えた。
広瀬は勢いよく生物室のドアを開けた。
「来たね、先生」
振り向いて広瀬を迎えた英知は、西陽の射す生物室の窓辺に立っていた。広瀬は英知に近付いたが、一色は何処にも見当たらなかった。
「…ここに、本当に一色先生がいるの?」
信じられない様子の広瀬に英知は言った。
「先生を騙しても俺には何の得もないよ。まあ、自分で確かめてみたら解るんじゃない?」
英知は広瀬の背を軽く押して彼女を一歩前に動かした。すると、広瀬の目の前に、一人の人物が現れた。
「先生、長時間話すのは無理だからね」
そう言って英知は二人から離れた。
広瀬は恐る恐る目の前の人物を見上げた。
「…一色先生…?」
淡い陽の光を背に佇むその人物は優しい笑顔を見せた。
「久しぶり、広瀬」
昔と変わらない一色の笑顔だった。
一色と広瀬は、お互い言葉が見つからないようで、暫く黙ったままお互いを見ていた。
「…広瀬、先生になったんだって?」
先に口を開いたのは一色だった。
「…うん。英語の先生になったの」
広瀬は頷いて話し出した。
「本当は一色先生みたいに生物の先生になりたかったんだけど、私、文系だったし、やっぱり英語の方が得意だったから。それにね、自分が好きな教科の方が、その面白さを伝えられるんじゃないかって…」
そこでハッと気付いたように広瀬は自分の言葉を否定した。
「あ! 生物が嫌いな訳じゃないの。ただ、英語の方が得意だから好きって言うか…」
「うん。解ってるよ、広瀬」
慌てて弁解する広瀬に一色は優しく言った。昔と変わらない一色が広瀬は嬉しかったが、何だか切なくもあった。
「…今ね、希望者を募って放課後に補講をしてるの。授業の復習や予習もするけど、それだけじゃなくて、英語圏の文化とかも教えてるの。その方が英語の理解を深められるし、面白いと思うから。それに私自身、教科書の内容より一色先生に教わったことの方がよく覚えてるし…」
広瀬が話している間、一色は優しく頷いて聞いていた。
「…先生みたいな先生になりたくて、教師になったの」
――ねえ、先生、私、少しは先生に近づけた…?
「先生みたいになりたくて…」
――ずっと、ここで私を待っていてくれたの…?
言葉にならない言葉と共に、広瀬の目には熱い液体がこみ上げてきていた。そして、その液体は彼女の頬を伝って落ちた。
「…ごめんね、先生。約束、守らなくて…」
広瀬の頬には、いく筋もの流れが出来ていた。彼女はうつむいて涙を零した。
「もっと早く…会いに来ればよかった…」
不意に、彼女の涙を拭う温もりがあった。広瀬が顔を上げると、一色の手が彼女に触れていた。
「謝るのは僕の方だよ。広瀬が先生になるのを、ちゃんと待っていられなかった…」
広瀬は首を横に振った。
「だって先生、ずっと待っててくれたんでしょ? 私が来るのを…」
一色の手が広瀬の頭に触れた。
「会いに来てくれて、ありがとう、広瀬」
昔と同じ優しい一色の笑顔は、何処か哀しげでもあった。
「…先生、私、先生のことが…」
そこまで言いかけて広瀬は口をつぐんだ。一色が哀しげな笑顔で首を横に振ったからである。
「…それ以上は、お互い、哀しくなるだけだから…」
広瀬は涙を流したまま一色を見つめた。
「…最後に、会えてよかった」
広瀬の心に悲しい予感がよぎった。
「先生…」
一色は、何処か哀しげで、けれどもとても優しい笑顔を見せた。
「広瀬、元気で…」
次第に一色の姿が透けていくのがわかった。西陽に包まれて、金色の光を透過する一色は凄く綺麗で、儚げで、彼が既にこの世のものではないことを広瀬に教えた。そして、別れの瞬間が近付いていることを…。
「…ありがとう、先生。私…っ」
言いかけた言葉を呑み込んでから、広瀬は言った。
「…忘れないから!」
涙でぼやける広瀬の視界で一色が微笑んだ。
「ありがとう、広瀬。…さよなら…」
一色の姿は光に溶けてゆき、いくつかの光を残して消えていった。それはまるで、黄昏に溶ける蜃気楼のように。広瀬は瞳に涙を溜めたままそれを見つめていた。
…さよなら、一色先生…。
広瀬は暫くの間、涙も拭わずに泣き続けた。
2007年初稿、2019年改稿